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君と風の行方  作者: 月見饅頭
第一章

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09 遅刻

 

 学校……行きたくないな。


 布団から体を起こす時、その思いが頭の中で渦を巻いていた。窓の外は冬の冷たい空気が街を覆い、灰色の雲が低く垂れ込めている。


 理由も分からないまま振られて、同じ教室で顔を合わせるなんて無理だと思った。毎日同じ空間で過ごし、偶然目が合ってしまう瞬間を考えるだけで胸が締め付けられる。


 もし違う学校やクラスだったら、少しはやり過ごせたかもしれない。だが今の俺には、この現実が重すぎる。一日一日が長く、息苦しい。


 制服を着て、形だけの登校準備を終えた俺は、家を出てそのまま駅へと向かった。母親には「行ってきます」と告げたが、行き場所は決めていなかった。


 電車に乗る気もない。ただぼんやりと時間を潰したかっただけだ。冷たい空気を吸い込みながら、頭の中を整理したかった。


 電車がホームに滑り込む音が響く。銀色の車体が光を反射して、一瞬まぶしく感じた。行き先なんて決めていないし、どこへ行ったところで何も変わらない。この胸の痛みが消えるわけでもない。


「……俺、何やってんだろうな」


 つぶやいた言葉は、冷たい冬の空気に溶けていった。吐き出した息が白い霧となって消えていく。


 ホームのベンチに座り込み、ぼんやりと線路を見つめる。通勤客や学生たちが次々と電車に乗っていく。みんな行くべき場所があって、迷わず進んでいるように見える。


 ふとカバンを探ると、指先に固いものが触れた。


 黒い包み――――白松さんがくれたクリスマスの帽子だ。プレゼントされた日から一度も被っていないのに、なぜか今日、無意識にカバンに入れていた。


「似合ってたから」


 あの時、そう言って笑ってくれた彼女の顔が脳裏に浮かぶ。街灯に照らされた彼女の笑顔は、冬の寒さを忘れさせるほど暖かかった。その記憶が今は痛みを伴う。


「似合ってたって……もう被るなってことだったのかよ」


 苦笑しながら帽子を握りしめる。手の中で布地がしわくちゃになっていく。

 胸の奥がじんわりと痛んだ。そして、その痛みは徐々に広がっていく。


 そのとき、背後から声が聞こえた。


「……桜井か?」


 振り返ると、鈴木が立っていた。


「お前、こんなとこで何してんだよ。学校は?」


 彼の視線が俺の制服姿を上から下まで見渡す。時計を見れば、とっくに始業時間は過ぎている。


「……別に、なんでもない。それより、お前こそこんな時間にどうしたんだ?」


 心の中を見透かされるような気がして、つい言葉を濁してしまう。鈴木の目をまともに見られなかった。


「いや、体育ジャージ忘れてさ。朝、駅まで来て気づいて、家に取りに戻ったんだよ」

「それで遅刻してんのか?」


 鈴木は無言で親指を立ててニカッと笑うと、俺の隣に腰を下ろした。重みでベンチが軋む音がした。

 手に持っていた缶おしるこを差し出してくる。


「飲めよ。温かいぞ」

「……さんきゅ」


 缶を受け取って一口飲むと、甘さと温かさが喉を通り抜けていった。甘すぎるきな粉の匂いと熱さが、少しだけ心をほぐしてくれる気がした。


「で、何があったんだ?」


 鈴木は軽い調子で問いかけるが、その目は真剣だった。いつもふざけている彼だが、こういう時だけはまっすぐに人の目を見る。


「……別に、大したことじゃないよ」


 そう言いながらも、俺はぽつぽつと話し始めた。これまで誰にも話せなかったことが、不思議と言葉になっていく。

 白松さんとのこと。突然別れを告げられたこと。


「理由も分からず振られてさ。同じクラスで毎日顔を合わせるのが、正直しんどいんだよ。どんな顔すればいいのかも分からない」


