遅刻
学校……行きたくないな。
布団から体を起こす時、その思いが頭の中で渦を巻いていた。窓の外は冬の冷たい空気が街を覆い、灰色の雲が低く垂れ込めている。
理由も分からないまま振られて、同じ教室で顔を合わせるなんて無理だと思った。毎日同じ空間で過ごし、偶然目が合ってしまう瞬間を考えるだけで胸が締め付けられる。
もし違う学校やクラスだったら、少しはやり過ごせたかもしれない。だが今の俺には、この現実が重すぎる。一日一日が長く、息苦しい。
制服を着て、形だけの登校準備を終えた俺は、家を出てそのまま駅へと向かった。母親には「行ってきます」と告げたが、行き場所は決めていなかった。
電車に乗る気もない。ただぼんやりと時間を潰したかっただけだ。冷たい空気を吸い込みながら、頭の中を整理したかった。
電車がホームに滑り込む音が響く。銀色の車体が光を反射して、一瞬まぶしく感じた。行き先なんて決めていないし、どこへ行ったところで何も変わらない。この胸の痛みが消えるわけでもない。
「……俺、何やってんだろうな」
つぶやいた言葉は、冷たい冬の空気に溶けていった。吐き出した息が白い霧となって消えていく。
ホームのベンチに座り込み、ぼんやりと線路を見つめる。通勤客や学生たちが次々と電車に乗っていく。みんな行くべき場所があって、迷わず進んでいるように見える。
ふとカバンを探ると、指先に固いものが触れた。
黒い包み――白松さんがくれたクリスマスの帽子だ。プレゼントされた日から一度も被っていないのに、なぜか今日、無意識にカバンに入れていた。
「似合ってたから」
あの時、そう言って笑ってくれた彼女の顔が脳裏に浮かぶ。街灯に照らされた彼女の笑顔は、冬の寒さを忘れさせるほど暖かかった。その記憶が今は痛みを伴う。
「似合ってたって……もう被るなってことだったのかよ」
苦笑しながら帽子を握りしめる。手の中で布地がしわくちゃになっていく。
胸の奥がじんわりと痛んだ。そして、その痛みは徐々に広がっていく。
そのとき、背後から声が聞こえた。
「……桜井か?」
振り返ると、鈴木が立っていた。
「お前、こんなとこで何してんだよ。学校は?」
彼の視線が俺の制服姿を上から下まで見渡す。時計を見れば、とっくに始業時間は過ぎている。
「……別に、なんでもない。それより、お前こそこんな時間にどうしたんだ?」
心の中を見透かされるような気がして、つい言葉を濁してしまう。鈴木の目をまともに見られなかった。
「いや、体育ジャージ忘れてさ。朝、駅まで来て気づいて、家に取りに戻ったんだよ」
「それで遅刻してんのか?」
鈴木は無言で親指を立ててニカッと笑うと、俺の隣に腰を下ろした。重みでベンチが軋む音がした。
手に持っていた缶おしるこを差し出してくる。
「飲めよ。温かいぞ」
「……さんきゅ」
缶を受け取って一口飲むと、甘さと温かさが喉を通り抜けていった。甘すぎるきな粉の匂いと熱さが、少しだけ心をほぐしてくれる気がした。
「で、何があったんだ?」
鈴木は軽い調子で問いかけるが、その目は真剣だった。いつもふざけている彼だが、こういう時だけはまっすぐに人の目を見る。
「……別に、大したことじゃないよ」
そう言いながらも、俺はぽつぽつと話し始めた。これまで誰にも話せなかったことが、不思議と言葉になっていく。
白松さんとのこと。突然別れを告げられたこと。
「理由も分からず振られてさ。同じクラスで毎日顔を合わせるのが、正直しんどいんだよ。どんな顔すればいいのかも分からない」
缶おしるこを握る手に力が入る。熱さで手のひらが赤くなっていたが、その痛みさえも遠くに感じた。
鈴木は俺の話を黙って聞いていた。いつもの賑やかさはどこへやら、静かに隣に座っている。
そして、静かに言った。
「……それ、白松も同じかもな」
「は?」
意外な言葉に、思わず顔を上げる。
「お前が苦しいって思ってる分、白松も何か抱えてるんじゃねえのか? 俺から見ても、最近のあいつ、元気なさそうだったぞ」
その言葉に、一瞬言葉を失った。確かに最近の彼女は、廊下ですれ違っても俯き加減だった。けれど、それは俺のせいだと思っていた。
「……いや、でも」
「でも、じゃねえよ。白松が理由もなく急に別れ話してきたと思うか?お前も分かってんだろ、あいつがそういうことするわけねえって」
確かに。
彼女の笑顔がどこかぎこちなかったのは俺も気づいていた。別れ話の時も、どこか遠くを見るような目をしていた。彼女が何かを隠しているように感じていたのに、それ以上踏み込む勇気がなかった。怖かったんだ。本当の理由を知るのが。
「それでもさ、何も言ってくれないんだぜ。こっちから聞いても、『ごめんね』って一言だけで」
「そんときは待つしかねえだろ。無理に聞き出そうとしても、かえって壁作っちまうぞ」
鈴木は立ち上がり、大げさに腕を伸ばして背中をそらした。冬の朝日が彼の背中を照らしている。
「お前があんまり暗くしてると、余計に白松も話しづらくなるんじゃねえの? 自分のことで精いっぱいなのに、お前の気持ちまで考えられないだろ。ほら、とりあえず学校行こうぜ。俺も一緒に行ってやるからよ」
俺はしばらく黙っていたが、最後には立ち上がった。空いた缶をゴミ箱に捨てる。
「……鈴木、ありがとな」
「何感動してんだよ。さっさと行くぞ! 一時間目終わるぞ」
鈴木の背中を追いながら歩き出すと、心が少し軽くなった気がした。普段から明るく騒がしい彼だが、こんな時に頼りになるとは思わなかった。
学校に着くと、教室ではすでに授業が始まっていた。ドアを開けると、先生と生徒たちの視線が一斉にこちらを向く。居心地の悪さに肩が縮む。
「すみません、遅れました」
言いながら頭を下げる。鈴木も隣で同じように謝っていた。
先生は少し呆れた表情を浮かべたが、「席に着きなさい」と短く言っただけだった。おそらく鈴木が朝連絡していたからだろう。
ふと教室を見渡してみると――白松さんの姿はなかった。
その事実に、胸がざわついた。不安と安堵が入り混じる複雑な感情だ。
鈴木の言葉を思い返す。
彼女も苦しんでいるかもしれない……。
でも、どうすればいいのか分からないまま、席について授業を受けるしかなかった。教科書を開いても、先生の言葉は耳に入ってこない。
帰り道、冬の風が肌を刺すように冷たい。空は早くも夕暮れに染まり始めていた。
「白松さん……何を抱えてるんだろう」
彼女にとって俺が、そして俺との関係が、重荷になってしまったのだろうか――そんな考えが頭をよぎる。俺自身もどこか彼女に甘えていたのかもしれない。何も気づかないふりをして。
けれど、どうしても彼女の気持ちを知りたいと思う自分もいる。俺にできることがあるなら、何でもしたい。
次の日、もし彼女が学校に来たら、もう一度話をするべきなのか?
それとも、鈴木の言うように、待つべきなのか?
風に流れる雲を見上げながら、答えの出ない問いが胸の中で渦を巻いていた。空は広く、答えを持っていなかった。
カバンから取り出した黒い帽子を見つめる。この帽子に込められた彼女の気持ちは、今もまだ変わらないものなのだろうか。
「雪が降りそうだ……」
つぶやきは風に溶けて消えていった。




