イヤホンの向こう側
約束の翌日、俺は朝からそわそわしていた。
いつもより早く目が覚めて、制服のシャツを二回も着替えた。鏡の前で髪型を整えながら、「何やってんだ、俺」と独り言を漏らす。
朝食の席で、母さんが不思議そうな顔をした。
「今日は何かあるの?」
「別に……普通の日だよ」
そう答えたものの、声が少し上ずっていることに自分でも気づいた。母さんは何も言わずに微笑むだけだった。最近の俺の様子を見守ってくれているのだろう。
家を出て、いつもの通学路を歩く。秋の朝は空気が澄んでいて、吸い込むたびに胸が少しだけ軽くなる気がした。
今日、白松さんと一緒にカオルのCDを聴く。たったそれだけのことなのに、なぜこんなに胸が高鳴るんだろう。
校門をくぐると、すでに何人かの生徒が登校していた。下駄箱で靴を履き替えていると、後ろから声がかかった。
「おはよう、桜井」
振り返ると、鈴木が眠そうな顔でこちらに手を振っていた。
「おう、おはよう」
「お前、なんか今日、妙に爽やかじゃね?」
「そうか?」
「ああ、なんつーか……キラキラしてる」
鈴木がニヤニヤしながら言う。
「うるせえな」
照れ隠しに軽口を返すと、鈴木は肩を叩いてきた。
「まあ、頑張れよ。応援してるからな」
「何をだよ」
「知らねえよ、お前が頑張ろうとしてることだよ」
そう言い残して、鈴木は先に教室へ向かった。あいつ、いつも適当なこと言うくせに、妙に的確なんだよな。
教室に入ると、白松さんはもう席についていた。窓際の席で本を読んでいる姿は、いつもと変わらない。けれど、今日は何か違う気がした。
俺が近づくと、彼女は顔を上げて微笑んだ。
「おはよう、桜井くん」
「おはよう」
その笑顔に、朝から胸が温かくなる。
「今日、放課後……」
「うん」白松さんが小さく頷いた。「楽しみにしてる」
その言葉だけで、一日が特別なものになった気がした。
授業中、何度も時計を見てしまう。数学の問題を解いていても、英語の長文を読んでいても、頭の片隅には常に「放課後」という言葉があった。
三時間目の現代文の授業で、先生が詩の話をしていた。
「詩というのは、言葉にできない感情を、言葉で表現しようとする営みです」
その言葉が、妙に胸に響いた。カオルが作った「風の行方」も、そういう思いから生まれたんだろうか。
ふと白松さんの方を見ると、彼女も真剣な表情で授業を聞いていた。ノートに何かを書き留めている。その横顔を見つめていると、彼女がこちらに気づいて視線を向けた。
慌てて前を向くと、心臓がドクドクと音を立てる。白松さんは小さく笑っていた気がした。
昼休み、俺は鈴木と宮田と一緒に昼食を食べていた。
「なあ、桜井」鈴木が唐突に言った。「お前、最近すげえいい顔してるよな」
「は?」
「いや、マジで。なんつーか、生き生きしてるっていうか」
宮田も頷きながら言った。
「そうね。入院する前とは全然違う。ちゃんと前を向いてる感じがする」
二人の言葉に、少し照れくさくなる。
「……そうかな」
「そうだよ」鈴木が断言する。「で、その理由は……まあ、聞かなくてもわかるけどな」
「鈴木くん、からかいすぎ」
宮田が呆れたように言うが、その顔も笑っていた。
「お前ら、本当にお似合いだと思うぜ」
鈴木の言葉に、思わず弁当箱を落としそうになった。
「何言ってんだよ」
「いやいや、認めろって。まだ白松のこと好きなんだろ?」
その直球な質問に、言葉が詰まる。好き――その言葉を、俺はきちんと彼女に伝えられていない。いや、自分の中でもまだ整理できていない部分がある。一度は伝えて付き合う事になったりもしたんだけど、別れて……入院したりなんかして……
「……わかんねえよ」
正直に答えると、鈴木は「そっか」と言って笑った。
「でもさ、わかんなくてもいいんじゃね? 大事なのは、一緒にいたいかどうかだろ」
宮田も優しく言った。
「そうよ。気持ちに名前をつけるのは後でいい。今は、素直にその気持ちを大切にすればいいと思う」
二人の言葉が、胸にじんわりと染み込んでいく。そうか――一緒にいたい。それだけは、確かなんだ。
五時間目が終わり、六時間目が始まる。最後の授業は体育だった。
グラウンドでサッカーをやることになり、俺は適当にボールを追いかけながら、頭の中では放課後のことを考えていた。
図書室で、白松さんと二人きり。イヤホンを分け合って、カオルの音楽を聴く。
その光景を想像するだけで、胸が高鳴る。
「桜井、ボール!」
鈴木の声で我に返ると、目の前にボールが転がってきていた。慌てて蹴り返すが、方向が定まらず明後日の方向へ飛んでいく。
「おい、どこ蹴ってんだよ!」
「悪い……」
クラスメイトに謝りながら、自分の集中力のなさに苦笑する。
