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放課後の秘密

 

 最後の授業が終わると同時に、教室に小さな緊張が流れた。白松さんと俺の視線が交差する。約束の時間だ。



「行くの?」



 鈴木が小声で聞いてきた。何でも知っているような顔つきが、少し恥ずかしい。



「ああ」



「おう、頑張れよ」



 軽く肩を叩かれて、なぜか勇気が湧いた。



 白松さんは窓際で宮田と話していたが、俺が近づくと会話を切り上げた。



「お待たせ」



「ううん、大丈夫」



 宮田は意味ありげな笑みを浮かべて、「またね」と言い残して教室を出て行った。



 廊下を歩きながら、どこか気まずい沈黙が流れる。無理に会話を作ろうとして、途切れ途切れの言葉を交わす。



「バイトは?」



「しばらくお休みにしておいたの」



「そう、なんか悪いな」



「いいの。私も話したいことがあるから」



 校門を出て、俺たちは河原沿いの道を選んだ。放課後の日差しが水面に反射して、キラキラと輝いている。



 しばらく歩いていると、白松さんのバッグから文庫本が少し顔をのぞかせているのに気づいた。



「いつも本を持ち歩いてるんだな」



「うん」彼女は少し照れたように笑った。「暇さえあれば読んでるの」



「図書委員だっけ?」



「そう。でも昔は違うことをやってたんだ……」



「何を?」



「ピアノ。小さい頃からずっと習ってたの」



「へえ、白松さん、ピアノを弾いてたんだ」



 唐突な話題の変化に、彼女は少し驚いたように目を見開いた。



「うん、小さい頃から。でも……どうして急に興味を?」



「カオルもピアノが好きだったから」



「そう……」



 白松さんの表情が、少し曇った。



 河原の階段に腰掛けると、俺はカオルとの思い出を語り始めた。同じ病院で出会った彼女のこと。講堂で偶然聴いたピアノの音色。精神科に入院していた彼女が、いつか取り戻したいと願っていた日常のこと。




「実は……私、東雲さんのこと知ってるの」



 静かな告白に、俺は言葉を失った。



「え……?」



「東雲さんが通っていた音楽教室に、私も小学生の頃通ってたの」



 白松さんの声は淡々としていたが、その指先は少し震えていた。



「先生がよく『東雲さんのように弾けるといいわね』って言ってて。でも彼女は突然来なくなって……」



「カオルの調子が悪くなった頃か」



 白松さんはうなずいた。



「それで私、がんばって練習したんだけど……」彼女は少し恥ずかしそうに笑った。「音楽の才能がないことに気づいて、中学で辞めちゃったの」



「そんなことないと思うけど」



「ううん、自分でわかるの。でもね、その代わりに図書室に入り浸るようになって」彼女の表情が明るくなる。「本の世界にはまったの」



「病院で会ったときに、看護師さんから桜井くんの話を聞いて。そこで東雲さんのことも聞いて……もしかしたらと思って」



 夕暮れの光が、彼女の横顔を優しく照らしていた。



「私、ずっと憧れてて。東雲さんの演奏に。上手くは弾けなかったけど、あの音色は忘れられなくて」



「カオルは、きっと喜ぶよ」



「本当?」



「ああ。彼女、音楽の話が大好きだから。それに本の話も」



 ふと白松さんが笑った。その笑顔に、俺も釣られて笑う。



「桜井くんは、東雲さんのこと好きだったの?」



 その質問に、俺は空を見上げた。



「ああ。でも……違う意味でな」



 そこから話は自然と流れ、俺の入院生活のこと、その前に起きた竹中との出来事、三浦や鈴木との関係まで。気づけば日が落ち始めていた。



「そろそろ帰ろうか」



 立ち上がった時、白松さんが俺の袖を軽く引いた。



「あのね、桜井くん。私、東雲さんに会いたいの。一緒に……来てくれないかな」



 その言葉に、心臓が跳ねた。



「いいのか?」



「うん。桜井くんがいてくれれば……私も、心強いから」



 駅まで歩きながら、俺たちは明日の約束をした。電車の中で、白松さんは窓の外を見つめながら静かに話し続けた。彼女の家族のこと、今ハマっている小説のこと、将来の夢。夕暮れの光に照らされた彼女の横顔が、妙に大人びて見えた。



