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教室の朝と、彼女の声

 

 朝の教室は、いつもより少し明るく感じた。


 窓から差し込む光が、机の上でゆらゆらと揺れている。昨日の三浦との会話が、まだ頭の中で反響していた。



「おはよう、桜井」



 鈴木が声をかけてきたのは、ホームルーム開始の5分前。相変わらずぎりぎりの登校時間だ。その顔を見た瞬間、昨日聞いた言葉が胸に蘇る。「鈴木じゃなくて、俺がさ」。あの頃、竹中のことでみんなが距離を置いていた中、鈴木だけは俺のそばにいてくれてたっけ。



「おう、おはよう」



「なんだよ、急に優しい顔して。気持ち悪いな」



 いつもの軽口。でも、どこか安心したような目をしている。



「昨日、三浦に会ったんだ」



「え? 三浦に? どこで?」



「駅前。バイトの帰りだって」



「へぇ、元気そうだった?」



「うん。……お前のこと、律儀だって言ってたぞ」



「俺が? また妙なこと言ってんな、アイツ」



 鈴木は苦笑しながら、ちょっと照れくさそうに頭をかいた。



「俺のこと、他に何か言ってた?」



「別に。俺が入院してたこと、教えてくれたってさ」



「あー、それね。あいつも心配してたしな」



 鈴木の言葉には、不思議と温かさがあった。これまでの数ヶ月、気づかないうちに俺のほうが距離を作っていたのかもしれない。



「それより、お前さ、もうちょい早く来いよ。毎日ギリギリだろ」



「おいおい、人の生活リズムに文句つけるなって。……それより、お前こそ、最近あんま話さなくなってたじゃん」



 その言葉に、胸がちくりと痛んだ。やっぱり、鈴木は気づいていたんだ。



「……悪かった。いろいろ、あってさ」



「まあ、元気になったみたいだし、いいけどさ」



 ふっと鈴木が視線を後ろに向けた。



「あ、白松さん」



 その名前を聞いた瞬間、条件反射のように振り返る。白松百合子が、宮田と話しながら教室に入ってくるところだった。昨日のことが思い出されて、耳が熱くなる。彼女と話さなきゃいけないことがある。そう思いながらも、どうしても声をかける勇気が出なかった。



「おはよー」



 宮田の明るい声に、俺はぎこちなく頭を下げる。白松さんはほんの一瞬だけ目を合わせて、小さく笑った。その微笑みに、胸の奥がじんわりと温かくなる。



「あ、そうだ」鈴木が立ち上がりながら宮田に声をかけた。「この前の問題、解けた?」



「えっ、あ、うん。すごく助かったよ。ありがとう」



 宮田の頬が、うっすらと赤くなる。最近、鈴木が彼女に勉強を教えていると聞いた。二人のそんなやり取りを聞きながら、ふと視線を感じて顔を上げると、白松さんがこちらをじっと見ていた。



「あの……桜井くん、少し話せる?」



 教室が、一瞬だけ静まったように感じた。鈴木と宮田の視線も、こちらに向けられている。



「あ、ああ」



 白松さんの後ろ姿を追うように教室を出る。その瞬間、鈴木のニヤニヤした顔が視界の端に映って、ちょっと悔しくなる。


 朝の光が廊下を明るく照らしていた。人影もまばらで、どこか静けさが心地よかった。



「……入院してたんだよね」



 振り返った白松さんの声は、少し低くて、心配を含んでいた。



「ああ、まあ。でももう平気」



「そう……よかった」



 彼女は一度視線を外して、窓の外を見つめた。



「実は、私……桜井くんに会いに病院に行ったの。でも、ちょうどその日、退院してて」



「……え?」



 その言葉に、息を飲んだ。まさか、彼女が俺に会いに来てくれていたなんて。



「何も言わずに退院したから、連絡しようと思ったけど……迷惑かなって思って」



 少し早口になるその声に、不安がにじんでいた。こんな風に戸惑う彼女を見るのは、たぶん初めてだった。



「……ありがとう。来てくれて、嬉しい」



 彼女の表情が、ふっと柔らかくなった。



「それとね、東雲さんに似てるって言われたの。看護師さんに」



「え? カオルに?」



「うん。お見舞いに行ったとき、『あなた、東雲さんに似てるわね。桜井くんがよく話してたのよ』って」



 驚いた。でも、確かにそうだった。静かな雰囲気や、時々見せる遠くを見るようなまなざし――白松さんとカオルには、どこか重なるものがあった。



「……あの子、元気?」



「うん。ちゃんと通院してるし、またピアノ弾けるように頑張ってるって」



「そっか……よかった」



 白松さんが、ほんの少し身を乗り出した。



「桜井くん、私……東雲さんのこと、もっと聞いてもいい?」



 その言葉には、単なる興味以上の何かが込められていた。彼女の目の奥に、一瞬、懐かしさと痛みのような光が見えた。



「もちろん。でも、なんで?」



「それは……」



 その言葉が続かなかったのは、始業のチャイムが鳴ったからだった。廊下の奥から、生徒たちの足音が聞こえてくる。



「授業だね」



「うん。また放課後にでも」



 白松さんが軽く頭を下げ、教室へ戻ろうとする。その背中に、気づけば声をかけていた。



「白松さん。今日、帰りにちょっと寄り道しない?」



 彼女は驚いたように振り返る。その瞳の中に、驚きと、もう一つ――嬉しさのような色が混じっていた。



「東雲のこと、話すよ。それと……俺のことも」



 白松さんは、ゆっくりと笑った。



「うん。ぜひ」



 教室へと戻る途中、ふと目が合った。彼女も、ほんの少しだけ微笑んでいた。


 その瞬間、何かが確かに始まった気がした。昨日の風とは違う、もっと穏やかで、もっと確かな何か。


 授業中、何度か彼女の方を見てしまう。そのたびに、彼女もそっとこちらを見返してくる。ノートに走らせた文字が、どこか踊って見えた。


 放課後の約束。それは、未来への一歩だ。でもその前に、解いておくべき問いがある。白松さんが東雲カオルのことを知りたがる理由――そして、彼女の目に浮かんだ、あの痛みのような光の意味。


 それでも今は、不思議と焦りはなかった。ただ、ゆっくりと、一歩ずつ進めばいい。


 昨日の三浦の言葉が、再び心に響く。



「お前のこと、待ってるやつはちゃんといる」



 今なら、その意味が、ちゃんとわかる気がした。


 窓の外の空は、いつもより青く、果てしなく広がっていた。



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