私だけを見て (回想前編)
あの目は、あの頃と変わらない。
夢の中でも、ふとした瞬間でも。幸子の顔が浮かぶ時、いつも決まってあの公園の光景が一緒に来る。夕日が沈みかけた空。オレンジ色に染まった石畳。泣きながら笑っていた幸子の顔。
そして、あの声。
私だけを見て。
あの言葉を、俺はずっと守ろうとしていた。
幸子と出会ったのは、中学一年の春だった。
入学式の朝、体育館の端の席に座りながら、俺は周りの笑い声をただ聞いていた。小学校からの友人同士が再会して、話し声が重なり合っている。誰も俺に話しかけない。俺も、誰にも話しかけない。それが、いつも通りだった。
学級委員を決めるホームルームで、俺は手を上げた。友達がいないなら、せめて役割を持てばいい。そう思っていた。同時に、もう一人手が上がった。
「私、やります」
短いショートカットの髪。はっきりとした声。振り返ると、その子が真っ直ぐ前を向いて手を上げていた。
中川幸子。それが、最初の出会いだった。
その日の昼休み、俺が一人で弁当を広げていると、幸子が弁当箱を持って現れた。
「一人?」
「ああ」
「じゃあ一緒に食べよう」
当然のように隣に座る。こちらの返事を待たずに、弁当を開ける。色とりどりのおかずが詰まっていた。
「お母さんが張り切っちゃって」
幸子が笑いながら言った。
俺はほとんど喋らなかった。でも、幸子は気にしなかった。むしろ楽しそうに話し続けた。音楽のこと。小学校のこと。陸上部に入ろうか迷っていること。俺がたまに相槌を打つだけで、幸子は満足そうだった。
「桜井くんって、聞き上手だね」
昼休みの終わり際、幸子がそう言った。
「そう?」
「うん。ちゃんと聞いてくれる人って、あまりいないから」
幸子が微笑んだ。
「桜井くんは、ちゃんと聞いてくれる。それが嬉しい」
胸が、じわりと温かくなった。必要とされている、という感覚だった。俺はその感覚を、その時初めて知った。
付き合い始めたのは、中学一年の後半だった。
ある雨の日の放課後、傘を持っていなかった俺たちは教室に残っていた。他に誰もいなかった。窓を打つ雨の音だけが、静かな教室に響いていた。
「私、桜井のことが好き」
幸子が俺の方を向いて、言った。
「友達として、じゃなくて」
頭が真っ白になった。でも、俺の口は動いていた。
「俺も、好きだ」
幸子の目に涙が浮かんだ。でも、笑っていた。その顔が、本当に眩しかった。
幸子が抱きついてきた。俺もその背中に手を回した。
長い間探していたものを、ようやく見つけた気がした。温かくて、安心できて、ずっとここにいたいと思える場所。
でも、少しずつ、何かが変わり始めた。
最初に気づいたのは、俺が他の生徒と話すと、幸子の表情が曇るようになったことだった。特に女子と話している時は、顕著だった。
「今の人、誰? 何の用?」
必ず聞かれた。説明するたびに、幸子は「そうなんだ」と言って笑った。でも、その笑顔はどこかぎこちなかった。
事が大きくなったのは、ある放課後のことだった。
体育祭の係の打ち合わせで、同じ係になった女子に話しかけられた。打ち合わせの日程を確認しただけの、一分も経たない会話だった。それを、幸子は体育館の入り口から見ていた。
一緒に帰る道で、幸子の声のトーンが変わった。
「さっき、あの子と何話してたの?」
「体育祭の係のことで」
「それだけ?」
「それだけだよ」
「嘘」
幸子が立ち止まった。住宅街の細い道。街灯がまだ灯っていない夕暮れの中で、幸子の目に涙が浮かんだ。怒りと悲しみが、ぐちゃぐちゃに混じっていた。
「どうして私じゃなくて、あの子と話してるの?」
「幸子、それは――」
「私だって陸上やってるのに。なのに、桜井は他の人とも仲良くして」
「それは……」
「私だけを見てほしい」
声が震えていた。涙が頬を伝っていた。
「お願い。私だけを見て。他の人と話さないで。特に女子」
俺は、どう答えればいいかわからなかった。ただ、泣いている幸子を見ていられなかった。
「わかった」
気づいたら、そう言っていた。
「大丈夫。幸子だけでいい」
幸子の顔が、パッと明るくなった。涙を拭って、嬉しそうに微笑む。
「本当?」
「ああ」
「約束?」
「約束」
幸子が抱きついてきた。
「ありがとう、桜井」
その笑顔に、俺は安堵した。幸子が笑ってくれるなら、それでいい。そう思った。
でも、同時に何か大切なものを手放したような感覚があった。何なのか、その時はわからなかった。ただ、胸の奥に小さな違和感だけが残った。
それから、俺は他の生徒とほとんど話さなくなった。誰かと話すたびに幸子の顔色を窺い、どこかへ行くたびに幸子の許可を得る。それが当たり前になっていった。
少しずつ、自分が自分じゃなくなっていく感覚があった。幸子の笑顔を守るために、俺は自分を削っていた。それを、愛情だと思っていた。
でも、本当は違った。
それは、依存だった。お互いへの、歪んだ依存。
幸子は俺を必要とし、俺は幸子に必要とされることを必要としていた。
大丈夫。幸子だけでいい。
自分で言った言葉が、自分を縛る鎖になっていく。その時はまだ、気づいていなかった。
ただ、息苦しさだけが日に日に増していった。
幸子の笑顔が好きで、幸子といると安心できて、それだけで十分だと思っていた。
ずっと、離れないで。
公園のベンチで幸子が言った言葉が、今でも耳に残っている。あの時の俺は、迷わず答えた。
離れないよ。
本気でそう思っていた。
でも、それが後に、俺を最も苦しめる言葉になった。




