表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/41

遅刻

 

 学校……行きたくないな。


 布団から体を起こす時、その思いが頭の中で渦を巻いていた。窓の外は冬の冷たい空気が街を覆い、灰色の雲が低く垂れ込めている。



 理由も分からないまま振られて、同じ教室で顔を合わせるなんて無理だと思った。毎日同じ空間で過ごし、偶然目が合ってしまう瞬間を考えるだけで胸が締め付けられる。



 もし違う学校やクラスだったら、少しはやり過ごせたかもしれない。だが今の俺には、この現実が重すぎる。一日一日が長く、息苦しい。


 制服を着て、形だけの登校準備を終えた俺は、家を出てそのまま駅へと向かった。母親には「行ってきます」と告げたが、行き場所は決めていなかった。



 電車に乗る気もない。ただぼんやりと時間を潰したかっただけだ。冷たい空気を吸い込みながら、頭の中を整理したかった。



 電車がホームに滑り込む音が響く。銀色の車体が光を反射して、一瞬まぶしく感じた。行き先なんて決めていないし、どこへ行ったところで何も変わらない。この胸の痛みが消えるわけでもない。



「……俺、何やってんだろうな」



 つぶやいた言葉は、冷たい冬の空気に溶けていった。吐き出した息が白い霧となって消えていく。


 ホームのベンチに座り込み、ぼんやりと線路を見つめる。通勤客や学生たちが次々と電車に乗っていく。みんな行くべき場所があって、迷わず進んでいるように見える。



 ふとカバンを探ると、指先に固いものが触れた。


 黒い包み――白松さんがくれたクリスマスの帽子だ。プレゼントされた日から一度も被っていないのに、なぜか今日、無意識にカバンに入れていた。



「似合ってたから」



 あの時、そう言って笑ってくれた彼女の顔が脳裏に浮かぶ。街灯に照らされた彼女の笑顔は、冬の寒さを忘れさせるほど暖かかった。その記憶が今は痛みを伴う。



「似合ってたって……もう被るなってことだったのかよ」



 苦笑しながら帽子を握りしめる。手の中で布地がしわくちゃになっていく。

 胸の奥がじんわりと痛んだ。そして、その痛みは徐々に広がっていく。


 そのとき、背後から声が聞こえた。



「……桜井か?」



 振り返ると、鈴木が立っていた。



「お前、こんなとこで何してんだよ。学校は?」



 彼の視線が俺の制服姿を上から下まで見渡す。時計を見れば、とっくに始業時間は過ぎている。



「……別に、なんでもない。それより、お前こそこんな時間にどうしたんだ?」



 心の中を見透かされるような気がして、つい言葉を濁してしまう。鈴木の目をまともに見られなかった。



「いや、体育ジャージ忘れてさ。朝、駅まで来て気づいて、家に取りに戻ったんだよ」



「それで遅刻してんのか?」



 鈴木は無言で親指を立ててニカッと笑うと、俺の隣に腰を下ろした。重みでベンチが軋む音がした。

 手に持っていた缶おしるこを差し出してくる。



「飲めよ。温かいぞ」



「……さんきゅ」



 缶を受け取って一口飲むと、甘さと温かさが喉を通り抜けていった。甘すぎるきな粉の匂いと熱さが、少しだけ心をほぐしてくれる気がした。



「で、何があったんだ?」



 鈴木は軽い調子で問いかけるが、その目は真剣だった。いつもふざけている彼だが、こういう時だけはまっすぐに人の目を見る。



「……別に、大したことじゃないよ」



 そう言いながらも、俺はぽつぽつと話し始めた。これまで誰にも話せなかったことが、不思議と言葉になっていく。


 白松さんとのこと。突然別れを告げられたこと。



「理由も分からず振られてさ。同じクラスで毎日顔を合わせるのが、正直しんどいんだよ。どんな顔すればいいのかも分からない」



 缶おしるこを握る手に力が入る。熱さで手のひらが赤くなっていたが、その痛みさえも遠くに感じた。


