音色が繋ぐ心
カオルの演奏会の日、目が覚めると窓の外は雨だった。しとしとと降り続ける雨音を聞きながら、自分の胸の内も同じくらい落ち着かないことに気づく。
「今日か……」
ベッドから起き上がり、窓の外を見つめた。灰色の空は、これからの一日を予見しているかのようだった。それでも、不思議と心は軽い。
食卓では母が朝食の支度をしていた。久しぶりに早起きした俺を見て、母は少し驚いた表情を浮かべる。
「珍しいわね、こんな時間に起きるなんて」
「今日は用事があるんだ」
「友達と?」
「まあ、そんな感じ」
母は何も言わずに微笑むだけだった。最近の俺の変化に気づいているのだろう。
教室に入ると、白松さんはもう席についていた。本を読んでいる姿は、いつもと変わらない。でも今日は少し違う。彼女も今日のことを意識しているはずだ。
「おはよう」
声をかけると、白松さんはゆっくりと顔を上げた。
「おはよう、桜井くん」
「今日、行くんだよな?」
「うん」彼女はうなずいた。「緊張する?」
「ちょっとな」正直に答える。「カオルの演奏、久しぶりに聴くから」
白松さんは小さく微笑んだ。「私も楽しみ」
授業中、時計の針がやけに遅く感じる。英語の授業で当てられた時も、なんとか乗り切った。頭の中はカオルの演奏のことでいっぱいだった。
昼休み、白松さんと屋上で弁当を食べることになった。雨は上がり、湿った空気の中に太陽の光が差し込み始めていた。
「これ、よかったら」白松さんが自分の弁当箱から一つおかずを取り出して俺の弁当箱に乗せてくれる。
「サンキュー」
「桜井くん、カオルさんとは入院中からの友達なんだよね」
「ああ。最初は話すことなんてなかったんだけどな」思い出しながら言う。「講堂でカオルがピアノを弾いてるのを偶然聴いたんだ。それから少しずつ...」
「素敵な出会いだね」
白松さんの言葉に、少し照れくさくなる。
「でも、カオルには感謝してるよ。あの時、俺が自分を取り戻せたのは、カオルとの時間があったからかもしれない」
「カオルさんも、きっと桜井くんに感謝してると思う」白松さんは優しく言った。「あなたが彼女の傍にいてくれたから」
弁当を食べ終わると、白松さんはカバンから一冊の本を取り出した。
「これ、図書室で借りたの。カオルさんのお気に入りなんだって」
『風の歌を聴け』という村上春樹の小説だった。
「白松さんも村上春樹、好きなんだな」
「うん。カオルさんとはそれで意気投合したの」彼女は少し恥ずかしそうに笑った。「でも私、カオルさんみたいに音楽の才能はないから...」
「それぞれ、得意なことがあるさ」
「そうだね」彼女は空を見上げた。「今日の演奏、どんな曲なんだろう」
「さあ、聞いてのお楽しみだな」
放課後、俺と白松さんは約束通り病院へ向かった。
バスに揺られている間、白松さんは窓の外を見つめていた。何を考えているのか、その表情からは読み取れない。
「緊張してる?」俺が聞くと、彼女はゆっくりと首を振った。
「少し。でも、それ以上に楽しみ」
病院に着くと、ロビーには既に何人かの患者さんや見舞客が椅子に座って待っていた。中央にグランドピアノが置かれ、普段とは違う雰囲気が漂っている。
「ここで弾くんだ」
「素敵な場所ね」白松さんが小さく呟いた。
中野さんが俺たちに気づき、手を振ってきた。
「桜井くん、白松さん、来てくれたのね」
「カオルは?」
「楽屋……というか処置室で準備してるわ」彼女は微笑んだ。「緊張してるみたいだけど、あなたたちが来たって伝えると喜ぶと思うわ」
中野さんに案内されて処置室に向かうと、カオルがピアノの楽譜を見つめていた。俺たちが入ってくると、彼女は顔を上げた。
「桜井くん、白松さん!」
「やあ、演奏前にごめんな」
「大丈夫!来てくれて嬉しい」カオルは楽譜を持ったまま立ち上がった。「実は緊張して……」
「大丈夫だよ」白松さんが一歩前に出て言った。「カオルさんの演奏、きっと素晴らしいわ」
「ありがとう……」カオルは少し赤くなった。「あのね、今日弾く曲、実はずっと練習してたの。病気になる前から……」
「何の曲?」
「エリック・サティの『ジムノペディ』。それと……」彼女は少し恥ずかしそうに言った。「自分で作った曲も一つ」
「自作曲?」白松さんの目が輝いた。「すごい!」
「まだ未完成だけど……でも、二人に聴いてほしくて」
そのとき、中野さんが戻ってきた。