「私が本を好きになったのも、東雲さんのおかげかもしれない」彼女はふと言った。



「どういうこと?」



「ピアノを諦めた後、何か打ち込めるものを探してた時に、図書室で見つけた本が救いになって。それから本の世界に逃げ込むようになったの」



 彼女の最寄り駅で別れる時、彼女はふとこちらを向いた。



「桜井くん、ありがとう」



「何が?」



「東雲さんにきちんと会う勇気をくれて」



 そして小さな声で付け加えた。



「あと、私のことも見つけてくれて」



 電車のドアが閉まる直前、俺は思わず声をかけていた。



「明日、楽しみにしてる」



 白松さんの驚いた表情が、ドアの向こうで笑顔に変わった。






 ――次の日


 朝、教室の空気がどこか違っていた。



「おはよう」



 いつもより早く登校した俺に、鈴木が目を丸くした。



「おい、お前、朝早いの珍しいな」



「ちょっとな」



「昨日、どうだった?」



 その質問に、なぜか照れくさくなる。



「別に、普通に……」



「ふーん?」



 そんな会話をしていると、白松さんが教室に入ってきた。彼女も少し早い登校だった。視線が合うと、小さく頷いた。



「桜井くん、おはよう」



 廊下で彼女が声をかけてきたのは、昼休みが始まってすぐのことだった。



「放課後、正門で待ち合わせでいい?」



「ああ、わかった」



「あのね……」彼女は少し迷った様子で、「緊張するけど、楽しみでもあるの」



 その正直な言葉に、俺も同じ気持ちだと伝えた。



 授業中、何度も時計を見てしまう。鈴木がからかうような目線を送ってくるが、気にしないふりをした。



「桜井、問題を解いてみなさい」



 英語の授業中、突然指名された。立ち上がって黒板を見つめるが、頭が真っ白になる。



「えっと……」



 教室の後ろから、白松さんの小さな声が聞こえた気がした。その一言のヒントで、なんとか答えることができた。



「助かったよ、ありがとう」



 放課後、正門で待ち合わせた時に伝えると、彼女は照れたように笑った。



「私もよく助けてもらってるから」



 バスに乗り、20分ほど揺られる。窓の外の景色が、だんだん見知った風景に変わっていく。病院への道。何度も通った道なのに、今日は特別な意味を持っている。



「ここ……」



 バスを降りた白松さんが、病院の建物を見上げた。



「ああ、ここだよ」



 緊張している彼女の手を、思わず握りしめていた。驚いた表情を見せる彼女に、慌てて手を離す。



「ごめん」



「ううん……」彼女は小さく微笑んだ。「ありがとう」



 病院の玄関を入ると、懐かしい匂いが鼻をつく。消毒液と花の香りが混ざった、独特の空気。



「カオルは、今日は外来だって」



「そう……」



 待合室で待っていると、看護師の中野さんが声をかけてきた。



「あら、桜井くん! 久しぶり」



「こんにちは。元気にしてました?」



 中野さんは白松さんに気づき、優しく微笑みかけた。



「お友達? 東雲さんにも会いに来たの?」



「はい」白松さんが小さく答えた。



 しばらくすると、診察室のドアが開いた。



「カオル……」



 久しぶりに見る彼女は、少し顔色が良くなっていた。私服姿で、肩にかかる髪も少し伸びている。



「桜井くん……?」



 彼女は俺を見て驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔になった。そして、その視線が俺の隣へと移る。