 鈴木は俺の話を黙って聞いていた。いつもの賑やかさはどこへやら、静かに隣に座っている。

 そして、静かに言った。



「……それ、白松も同じかもな」



「は?」



 意外な言葉に、思わず顔を上げる。



「お前が苦しいって思ってる分、白松も何か抱えてるんじゃねえのか? 俺から見ても、最近のあいつ、元気なさそうだったぞ」



 その言葉に、一瞬言葉を失った。確かに最近の彼女は、廊下ですれ違っても俯き加減だった。けれど、それは俺のせいだと思っていた。



「……いや、でも」



「でも、じゃねえよ。白松が理由もなく急に別れ話してきたと思うか?お前も分かってんだろ、あいつがそういうことするわけねえって」



 確かに。


 彼女の笑顔がどこかぎこちなかったのは俺も気づいていた。別れ話の時も、どこか遠くを見るような目をしていた。彼女が何かを隠しているように感じていたのに、それ以上踏み込む勇気がなかった。怖かったんだ。本当の理由を知るのが。




「それでもさ、何も言ってくれないんだぜ。こっちから聞いても、『ごめんね』って一言だけで」



「そんときは待つしかねえだろ。無理に聞き出そうとしても、かえって壁作っちまうぞ」



 鈴木は立ち上がり、大げさに腕を伸ばして背中をそらした。冬の朝日が彼の背中を照らしている。



「お前があんまり暗くしてると、余計に白松も話しづらくなるんじゃねえの? 自分のことで精いっぱいなのに、お前の気持ちまで考えられないだろ。ほら、とりあえず学校行こうぜ。俺も一緒に行ってやるからよ」



 俺はしばらく黙っていたが、最後には立ち上がった。空いた缶をゴミ箱に捨てる。



「……鈴木、ありがとな」



「何感動してんだよ。さっさと行くぞ! 一時間目終わるぞ」



 鈴木の背中を追いながら歩き出すと、心が少し軽くなった気がした。普段から明るく騒がしい彼だが、こんな時に頼りになるとは思わなかった。



 学校に着くと、教室ではすでに授業が始まっていた。ドアを開けると、先生と生徒たちの視線が一斉にこちらを向く。居心地の悪さに肩が縮む。



「すみません、遅れました」



 言いながら頭を下げる。鈴木も隣で同じように謝っていた。



 先生は少し呆れた表情を浮かべたが、「席に着きなさい」と短く言っただけだった。おそらく鈴木が朝連絡していたからだろう。



 ふと教室を見渡してみると――白松さんの姿はなかった。

 その事実に、胸がざわついた。不安と安堵が入り混じる複雑な感情だ。




 鈴木の言葉を思い返す。

 彼女も苦しんでいるかもしれない……。



 でも、どうすればいいのか分からないまま、席について授業を受けるしかなかった。教科書を開いても、先生の言葉は耳に入ってこない。



 帰り道、冬の風が肌を刺すように冷たい。空は早くも夕暮れに染まり始めていた。



「白松さん……何を抱えてるんだろう」



 彼女にとって俺が、そして俺との関係が、重荷になってしまったのだろうか――そんな考えが頭をよぎる。俺自身もどこか彼女に甘えていたのかもしれない。何も気づかないふりをして。



 けれど、どうしても彼女の気持ちを知りたいと思う自分もいる。俺にできることがあるなら、何でもしたい。


 次の日、もし彼女が学校に来たら、もう一度話をするべきなのか?

 それとも、鈴木の言うように、待つべきなのか?



 風に流れる雲を見上げながら、答えの出ない問いが胸の中で渦を巻いていた。空は広く、答えを持っていなかった。



 カバンから取り出した黒い帽子を見つめる。この帽子に込められた彼女の気持ちは、今もまだ変わらないものなのだろうか。



「雪が降りそうだ……」


 つぶやきは風に溶けて消えていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