3-2 言えなかった言葉
「……空哉くん!!」
痛みに顔を歪ませる彼に駆け寄ろうとする。
しかし、私の手が届く前に、蜘蛛の糸が彼の身体を絡め取った。
ぐるぐる巻きにされた空哉くんは、そのまま糸に引き寄せられ……
鋭い牙を向く蜘蛛の口元へと運ばれた。
「まさか……食べるつもり?!」
先ほどの負傷が響いているのか、空哉くんは苦悶の表情を浮かべたまま動かない。
どうしよう……このままじゃ彼が……!
「おい、女!」
その時、シロがこちらに飛んで来た。
「早く『解』の力を解放しろ! 空哉を縛る糸を解くんだ!」
「でも、そんなのどうやって……!」
「心を解き放て! 心の底にある感情を解放するんだ!!」
感情を、解き放つ……
そう言われても、どうすれば良いのかわからない。
そうこうしている間にも、空哉くんはジリジリと蜘蛛の口に近付いてゆく。
「何やってんだ、早くしろ!」
響き渡るシロの怒号。
私の頭が、焦りと混乱にから回る。
嗚呼、どうしてこんなことに?
今日は散々だ。付き合って半年の記念日だったのに。
楽しみにしていた有休は、彼の私物の片付けに消え。
思い出の傘を、自らの手で解体することになって。
そしたら、それがいきなり筆になって。
しかもあの傘は、彼が盗んだもので。
あれよあれよという間に、こんなことに巻き込まれた。
「……なんなのよ、もう」
悲しみが、虚しさが、胸の奥でぐらぐらと湧き上がる。
「ただ真面目に、誠実に生きているだけなのに……どうして上手くいかないの?」
そして……
ずっと秘めていた元カレへの想いが、一気に溢れ出した。
「ドキドキしないって何よ……オカンみたいって何? 全部私のせいみたいな言い方して……あんただってねぇ、いい歳して自分の服も洗濯できないし、ご飯粒は残すし、『急な飲み会が入った』とか言って連絡つかないことが何度もあったし!」
まるで、水風船を割ったかのように噴き出す感情。
目の前では、シロがあんぐりと嘴を開けている。
「あれ、絶対に浮気してたよね!? どうせ私の時みたいにコンパで女の子に声かけて、そのままお持ち帰りしてたんだ! 私をフッたのもそっちが本命になったからでしょ?! ていうか、傘盗むなんて信じらんない! せっかく思い出の傘だったのに……っ」
ぽろっ……と。
溢れる感情が、涙へと変わる。
「本当に最低っ……だけど…………好きだった……楽しいことも、いっぱいあった……っ」
身体が、再び光を放ち始める。
私は涙を拭うのも忘れ、色を失った空に向かって、
「本当は、別れたくなかったっ……まだ一緒にいたかったよぉっ……うわぁああんっ……!」
……と、心のままに叫んだ。
刹那。
――カッ!!
私の全身が、強く発光した。
光は瞬く間に周囲を照らし――空哉くんを縛る糸を、はらりと解いた。
それどころか、蜘蛛の身体までもが、毛糸玉を解すように脚先から形を失ってゆく。
これが、『解』の言霊の力……?
光る両手を見つめ唖然としていると、拘束を解かれた空哉くんの元にシロが飛んで行く。
「空哉、今だ!」
空哉くんは痛みを堪えるように立ち上がり、筆を構える。そして、
「――我、天辞代命の名の下に、『結』を司りし言霊をここに封じる!」
叫んだ。
すると、変身した時に現れた巻き物が再び出現した。
浮遊するその巻き物に、空哉くんが筆を振るい、『結』の字を記す。
筆により描かれた『結』の字は、白い光を放ち……
解けた蜘蛛の巨体を、しゅるりと吸い込んだ。
――直後、周囲の景色に色が戻った。
ゴミ収集車が発進する、ブロロという音が響く。
私は、急に夢から覚めたように呆然とするが……
「おい、空哉! しっかりしろ!」
響き渡るシロの声に、ハッとなる。
そこには、元のパーカー姿に戻った空哉くんが、力なく倒れていた。