「あなたは……」



 白松さんが一歩前に出た。



「初めまして、白松百合子です。桜井くんのクラスメイトで……東雲さんの音楽に憧れていた者です」

 カオルは目を見開いた。



「私の……音楽?」



「はい。昔、同じ音楽教室に通っていて……今は弾いてないんですけど、東雲さんの演奏は忘れられなくて」



 沈黙が流れる。どちらも何を言えばいいのか分からない様子だった。俺は二人を見つめながら、この瞬間が新しい絆の始まりなのだと感じていた。



「お茶でも飲もうか?」



 俺が提案すると、二人とも安堵したように微笑んだ。



 病院の中庭にあるカフェテリア。ガラス張りの明るい空間で、俺たちは向かい合って座った。



「まさか桜井くんが連れてくるなんて、びっくりした」カオルが遠慮がちに言った。



「実は、偶然なんです」白松さんが説明を始めた。「桜井くんと同じクラスで、病院に来たときに看護師さんから東雲さんの話を聞いて……」



 会話は少しずつ打ち解けていく。最初は硬かった表情も、徐々に和らいでいった。



「ピアノ、また弾けるようになった?」



「うん、少しずつね。まだ長い時間は集中できないけど」



 カオルは嬉しそうに頷いた。



「白松さんは今は弾かないの?」



「はい……音楽の才能がないって気づいて」彼女は少し恥ずかしそうに笑った。「でも、その代わりに本の世界に」



「本?」カオルの目が輝いた。「私も読書好きなの!」



「本当ですか?」白松さんの表情が明るくなる。「どんな本が好きですか?」



「最近は村上春樹とか……あと、古典も少しずつ読んでる」



「私も村上春樹好きです! 『海辺のカフカ』読みました?」



「ええ、何度も! あの本は……」



 その言葉に、白松さんの目に涙が光った。



「カオルさん……」



 俺は少し席を外すことにした。二人には、話すべきことがたくさんあるだろう。



「ちょっとトイレ行ってくるな」



 病院の廊下を歩きながら、窓の外を見る。あの日と同じ空。でも、今日はもっと青く感じられた。



 戻ってくると、二人は更に打ち解けて話していた。 



「これ、最近読んで感動した本なんです」白松さんがカバンから本を取り出している。



「もしよければ、借りてください。読み終わったら感想を……」



「ありがとう!大切に読むね」カオルは本を胸に抱きしめた。「私からも何かお返ししたいな……」



「いえ、そんな……」



「あ、そうだ!」カオルは元気よく言った。「次の外来の日に、ちょっとだけピアノ弾くことになってるんだ。病院のロビーで。もし……よかったら聴きに来ない?」



 白松さんの顔が輝いた。「本当ですか? ぜひ聴きたいです!」



「もちろん、桜井くんも来てね!」カオルは俺の方を見た。



「ああ、喜んで」



「あとね……」カオルは少し照れながらも明るく続けた。「白松さんが弾くピアノも聴いてみたいな」



「え……でも私、下手で……」



「大丈夫だよ、ここには審査員なんていないし!」カオルは笑いながら言った。「それに、白松さんの音楽、気になるんだ」



「考えておきます」白松さんは照れながらも、心の中で何かが動き出したような表情を見せた。



「桜井くん」カオルが嬉しそうに言った。「私たち、連絡先交換したんだ!」



「本当? それは良かった」




 帰り際、カオルが俺の腕を軽く引っ張った。



「ありがとう」と小さな声で言う。



「何が?」



「白松さんを連れてきてくれて。それに……」彼女は白松さんの方をちらりと見た。「素敵な人だね」



 その言葉の意味を考える間もなく、カオルは白松さんのところへ戻っていった。



 病院を後にする時、白松さんの表情は晴れやかだった。



「ありがとう、桜井くん」



「どういたしまして」



「カオルさん、すごくいい人ね」



「ああ、そうだよ」



 帰りのバスの中で、白松さんは窓の外を眺めながら静かに言った。



「カオルさんが言ってた。桜井くんは、誰かのことを大切にする人だって」



 その言葉に、胸が熱くなった。



「そんなことないよ」



「違うよ」彼女はまっすぐに俺を見た。「私、それを感じたの。あの日、初めて話した時から」



 バスが揺れる。夕暮れの光が、彼女の横顔を優しく照らしていた。



「桜井くん、明日もお弁当持ってくる?」



 唐突な質問に、俺は少し驚いた。



「ああ、多分」



「よかったら、一緒に食べない?」



「え?」



「私も作ってくるから」彼女は少し赤くなった。「もし、よかったら……」



 言葉にならない感情が、胸の中で広がっていく。



「ああ、喜んで」



 バスが駅に着く。改札を通り、別々のホームへと向かう前に、彼女が振り返った。



「あ、これ」彼女はカバンから一冊の本を取り出した。「カオルさんも好きって言ってた本。よかったら読んでみて」



「ありがとう」本を受け取りながら、俺は心地よい重みを感じた。



「桜井くん、明日学校で会おうね」



「ああ」



 電車の窓から見える夕焼け空。鮮やかな茜色が、徐々に紫へと変わっていく。



 俺のスマホに、鈴木からのメッセージが届いた。



「どうだった?」



 返事を考えながら、今日一日を思い返す。



 カオルとの再会。白松さんの笑顔。手渡された本。そして、明日の約束。



 指先が画面の上を滑る。



「うまくいったよ。明日、話すよ」





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