 缶おしるこを握る手に力が入る。熱さで手のひらが赤くなっていたが、その痛みさえも遠くに感じた。


 鈴木は俺の話を黙って聞いていた。いつもの賑やかさはどこへやら、静かに隣に座っている。

 そして、静かに言った。


「……それ、白松も同じかもな」

「は?」


 意外な言葉に、思わず顔を上げる。


「お前が苦しいって思ってる分、白松も何か抱えてるんじゃねえのか? 俺から見ても、最近のあいつ、元気なさそうだったぞ」


 その言葉に、一瞬言葉を失った。確かに最近の彼女は、廊下ですれ違っても俯き加減だった。けれど、それは俺のせいだと思っていた。


「……いや、でも」


「でも、じゃねえよ。白松が理由もなく急に別れ話してきたと思うか?お前も分かってんだろ、あいつがそういうことするわけねえって」


 確かに。

 彼女の笑顔がどこかぎこちなかったのは俺も気づいていた。別れ話の時も、どこか遠くを見るような目をしていた。彼女が何かを隠しているように感じていたのに、それ以上踏み込む勇気がなかった。怖かったんだ。本当の理由を知るのが。


「それでもさ、何も言ってくれないんだぜ。こっちから聞いても、『ごめんね』って一言だけで」

「そんときは待つしかねえだろ。無理に聞き出そうとしても、かえって壁作っちまうぞ」


 鈴木は立ち上がり、大げさに腕を伸ばして背中をそらした。冬の朝日が彼の背中を照らしている。


「お前があんまり暗くしてると、余計に白松も話しづらくなるんじゃねえの? 自分のことで精いっぱいなのに、お前の気持ちまで考えられないだろ。ほら、とりあえず学校行こうぜ。俺も一緒に行ってやるからよ」


 俺はしばらく黙っていたが、最後には立ち上がった。空いた缶をゴミ箱に捨てる。


「……鈴木、ありがとな」

「何感動してんだよ。さっさと行くぞ! 一時間目終わるぞ」


 鈴木の背中を追いながら歩き出すと、心が少し軽くなった気がした。普段から明るく騒がしい彼だが、こんな時に頼りになるとは思わなかった。



 学校に着くと、教室ではすでに授業が始まっていた。ドアを開けると、先生と生徒たちの視線が一斉にこちらを向く。居心地の悪さに肩が縮む。


「すみません、遅れました」


 言いながら頭を下げる。鈴木も隣で同じように謝っていた。


 先生は少し呆れた表情を浮かべたが、「席に着きなさい」と短く言っただけだった。おそらく鈴木が朝連絡していたからだろう。


 ふと教室を見渡してみると――白松さんの姿はなかった。

 その事実に、胸がざわついた。不安と安堵が入り混じる複雑な感情だ。


 鈴木の言葉を思い返す。

 彼女も苦しんでいるかもしれない……。


 でも、どうすればいいのか分からないまま、席について授業を受けるしかなかった。教科書を開いても、先生の言葉は耳に入ってこない。


 帰り道、冬の風が肌を刺すように冷たい。空は早くも夕暮れに染まり始めていた。


「白松さん……何を抱えてるんだろう」


 彼女にとって俺が、そして俺との関係が、重荷になってしまったのだろうか――そんな考えが頭をよぎる。俺自身もどこか彼女に甘えていたのかもしれない。何も気づかないふりをして。


 けれど、どうしても彼女の気持ちを知りたいと思う自分もいる。俺にできることがあるなら、何でもしたい。


 次の日、もし彼女が学校に来たら、もう一度話をするべきなのか?

 それとも、鈴木の言うように、待つべきなのか?


 風に流れる雲を見上げながら、答えの出ない問いが胸の中で渦を巻いていた。空は広く、答えを持っていなかった。


 カバンから取り出した黒い帽子を見つめる。この帽子に込められた彼女の気持ちは、今もまだ変わらないものなのだろうか。


「雪が降りそうだ……」


 つぶやきは風に溶けて消えていった。


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