授業が終わり、着替えて教室に戻ると、白松さんが荷物をまとめていた。
「お疲れ様」
声をかけると、彼女は振り返って微笑んだ。
「お疲れ様。じゃあ、図書室で」
「ああ」
彼女が先に教室を出ていくのを見送ると、鈴木が肩を叩いてきた。
「行ってこいよ」
「……ああ」
「で、明日、報告な」
「報告って、何をだよ」
「知らねえよ。お前が話したいことでいいよ」
そう言って、鈴木は笑いながら教室を出て行った。宮田も「頑張ってね」と言い残して、鈴木の後を追った。
一人残された教室で、深呼吸をする。大丈夫、落ち着け。ただCDを聴くだけだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺も図書室へと向かった。
図書室のドアを開けると、静かな空間が広がっていた。放課後の図書室は人が少なく、本棚の影に白松さんの姿が見えた。
窓際の席に座って、カバンから何かを取り出している。
「お待たせ」
声をかけると、白松さんは顔を上げて微笑んだ。
「ううん、私も今来たところ」
彼女の隣に座ると、机の上にはカオルのCDとポータブルCDプレーヤー、そしてイヤホンが置かれていた。
「これ、家から持ってきたの」
白松さんがプレーヤーを指さす。
「サンキュー。俺、準備してなかった」
「いいの。二人で聴きたかったから」
その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。
白松さんがCDをセットして、イヤホンのジャックを差し込む。白いイヤホンを二つに分けて、一つを俺に差し出した。
「じゃあ、聴こうか」
「ああ」
イヤホンを耳につけると、静寂の中に二人だけの世界が生まれた気がした。白松さんが再生ボタンを押す。
最初に聞こえてきたのは、静かなピアノの音色だった。
エリック・サティの「ジムノペディ」――カオルが最初に演奏した曲。透明で、どこか儚い旋律が、図書室の静けさに溶け込んでいく。
白松さんは目を閉じて聴いていた。長いまつげが、夕日に照らされてほんのり輝いている。その横顔を見つめていると、不意に彼女が目を開けた。
視線が合う。
慌てて目を逸らすと、白松さんは小さく笑った。
「桜井くん、私の顔見てたでしょ」
「い、いや……」
「いいの。私も、桜井くんの顔、見てたから」
その言葉に、耳まで熱くなる。
曲が次に移る。今度は「風の行方」――カオルの自作曲だ。
最初はゆっくりとした旋律から始まり、徐々に音が重なっていく。風が吹き抜けるような、軽やかで優しい音色。
聴きながら、カオルとの出会いを思い出す。病院の講堂で初めて聴いた彼女のピアノ。あの音色が、俺の心を少しずつ解きほぐしてくれた。
白松さんも、同じことを考えているのだろうか。
「……この曲、不思議だね」
白松さんが小さく呟いた。
「どんな風に?」
「聴いていると、自分の中にある『風』を感じるの。それがどこへ向かっているのか、まだわからないけど……でも、その風に身を任せてもいいって、思えるの」
彼女の言葉が、胸に染み込んでいく。
「俺も、似たようなこと思ってた」
「本当?」
「ああ。この曲を聴いていると、これからのことが怖くなくなる。まだわからないことだらけだけど、それでもいいって思える」
白松さんは静かに頷いた。
「カオルさん、すごいね。音楽で、こんな風に人の心を動かせるなんて」
「本当にな」
曲が終わりに近づいていく。最後の一音が消えていく瞬間、白松さんが小さく息を吐いた。
「……ねえ、桜井くん」
「ん?」
「私も……桜井くんに話したいことがあるの」
その言葉に、心臓が跳ねる。
「何?」
白松さんは少し躊躇うように俯いてから、ゆっくりと口を開いた。
「実は……私、中学生の頃、少しだけ学校に行けない時期があったの」
その告白に、息を呑む。
「ピアノをやめた後、自分の居場所がわからなくなって。音楽教室では『東雲さんみたいに』って言われ続けて、でも私には才能がなくて……それで、どんどん自信をなくしていったの」
白松さんの声は静かだったが、その言葉の裏には深い痛みが隠されているように感じた。
「ある日、学校で友達に『白松さんって、何が得意なの?』って聞かれて……答えられなかった。ピアノもダメ、勉強も普通、運動も苦手。私には何もないんだって、思い込んじゃって」
「白松さん……」
「それから、少しずつ学校に行くのが怖くなって。朝、玄関のドアを開けられなくなったの。母が心配して、しばらく休んでいいって言ってくれて……その間、ずっと家にこもってた」
彼女の手が、少し震えているのが見えた。
「でも、ある日、図書館に行ってみたの。そこで、一冊の本に出会った。村上春樹の『ノルウェイの森』。その本を読んで……私、少しだけ救われた気がしたの」
