2-1 鴉と青年
私は、咄嗟に傘を手放す。
「ななな……何事……?!」
床に転がってもなお光り続ける傘から逃げるように、私はリビングへ退避する。
そして、ドアの陰から様子を窺うと……光はピカピカと明滅し、やがて消えた。
「…………」
警戒しながら、恐る恐る廊下を進み、傘を覗く。
が、そこにあったはずの傘はなく……
代わりに、大きな筆のようなものが転がっていた。
艶々した金色の持ち手。そこに、象形文字のような紋様が彫刻されている。先端の毛は、白馬の尾のようにふさふさとしていて太い。
傘程の長さもある巨大な筆に、私は少し前にテレビで視た書道パフォーマンスを思い出す。
大きな紙に、全身を使って書を認める、あれ。そうだ。ちょうどあれに使われるような大きさの筆だ。
……で? そんな特殊な筆が、どうしてここに?
というか、傘はどこへ?
まさか……
今の光と共に、あの傘が、この筆に変わっちゃったとか……?
私は、ぞっと身体を震わせる。
元カレがマジシャンだったなら、これも手品の道具だと納得できたのだが、残念ながらそのような事実はない。
となると……
これは、人智を超えた超常現象。
傘が筆に変わるなんて、昔ばなしにでもありそうな珍事だ。
つまり、私って今……妖怪か何に化かされている?
「…………!」
ぞわわっと鳥肌を立て、キッチンへ駆け込む。
そして鍋つかみをひったくると、軍手の上からそれを嵌め、玄関に戻り、
「……えいっ!」
軍手と鍋つかみで最大限防御した手で、謎の筆を掴んだ。
そのまま玄関を開け、外へ飛び出す。
時刻は朝九時前。ゴミ収集車が来るのにギリギリ間に合う時間だ。
一刻も早く、この不気味な筆を処分しなくては。
その一心で、私はマンションの階段を駆け下りた。
一階の正面玄関から外に出て、ゴミの集積所へ向かうと、ちょうど収集車が停車し、作業員さんがゴミを回収しているところだった。
よかった、間に合った……!
私は安堵し、作業員さんに声をかけようとする――が。
刹那、私の目の前を、黒い影が掠めた。
思わず目を瞑り、身を守るように手を掲げ……気付く。
その一瞬で、手元にあった筆が消えたことに。
周囲を見回すと、頭上を一羽のカラスが飛んでいた。
脚に、大きな筆を掴んでいるのが見える。どうやらあのカラスに奪われたらしい。
呆気に取られながらカラスを目で追うと……飛んで行った先に、自転車に乗った人物が一人、現れた。
若い男の子だった。大学生くらいだろうか。身に纏うのは水色のパーカーと藍色のジーンズ。茶色の短髪が風にサラサラと揺れている。爽やかな印象の、整った顔立ちをしていた。
そんな青年が、カラスの脚から離れた筆をパッと掴み、
「やっと見つけた……俺の『封字弥筆』……!」
声を震わせ、そう言った。
どうやらあの筆について知っているみたいだけど……それを尋ねる前に、私は言葉を失った。
何故なら、
「あの女が持ってたぜ。あいつが盗んだ犯人か?」
……と。
自転車のカゴに止まったカラスが、渋い声で喋ったから。
「えっ?!」
驚きのあまり声を上げると、青年がこちらに目を向け、自転車を押し近付いてきた。
「いや、筆に戻っているってことは、もしかして……」
何やら呟きながら、青年がまじまじと私を見つめる。近くで見るとますます美形で、私は思わず後退りした。
青年は、その綺麗な顔を真剣に引き締め、
「……この筆を元に戻してくれたのは、あなたですね?」
そう尋ねてきた。
私は混乱しつつも、なんとか言葉を探す。
「よ、よくわからないけど……捨てるために傘を分解していたら、突然筆になって……」
「やっぱり!」
青年は、ぱぁっと顔を輝かせ、
「あなたは『解』の言霊に選ばれた人! だから呪いを『解』くことができたんだ!」
という、訳のわからない言葉を口走った。