風の中の想い
12月17日――クリスマスイブまであと一週間。
風が運ぶ冷気が頬を撫でる。夕暮れ時の校舎は、すでに影を落とし始めていた。窓から漏れる光は、まるで自分の心のように揺らめいている。
このタイミングを逃せば、少なくとも年明けまで白松さんと会えない気がする。いや、それだけじゃない。もし年が明けてしまったら、他の男が彼女にアプローチしてくる可能性だってある。そんな考えが頭をよぎり、胸がざわつく。中でも、学校祭の後に彼女と話していた背の高い先輩の顔が脳裏をよぎる。
「……もう、これ以上は待てない」
想いを胸に秘めたままにしておくのは、正直苦しかった。毎日彼女を見るたび、言葉にできない何かが喉元までせり上がってくる感覚。だから、思い切って告白しよう――そう決意した時、不思議と心が落ち着いた。
場所は、学校近くを流れる川に架かる橋の上。冬の冷たい風が吹く静かな場所なら、きっと落ち着いて話せるだろうと思ったからだ。それに、この橋は俺たちが初めて二人きりで話した場所でもある。
空には薄く雲が広がり、夕日が雲の隙間から漏れ出す光景は、まるで絵画のようだった。橋の上で、俺は身震いしながら彼女を待っていた。冬の風は想像以上に冷たく、手袋を持ってこなかったことを後悔する。凍えた指先をこすりながら、何度も練習した言葉を繰り返し唱える。
「……そろそろかな」
そう呟いた矢先、自転車のライトが近づいてくるのが見えた。やってきたのは、間違いなく白松さんだ。自転車に乗る彼女のシルエットは、どこか儚げでありながら凛としていて、心臓が早鐘を打ち始めた。
白松さんは自転車を止めると、少し息を切らしながら近づいてきた。
「年末の忙しい時に呼び出してごめん」
「ううん、大丈夫」
寒さに少し赤くなった頬でそう答える彼女。マフラーに半分埋もれた唇が微かに震えているのが見えた。その顔を見た瞬間、俺の心臓は跳ねた。青くなりかけた空に、ふたりの息が白い雲となって溶けていく。
深呼吸して覚悟を決める。今まで生きてきた中で、これほど緊張した瞬間はなかった。
「もう分かってるかもしれないけど……白松さんのことが好きだ。学校祭のときから、いや、もっと前から。良ければ、付き合ってください」
俺の声が風に消されないように、少し大きめに言った。自分の声がどこか遠くから聴こえてくるような感覚。
彼女は驚いたように目を見開いたあと、少し恥ずかしそうに微笑む。そして彼女の瞳に、僅かな涙が浮かんだように見えた。
「……わ、私もです……好きです。学校祭の準備の時から、ずっと……よろしくお願いします」
その言葉に、胸が熱くなる。まるで長い間閉じ込められていた何かが、一気に解放されたような感覚。
「はは……ありがとう……ありがとう!」
嬉しさが溢れ出して、思わず声に出てしまった。言葉にならない思いが胸いっぱいに広がる。
「クスクス……桜井くんって、本当に正直だよね。いつも思ったこと、そのまま表に出しちゃう」
彼女が柔らかく笑うのを見て、俺は思わず彼女を抱きしめた。彼女の体温が、冷えた体を温めていく。
「だから好きなんだ」
彼女の耳元で囁くと、彼女の体が小さく震えた。
こうして俺たちは、クリスマスイブにデートの約束をすることになった。川面に映る街灯の光が、まるで祝福するように揺れていた。
デートの準備を進める中、バイトの控室で鈴木に絡まれる。
「なぁ、桜井。クリスマスプレゼント、何にするつもりだ?」
鈴木は何でも知っている。まるで彼の目は、俺の心の中を覗き込んでいるかのようだ。
「もう決めてる。ネックレスだよ。……ずっと一緒って意味があるらしい」
「ほほう……青春だねぇ。どこで買うんだよ? 俺もその案使わせてもらうかな」
「たまには自分で考えろよな」
軽口を叩き合いながらも、鈴木の表情にはどこか嬉しそうな色が浮かんでいる。時には生意気で煙たいこともあるが、いざという時には頼りになる存在。
「とにかく桜井が白松とくっついてくれて、俺は安心したよ」
「鈴木……」
いつものふざけた調子ではなく、真面目な言葉に少し驚いた。けれど、なんだかんだ言いながらも鈴木が俺のことを気にかけてくれているのが伝わって、胸がじんとした。中学時代からの俺を理解し、誰よりも気にかけてくれていたのは鈴木だった。
「鈴木も先輩とのクリスマス、うまくいくといいな」
「さんきゅー」
彼はいつもの調子で手を振り、次のシフトに入っていった。その背中に向かって、心の中で「ありがとう」と呟いた。
午後、待ち合わせた駅で俺は緊張しながら彼女を待っていた。クリスマスシーズンの駅前広場は、カップルで溢れかえっている。彼らの幸せそうな顔を見るたび、自分もその一員になるんだという実感が湧いてくる。
「ごめん、待った?」
後ろから聞こえた柔らかい声に振り返る。
「ううん、来たところだよ」
そう言って振り向いた彼女の姿に、一瞬息を呑んだ。
白松さんが帽子を被っているのを初めて見た。モノトーンでまとめたシックなコーディネートは、大人っぽさと可愛さが絶妙なバランスで混ざり合っている。いつもの制服姿とはまた違った魅力に、言葉を失う。
「……似合ってるよ」
やっと絞り出した言葉に、彼女は少しだけ照れたように微笑んだ。
「ありがとう」
