59 待たない約束
新しい年が、静かに始まった。
目を覚ましたとき、部屋の空気はまだ夜の名残を含んでいて、少しひんやりしていた。枕元のスマホに手を伸ばす。画面を点ける。
通知は、ない。
分かっていた。連絡しないと決めたのは、俺たちだ。冬休みの間は距離を置くって、ちゃんと話し合って決めた。
それでも――——ほんの少しくらい、届いていてもいいんじゃないか、なんて思ってしまう自分がいる。
「……ばかだな」
小さく呟いて、天井を見上げた。白い天井がやけに広く感じる。去年の今ごろは、何を考えていたっけ。少なくとも、こんなふうに「待つ」ことを覚えてはいなかった。
リビングに行くと、出汁の匂いがふわりと鼻をくすぐった。母さんが鍋を覗き込み、父さんが重箱の蓋を外し、兄貴が箸を並べている。
「おはよう。明けましておめでとう」
「明けましておめでとう」
3人の声が重なる。俺も続ける。
「……明けましておめでとう」
4人で囲む食卓。湯気の立つお雑煮。テレビからは賑やかな正月特番の笑い声。いつも通りの光景のはずなのに、胸のどこかに小さな空白がある。
白松さんが、いない。
兄貴が、箸を止めて俺を見た。
「悠人、元気ないな」
「そう?」
「顔に出てる」
兄貴は三つ上で、今は大学二年。普段は一人暮らしだが、時々こうして帰ってくる。昔から、妙に勘が鋭い。
「どうした。彼女と喧嘩か?」
「喧嘩じゃない」
首を振る。
「少し、距離を置いてる」
「距離?」
兄貴が面白そうに片眉を上げた。
「お互いに、成長するため」
俺は、白松さんが「冬休みの間は会いたくない」と言ったこと、その理由、依存していたことに気づいたことを、なるべく簡単に話した。
兄貴は黙って聞き、やがてゆっくり頷いた。
「いいじゃん」
「そうかな……」
「うん。俺もあったよ、似たようなの」
兄貴は味噌椀を置き、遠くを見るような目をした。
「いつも一緒で、それが当たり前になってさ。気づいたら、一人の時間が怖くなってた。でもな、一人の時間って、必要なんだよ」
「……」
「一人で立てないと、隣にも立てない」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
「だから、お前ら、ちゃんとしてると思う」
ぽん、と肩を叩かれる。
「頑張れよ」
「……ありがとう」
食後、コートを羽織って外に出る。
「行ってきます」
「気をつけてね」
母さんの声を背に、神社へ向かう。空は澄んでいて、冬の青がまぶしい。参道には人が溢れ、家族連れやカップルの笑い声があちこちから聞こえる。
一人で歩く足音が、やけにくっきり響いた。
少しだけ寂しい。でも、悪くない。これが、今の俺に必要な時間なんだと思う。
賽銭を投げ、鈴を鳴らし、手を合わせる。
白松さんが、強くなれますように。
そして、また一緒に歩けますように。
目を開けると、風が頬を撫でた。
おみくじは「吉」。
そこに書かれた一文に、思わず笑う。
「待ち人、来たる」
……本当に?
境内の屋台で焼きそばを買い、ベンチに座って食べる。ソースの匂いと、遠くの子どものはしゃぐ声。
一人でも、ちゃんと楽しい。
来年は、隣に白松さんがいたらいいな—―——そう思いながら、神社を後にした。
翌日、鈴木から連絡が来た。
「明けおめ」
「あけおめ」
「暇?」
「まあ暇」
「駅前来い。ゲーセン行こうぜ」
待ち合わせ場所で、鈴木はいつものように大きく手を振った。
「よう」
「久しぶり」
「何やる?」
「クレーンゲーム」
「お前、下手だろ」
「うるせえ」
何度挑戦しても景品は動かず、俺たちは腹を抱えて笑った。格闘ゲームで本気になり、エアホッケーで無駄に熱くなる。
白松さんのことを、ほんの数時間、忘れられた。
ファストフード店で向かい合い、ポテトをつまむ。
「なんか久しぶりだな。二人で遊ぶの」
「ああ」
「最近、白松とばっかだったもんな」
「まあな」
鈴木はコーラを一口飲み、真顔になる。
「お前、変わったよ」
「え?」
「いい意味で。昔はさ、なんか自分追い詰めてた」
言葉に詰まる。
「今は、ちゃんと自分も大事にしてる感じ」
胸が、少し温かくなる。
「それ、白松のおかげだろ」
「……ああ」
「だから、ちゃんと待ってやれよ」
「うん」
そして、少し間を置いて。
「でもさ」
「ん?」
「お前も依存してないか?」
心臓が、どくりと鳴る。
「守ることで、自分の価値感じてるだろ」
言い返せなかった。
図星だった。
白松さんに頼られると、嬉しい。必要とされると、安心する。それは愛だと思っていた。でも――——それだけじゃない。
「悪い」
鈴木が視線を逸らす。
「いや。ありがとう」
本当に、そう思った。
帰り道、冬の空気が肺に刺さる。
守ることで、自分の価値を感じる。
幸子の時も、そうだった。違うと思っていたのに、形を変えただけで、同じことを繰り返そうとしている。
数日後、俺は一人で書店に入った。自動ドアが開くと、本の匂いがふわりと包む。
いつもは、隣に白松さんがいた。
彼女が好きそうな詩集を手に取る。ページをめくると、彼女の横顔が浮かぶ。
でも、棚に戻した。
今は、買わない。
次は、一緒に来よう。
代わりに自分の小説を一冊選び、レジへ向かう。
一人でできる。
当たり前のことが、少し誇らしい。
夜、机に向かい、日記を開く。
白松さんは幸子に似ている。
本が好きで、どこか不安げで、俺に縋るところがある。でも決定的に違うのは—―——自分の依存に気づいたことだ。変わろうとしていることだ。
俺は?
俺は変われているか。
ペン先が止まる。
必要とされることで、自分を保っていなかったか。
守ることで、自分の価値を証明しようとしていなかったか。
窓の外、冷たい月が浮かんでいる。
白松さんも、今、同じように考えているだろうか。
数日後、三浦から電話が来た。
「明けましておめでとう」
「おめでとう」
「幸子と、ちゃんと付き合ってる」
少し驚く。
「今は前向いてる」
三浦の声は穏やかだった。
「お前のとこには行かせない。安心しろ」
「……ありがとう」
「で、お前は?」
「距離置いてる」
「いいじゃん。依存じゃなくて、対等な関係なんだろ?」
「ああ」
電話を切ったあと、胸の奥が静かに整っていくのを感じた。
冬休みの終わりが近づく。
散歩をする。読書をする。家族と話す。
一人でも、大丈夫だと知る。
それでも——―—。
白松さんといる時間が、一番幸せだ。
でもそれは、依存じゃない。
好きだから、一緒にいたい。
一人でも立てる。だから、隣に立てる。
冬休み最後の夜、ベッドに横になり、スマホを手に取る。
白松さんの名前。
指が止まる。
送らない。
明日、直接言おう。
「俺も依存してた。でも、これからは違う」
そう伝えたい。
目を閉じると、彼女の笑顔が浮かぶ。
会いたい。
早く会いたい。
でも、もう少しだけ。
明日には、会える。
明日から、また一緒に歩ける。今度は、ちゃんと自分の足で立ちながら。