白松さんは本棚の方を見つめた。
「本の中には、いろんな人の人生があって、いろんな痛みや喜びがあって。それを読んでいるうちに、『自分だけじゃないんだ』って思えたの。そこから、少しずつ本を読むようになって、図書室に通うようになって……それが、私の居場所になった」
彼女の言葉を黙って聞いていた。自分の入院生活とは違う形だけど、彼女もまた、暗闇の中にいた時期があったんだ。
「高校に入学する時、『今度こそ、ちゃんとやろう』って決めたの。でも正直、怖かった。また同じことになるんじゃないかって」
「それで……俺と出会ったんだな」
「うん」白松さんは小さく笑った。「桜井くんは、最初からすごく頑張ってた。勉強も、バイトも、クラスのことも。それを見てて、『私も頑張らなきゃ』って思えたの」
「俺も、白松さんに助けられてたんだよ」
「え?」
「白松さんがいつも穏やかで、優しくて……その姿を見てると、焦らなくてもいいって思えた。特に、入院する前とか、すごく追い詰められてた時期に、白松さんの笑顔に何度も救われてた」
白松さんの目が、少し潤んでいるように見えた。
「そんな風に思ってくれてたんだ……」
「ああ。だから、白松さんが苦しんでた時期があったなんて、全然想像できなかった。今の白松さんは、すごく強く見えるから」
「強くなんかないよ」彼女は首を振った。「今でも、時々怖くなる。また何もできなくなるんじゃないかって。でも……」
白松さんは俺の方を向いた。
「桜井くんがいてくれるから、少しだけ勇気が出るの」
その言葉に、胸が熱くなる。
「俺も……白松さんがいてくれるから、前を向けるんだ」
二人の間に、静かな時間が流れる。イヤホンからは、まだカオルの音楽が流れている。次の曲は、ショパンの「ノクターン」だった。
「ねえ、桜井くん」
「うん?」
「これからも……一緒に、いてくれる?」
その問いかけに、迷いはなかった。
「もちろん」
白松さんは安心したように微笑んだ。
「ありがとう」
夕日が図書室の窓から差し込んで、二人の影を床に落としている。その影は、少しだけ重なり合っていた。
CDを最後まで聴き終えて、イヤホンを外す頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「もうこんな時間か」
「うん。でも……すごく良い時間だった」
白松さんがプレーヤーをカバンにしまいながら言った。
「俺も。カオルの音楽、やっぱりすごいな」
「そうだね。また三人で会いたいね」
「ああ。今度はいつ会えるかな」
「カオルさん、次の演奏会のこと言ってたよね。それまでには」
立ち上がって図書室を出ようとした時、白松さんが俺の袖を軽く引いた。
「あのね、桜井くん」
「ん?」
「今日、話を聞いてくれて……ありがとう」
その言葉に、少し照れくさくなる。
「いや、俺こそ。白松さんの話、聞けてよかった」
「これからも……いろんなこと、話したいな」
「ああ、俺も」
二人で並んで廊下を歩く。下駄箱で靴を履き替えて、校門を出る。
夜風が冷たいけれど、心は温かかった。
「じゃあ、また明日」
「うん。気をつけてね」
白松さんと別れて、一人で帰り道を歩く。ポケットの中で、スマホが震えた。鈴木からのメッセージだった。
「どうだった?」
シンプルな質問に、何と返そうか少し考える。
「言葉にできないくらい、特別な時間だった」
送信ボタンを押すと、すぐに返信が来た。
「よかったな。で、告白は?」
その言葉に、思わず笑ってしまう。
「まだだよ。でも……きっと、もうすぐ」
そう返信して、夜空を見上げる。星が瞬いていた。
カオルの「風の行方」は、俺たちを少しずつ前に進ませてくれている。その風がどこへ向かっているのか、まだ完全にはわからない。
でも、白松さんと一緒なら、その風に乗って進んでいける気がする。
家に着いて部屋に入ると、机の上にカオルからもらったCDが置いてあった。手に取って、ジャケットを見つめる。
そこには、カオルの手書きで「風の行方」というタイトルと、小さなメッセージが書かれていた。
「二人の未来に、優しい風が吹きますように」
その言葉を読んで、胸が温かくなる。
ベッドに横になりながら、今日一日のことを思い返す。白松さんの過去、彼女の言葉、そして二人で聴いた音楽。
全てが、これから先の道を照らしてくれる光のように思えた。
「明日も……会えるんだよな」
小さく呟いて、目を閉じる。
夢の中で、カオルのピアノが聞こえた気がした。そして、その音色に導かれるように、白松さんの笑顔が浮かんでくる。
イヤホンの向こう側で繋がった心が、少しずつ、でも確実に、近づいていく。
風は、優しく吹き続けている。