「そろそろ時間よ、カオル」
カオルは深呼吸して、俺たちに笑顔を見せた。
「じゃあ、行ってくるね」
「頑張れ」俺は声をかけた。
中野さんに案内されて、俺と白松さんはロビーの前列に座った。病院長らしき人物が簡単な挨拶をし、カオルが入場してきた。
彼女は少し緊張した様子で皆に会釈すると、ピアノの前に座った。一瞬の静寂の後、カオルの指がピアノの鍵盤に触れた。
最初の音が響いた瞬間、ロビー全体が別の世界に変わったように感じた。エリック・サティの『ジムノペディ』の静かで透明感のある旋律が、病院の白い壁に染み渡っていく。
白松さんは息を呑むように聴き入っていた。彼女の目には、感動の色が浮かんでいる。俺も久しぶりに聴くカオルの演奏に、言葉を失った。
カオルの指先から紡ぎ出される音色は、入院していた頃よりも成熟し、深みを増していた。彼女自身の成長を、音楽を通して感じることができる。
『ジムノペディ』が終わると、小さな拍手が起こった。カオルは少し照れながらも、次の曲の準備をする。
「次は……自分で作った曲です。タイトルは『風の行方』です」
その言葉を聞いた瞬間、胸のどこかが静かに反応した。偶然かもしれない。でも、どこか引っかかる――そんな感覚だった。
白松さんもそっと目を細めていた。けれど、何かを言うでもなく、ただ静かに耳を澄ませるように前を見つめていた。
カオルの自作曲は、静かに始まった。単純なメロディーラインだが、どこか懐かしさを感じる旋律。徐々に展開していくにつれて、その音色は明るさを増していく。まるで、閉ざされた部屋から外の世界へと踏み出していくような……
白松さんの手が、そっと俺の手に触れていた。彼女の指先は冷たいが、その温度が徐々に俺の体温で温まっていくのを感じる。
演奏が終わると、ロビー全体が大きな拍手に包まれた。カオルは深々と頭を下げ、そして俺たちの方をまっすぐ見つめて微笑んだ。
「素晴らしかった……」白松さんが小さく呟いた。「こんな風に弾けたらって、昔憧れてたの」
「今からでも遅くないんじゃないか?」
彼女は少し驚いたように俺を見た。
「ピアノ、また始めてみたら?」
「でも……私には才能がないって……」
「そんなことない」俺は真剣に言った。「それに、何のために弾くかだって大事だろ」
白松さんは少し考え込むように黙った。
演奏会が終わり、カオルが俺たちのところにやってきた。
「どうだった?」緊張した面持ちで聞いてくる。
「すごかったよ」俺は正直に答えた。「特に自作曲が……心に残る曲だった」
「本当に素敵だった」白松さんも目を輝かせながら言った。「……さっきの曲、『風の行方』って言ってたよね」
「うん」カオルが頷いた。「ちょっと風の音みたいな響きにしたくて」
「なんだか、不思議な気持ちになったの。桜井くんと話した日とか……東雲さんのことを聞いたときのような。まるで、自分も病室で風の音を聞いていたみたいな……そんな感じがしたの」
カオルは驚いたように目を見開いたあと、小さく笑った。「そういうの、嬉しい。聴いてくれる人が、それぞれに思い出せる何かを見つけてくれるのが、いちばんの願いだったから」
俺もゆっくりうなずいた。あの曲は、確かに聴く人の中にそれぞれの“風の行方”を運んできたような気がした。
カオルは少し照れながら頷いた。
「うん。二人に会ってから、何か作りたくなって...」
中野さんの計らいで、演奏会後のロビーを少しだけ借りることができた。カオル、白松さん、そして俺の三人だけがピアノの前に残っていた。
「桜井くん、白松さん、実は二人に感謝したくて」カオルが真剣な表情で言った。「私が病気のことを前向きに考えられるようになったのは、あなたたちのおかげ」
「俺は何もしてないよ」
「違うわ」カオルは首を振った。「桜井くんが病院で私の演奏を聴いてくれた時から、私は変わり始めたの。そして白松さんが音楽の話を優しく聞いてくれたこと……それがなければ、私はきっと今日の演奏会も開けなかった」
白松さんの目に涙が光った。
「カオルさん……」
「白松さん、あなたにも才能があるわ」カオルは白松さんの手を取った。「音楽じゃなくて、人の心を理解する才能」
「私?」
「うん。私の曲を聴いて、誰よりも深く理解してくれたのはあなたよ。あなたが書いてくれた感想……忘れられない」
そう言って、カオルはカバンから一冊のノートを取り出した。
