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君と風の行方  作者: 月見饅頭
第五章

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私だけを見て (回想前編)

 あの目は、あの頃と変わらない。


 夢の中でも、ふとした瞬間でも。幸子の顔が浮かぶ時、いつも決まってあの公園の光景が一緒に来る。夕日が沈みかけた空。オレンジ色に染まった石畳。泣きながら笑っていた幸子の顔。


 そして、あの声。

 私だけを見て。

 あの言葉を、俺はずっと守ろうとしていた。


 幸子と出会ったのは、中学一年の春だった。


 入学式の朝、体育館の端の席に座りながら、俺は周りの笑い声をただ聞いていた。小学校からの友人同士が再会して、話し声が重なり合っている。誰も俺に話しかけない。俺も、誰にも話しかけない。それが、いつも通りだった。


 学級委員を決めるホームルームで、俺は手を上げた。友達がいないなら、せめて役割を持てばいい。そう思っていた。同時に、もう一人手が上がった。


「私、やります」


 短いショートカットの髪。はっきりとした声。振り返ると、その子が真っ直ぐ前を向いて手を上げていた。

 中川幸子。それが、最初の出会いだった。

 その日の昼休み、俺が一人で弁当を広げていると、幸子が弁当箱を持って現れた。


「一人?」

「ああ」


「じゃあ一緒に食べよう」

 当然のように隣に座る。こちらの返事を待たずに、弁当を開ける。色とりどりのおかずが詰まっていた。

「お母さんが張り切っちゃって」


 幸子が笑いながら言った。


 俺はほとんど喋らなかった。でも、幸子は気にしなかった。むしろ楽しそうに話し続けた。音楽のこと。小学校のこと。陸上部に入ろうか迷っていること。俺がたまに相槌を打つだけで、幸子は満足そうだった。


「桜井くんって、聞き上手だね」


 昼休みの終わり際、幸子がそう言った。


「そう?」

「うん。ちゃんと聞いてくれる人って、あまりいないから」


 幸子が微笑んだ。


「桜井くんは、ちゃんと聞いてくれる。それが嬉しい」

 胸が、じわりと温かくなった。必要とされている、という感覚だった。俺はその感覚を、その時初めて知った。


 付き合い始めたのは、中学一年の後半だった。


 ある雨の日の放課後、傘を持っていなかった俺たちは教室に残っていた。他に誰もいなかった。窓を打つ雨の音だけが、静かな教室に響いていた。


「私、桜井のことが好き」

 幸子が俺の方を向いて、言った。


「友達として、じゃなくて」


 頭が真っ白になった。でも、俺の口は動いていた。


「俺も、好きだ」


 幸子の目に涙が浮かんだ。でも、笑っていた。その顔が、本当に眩しかった。


 幸子が抱きついてきた。俺もその背中に手を回した。

 長い間探していたものを、ようやく見つけた気がした。温かくて、安心できて、ずっとここにいたいと思える場所。


 でも、少しずつ、何かが変わり始めた。


 最初に気づいたのは、俺が他の生徒と話すと、幸子の表情が曇るようになったことだった。特に女子と話している時は、顕著だった。


「今の人、誰? 何の用?」


 必ず聞かれた。説明するたびに、幸子は「そうなんだ」と言って笑った。でも、その笑顔はどこかぎこちなかった。

 事が大きくなったのは、ある放課後のことだった。


 体育祭の係の打ち合わせで、同じ係になった女子に話しかけられた。打ち合わせの日程を確認しただけの、一分も経たない会話だった。それを、幸子は体育館の入り口から見ていた。

 一緒に帰る道で、幸子の声のトーンが変わった。


「さっき、あの子と何話してたの?」

「体育祭の係のことで」


「それだけ?」

「それだけだよ」


「嘘」

 幸子が立ち止まった。住宅街の細い道。街灯がまだ灯っていない夕暮れの中で、幸子の目に涙が浮かんだ。怒りと悲しみが、ぐちゃぐちゃに混じっていた。


「どうして私じゃなくて、あの子と話してるの?」

「幸子、それは――」


「私だって陸上やってるのに。なのに、桜井は他の人とも仲良くして」

「それは……」


「私だけを見てほしい」

 声が震えていた。涙が頬を伝っていた。


「お願い。私だけを見て。他の人と話さないで。特に女子」


 俺は、どう答えればいいかわからなかった。ただ、泣いている幸子を見ていられなかった。


「わかった」

 気づいたら、そう言っていた。


「大丈夫。幸子だけでいい」

 幸子の顔が、パッと明るくなった。涙を拭って、嬉しそうに微笑む。


「本当?」

「ああ」


「約束?」

「約束」

 幸子が抱きついてきた。


「ありがとう、桜井」


 その笑顔に、俺は安堵した。幸子が笑ってくれるなら、それでいい。そう思った。


 でも、同時に何か大切なものを手放したような感覚があった。何なのか、その時はわからなかった。ただ、胸の奥に小さな違和感だけが残った。


 それから、俺は他の生徒とほとんど話さなくなった。誰かと話すたびに幸子の顔色を窺い、どこかへ行くたびに幸子の許可を得る。それが当たり前になっていった。


 少しずつ、自分が自分じゃなくなっていく感覚があった。幸子の笑顔を守るために、俺は自分を削っていた。それを、愛情だと思っていた。


 でも、本当は違った。


 それは、依存だった。お互いへの、歪んだ依存。


 幸子は俺を必要とし、俺は幸子に必要とされることを必要としていた。

 大丈夫。幸子だけでいい。

 自分で言った言葉が、自分を縛る鎖になっていく。その時はまだ、気づいていなかった。

 ただ、息苦しさだけが日に日に増していった。


 幸子の笑顔が好きで、幸子といると安心できて、それだけで十分だと思っていた。

 ずっと、離れないで。


 公園のベンチで幸子が言った言葉が、今でも耳に残っている。あの時の俺は、迷わず答えた。

離れないよ。


 本気でそう思っていた。

 でも、それが後に、俺を最も苦しめる言葉になった。



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