街歩きデートは、俺にとって夢みたいな時間だった。人混みの中で自然と手を繋いだ瞬間、彼女の温もりが全身に広がった。
「クレープ、半分こしようか?」
「うん!」
そんな何気ない会話を交わしながら、2人で1つのクレープを分け合う。彼女の唇に付いたクリームを指先で拭ってあげると、彼女は頬を赤らめた。
小さな動物園ではリスに餌をあげたり、池のボートに乗ってわざと揺らしてみたり……。
「桜井くん、揺らしすぎ!」
彼女の驚いた表情と笑顔が混ざり合う様子に、胸がいっぱいになる。
「はは、悪い悪い」
彼女の肩に手を回し、安心させるように抱き寄せる。その瞬間、彼女の香りが鼻をくすぐった。ほのかなラベンダーの香り——彼女のシャンプーの匂いだろうか。
彼女といると、どんなことでも楽しい。そして同時に、こんな日常が続くことを願わずにはいられない。
日が沈む頃、公園のベンチに腰掛けた。夕暮れ時の街は、クリスマスの装飾で輝いている。人々の笑い声や会話が遠くから聞こえてくる。
俺は意を決してポケットの中の小さな箱を取り出した。何度も店員さんに相談して選んだネックレスだ。
「タイミングが分からなかったけど、これ。クリスマスプレゼント」
彼女が驚いた顔で受け取る。小さな箱を手に、彼女の瞳が輝いた。
「……ありがとう。私からも、これ」
彼女から手渡されたのは、黒い袋。事前に用意してくれていたことに胸が熱くなる。
「開けていい?」
袋を開けると、中には俺にぴったりの帽子が入っていた。文化祭の準備で使った、あの帽子によく似ている。
「学校祭のときに被ってたじゃない?……似合ってたから」
彼女がそう言った時、文化祭での記憶が蘇る。あの日、俺たちは初めて長い時間を二人で過ごした。その記憶を彼女も大切にしていてくれたことに、言葉にならない感動が込み上げる。
「俺のプレゼントも開けてよ」
彼女がそっと箱を開け、中に入ったシルバーのネックレスを見た瞬間、「きれい…」と小さく呟いた。
「……ネックレスだ」
彼女が感動したように目を輝かせる。その瞳に灯る光が、俺の心を震わせた。
「付けていい?」
「待って、俺が付けるよ」
そっと彼女の首に手を伸ばし、ネックレスを付けてあげた。震える指先で、何度か留め具を外してしまう。その度に彼女は「大丈夫、焦らなくて」と優しく笑った。
ようやくネックレスを付け終えると、彼女が首元を撫でるようにチェーンに触れた。その仕草に、心臓がバクバクと跳ねる。
不意に、彼女の無防備な唇が目に入った。街灯の光に照らされて、艶やかに輝いている。
「……白松さん」
気づけば俺は、彼女にキスをしていた。優しく、ゆっくりと。時間が止まったかのような感覚。彼女の唇の柔らかさと温かさが、全身を包み込む。
ずっとこうしていたい――そう思ったが、少しして彼女がそっと顔を背ける。頬を赤く染め、少し息を荒げる彼女。その姿に、胸がきゅっと締め付けられる。
「……ありがとう」
彼女の声に、少し照れくさくなって「こっちこそ」と言葉を返す。彼女の首元で揺れるネックレスが、街灯の光を反射して輝いていた。
プレゼントを交換した後、寒さが増してきた空の下を並んで歩く。肩が触れ合うほどの距離感。その近さが、まだ少し照れくさい。
「この先の目標とかってある?」
彼女が不意にそう尋ねてきた。将来のことを考える彼女の真剣な眼差しに、自分もちゃんと答えなければという思いが強まる。
「例えば?」
「私は、文章を書く仕事をしてみたいなって。昔からそういうのが好きで。小さい頃から日記をつけてるの」
彼女の話す様子からは、純粋な憧れが伝わってくる。そういえば、彼女は国語の授業でもいつも熱心にノートを取っていたな。
「夢を作る仕事か……いいね。白百合さんらしい」
「しらゆりさん、って?」
「白松百合子さん、略して白百合さん。俺の中ではそう呼んでる」
彼女が「クスクス」と笑うのを見て、俺もつられて笑った。初めて考えた渾名を口にして、少し恥ずかしい気持ちになる。でも、彼女が喜んでくれたことで、その気持ちは吹き飛んだ。
「俺は……ビッグになりたい、かな」
「ビッグって、どういうこと?」
「分かんないけど、でっかいことをしたいって思うんだ」
正直、まだ具体的な夢はない。ただ、このままの自分ではダメだという思いだけがある。両親の離婚を経て、自分の無力さを痛感した日々。その経験が、俺を「大きくなりたい」という漠然とした願望に駆り立てている。
「夢が詰まってるわね」
「うん、ビッグになって白百合さんと……」
ゴニョゴニョと言葉を濁した俺に、彼女がくすっと笑う。寒さにも関わらず、頬が熱くなるのを感じた。
「私、待つよ。桜井くんがビッグになるまで」
彼女の真剣な眼差しに、応えなければという思いがより強くなる。
真冬の風が強く吹きつける中、俺たちは「今日はこれくらいにして帰ろうか」とお互いに笑い合った。名残惜しさと充実感が入り混じる不思議な感覚。
彼女を家の近くまで送り届けたあと、俺は自室で1人帽子を被ってみた。そこには彼女の香りが微かに残っていた。今日のデートの記憶がよみがえり、胸が熱くなる。
部屋の窓から見える冬の星空は、いつもより綺麗に見えた。そして俺は確信する。この日が最高の一日だったと。そしてこれは、始まりに過ぎないという予感も。
窓の外では、小さな雪が舞い始めていた。