「これ、私の作曲ノート。もらってくれない?」
「でも……」
「音楽は演奏だけじゃないの。聴く人がいて、感じる人がいて……そこに物語が生まれる」カオルは微笑んだ。「白松さんは物語を紡ぐのが上手いでしょ?」
白松さんはゆっくりとノートを受け取り、胸に抱きしめた。
「大切にする……ありがとう」
「桜井くんには……」カオルは俺の方を向いた。「これ」
彼女が差し出したのは、CDだった。
「『風の行方』を録音したの。完成版」
「俺に?」
「うん。あなたが病院で聴いてくれたから、私は音楽を続けられた。この曲は、あなたへの感謝の気持ち」
CDを受け取りながら、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
「カオル、ありがとう。大切にするよ」
「次の演奏会も、ぜひ聴きに来てね」
「もちろん」白松さんが答えた。「これからも、応援してるよ」
三人は暖かい沈黙の中に佇んでいた。言葉にはできない何かが、三人の間を流れていた。
「桜井くん」カオルが静かに言った。「私ね、あなたと白松さんのこと、応援してる」
その言葉に、俺と白松さんは思わず顔を見合わせた。
「あなたたち、お似合いだよ」カオルは優しく笑った。「二人がそばにいると、空気が変わるの。それって特別なことだと思う」
「カオル……」
「遠慮しないで。私はもう前を向いてるから」カオルは明るく言った。「それに、これからもずっと友達でいようね」
帰り際、カオルは俺たちに強く手を振った。
「また会おうね!必ず!」
バスの中、白松さんは窓の外を見つめながら言った。
「不思議だね」
「何が?」
「人との出会いって」彼女はゆっくりと俺の方を向いた。「カオルさんに出会わなかったら、私たちも今こうして一緒にいなかったかもしれない」
その言葉に、何か温かいものが胸に広がるのを感じた。
「そうだな」
「カオルさんとの縁は……これからも続くよね」
「ああ」俺は頷いた。「また三人で会おう」
「うん」白松さんは微笑んだ。「その時は、私もちゃんと成長していたいな」
「白松さんはもう十分素敵だよ」
その言葉に、白松さんの頬が少し赤くなった。
バスが揺れる。窓の外では、夕暮れの空が徐々に色を変えていく。どこか遠くで、風が吹いている。その風が連れてくるものを、俺たちはまだ知らない。でも、それを待ち受ける心の準備はできていた。
帰り道、俺のスマホに鈴木からメッセージが入った。
「今日はどうだった?」
返事を打ちながら、今日一日の光景を思い返す。カオルの演奏、そして白松さんとの距離が縮まった事。
「言葉にできないくらい特別な日だった」
送信ボタンを押した直後、白松さんから電話がかかってきた。
「もしもし?」
「桜井くん……」彼女の声は少し興奮していた。「カオルさんがくれたノート、今開いたんだけど……」
「どうした?」
「最後のページに、メッセージが書いてあった」
白松さんの声に、風が吹き抜けるような清々しさを感じた。
「何て書いてあった?」
「『二人の風の行方を、いつも見守っています』……って」
その言葉を聞いて、胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じた。カオルは、俺たちの背中を優しく押してくれたのだ。
「桜井くん……」白松さんの声が続く。「明日、学校の帰りに……CDを一緒に聴かない?」
「ああ、もちろん」
電話を切った後も、カオルの言葉が耳に残っていた。「風の行方」――それは、これから俺たちが歩む道を示しているのかもしれない。明日からは、新しい風が吹き始める。俺と白松さんの間に。
でも今は、この瞬間だけを大切にしたい。カオルの音色が繋いでくれた、白松さんとの絆を。
明日、白松さんとCDを聴く約束をした俺は、家に帰ると早速持ってきたCDを取り出した。部屋の中で一人、カオルの「風の行方」を聴きながら、これからの日々に思いを馳せる。
音楽が流れ始めると、閉じていた目の奥に様々な光景が浮かんできた。病院でのカオルとの出会い、そして白松さんとの今……
カオルの音色は、過去と現在、そしてこれからを繋いでいくような、不思議な力を持っていた。
「風の行方か……」
窓を開けると、夜風が部屋に入ってきた。風は、どこかへと流れていく。その行方を追いかける勇気が、今の俺にはあった。




