缶コーヒー
季節が変わる匂いを感じながら、俺は駅前のベンチに腰を下ろしていた。放課後の時間。誰にも会いたくないような、誰かに会いたいような、そんな曖昧な気持ちが、胸の奥にずっと残っていた。
白松さんに声をかけてから、俺は少しずつ、学校の風景を見つめ直していた。だけどそれは"すぐに"何かが変わるって話じゃない。ただ、何かが動き始めた気配がする。それだけだった。
ポケットからスマホを取り出して、画面をぼんやりと眺める。誰の投稿にも反応する気になれなくて、すぐに画面を消した。
「……おい、何だよ。今の虚無みたいな顔」
不意に声がして、顔を上げると、視線の先に三浦尚央が立っていた。
「……え、なんで」
「お前こそ。俺の高校の近くじゃん、ここ」
三浦はいつもの調子で肩をすくめる。あの、ちょっと皮肉っぽいけどどこか安心する口調。中学の頃と何も変わってない気がして、思わず苦笑してしまった。
「偶然……か?」
「まぁな。今、バイト帰り。駅前のカフェ。意外と働きやすいんだよ、あそこ」
「へぇ。三浦が接客とか、ちょっと想像つかないけどな」
「失礼だな。俺だって、人見知りくらい克服できるって」
笑って言いながら、三浦は俺の隣に腰を下ろした。通りを歩く人たちの喧騒が、ほんの少し遠く感じる。昔の空気に戻るのに、たいした時間はいらなかった。
「お前、前よりちょっと痩せた?」
「……まあ、いろいろあったしな」
「聞いた。入院してたって」
その言葉には、優しさよりも率直さが混ざっていた。無理に気を使っていない、それが逆にありがたかった。
「……鈴木からか?」
「うん。あいつ、そういうとこ律儀だよな。お前のこと、ずっと気にしてた」
「アイツらしいな」
「あー、でもさ。お前のほうが、アイツらのこと避けてるように見えるぞ」
その言葉に、俺は思わず目を伏せた。
「……避けてる、っていうか。自分でもよくわかんねぇんだよな。怖いだけかも」
「何が?」
「また同じことを繰り返すんじゃないかって。誰かを傷つけたり、遠ざけたり。……俺、たぶん、何も変わってないんだよ」
三浦は少しの間、黙っていた。それから、コンビニの袋から缶コーヒーを一本取り出して、俺に投げた。
「そりゃ、すぐには変わらないさ。でもさ、桜井。お前って、昔からそうだったじゃん。自分のこと責めて、抱え込んで、勝手に苦しんで……そんで結局、自分で全部背負い込むタイプだろ?」
「……うるせぇな」
「まぁ聞けって。俺、思ってたんだ。中学のとき、お前と竹中がやり合ってた頃も、もっと違う形で止められたんじゃないかって。俺がさ」
「それは……」
「違うって、言うか? でもあの時、俺、面倒ごとから逃げたかっただけだった。お前や鈴木みたいに、誰かのために怒る勇気、なかった」
今さらそんな話をされるとは思っていなかった。けれど、不思議と腹は立たなかった。むしろ、ずっと心の底にしまっていた言葉が、誰かの口から出てきたみたいで、少しだけ安心した。
「……あの頃ってさ、いろんなことが歪んでたよな」
「そうだな。でも今、お前とこうやって話せてるだけで、俺はけっこううれしいぞ」
そう言って笑う三浦の顔を、俺は改めて見つめる。変わってないようで、ちゃんと変わってる。そんな風に感じた。
三浦は少し間を置いて、何かを決意したように口を開いた。
「あのさ……幸子のこと、最近どう思ってる?」
その質問には、どこか切実なものが感じられた。俺は少し考えてから答えた。
「……どうって、連絡も取ってないし。お前と同じ高校なんだから、お前のほうがよく知ってるだろ」
「まあな。でも、やっぱり違うんだよ」三浦は少し目を逸らした。「幸子、学校では元気にしてるし、相変わらず強気だけど……お前の話になると、急に黙っちゃうんだよな」
「そうなのか」
俺の胸の奥がちくりと痛んだ。
「この前も、お前が入院したって話したら、何も言わなかった。でも次の日、『桜井のこと、どうやって聞けばいいと思う?』って、突然聞いてきたんだ」
三浦の言葉に、胸の内がざわついた。幸子との関係は、俺の中で未解決の部分が残っていた。
「……お前、今でも幸子のこと」
「ああ、まあな」三浦は照れくさそうに笑った。「でも、あいつ、お前のこととなると違う人みたいになるから。俺、あの頃はただ黙って見てるしかできなかった」
「悪かったな」
「いや、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて……」三浦は言葉を探すように、少し間を置いた。「お前たち、あれからちゃんと話したことあるのか?」
「……ない」
「そうか。でも、幸子も少しは変わったと思うぞ。昔みたいに感情的になることも減ったし。お前にも会ってみたいって、遠回しに言ってた気がする」
「本当か?」
「ああ。あいつなりの言い方だけどさ。『桜井のバカ、元気かな』って」
その言葉に、少し苦笑いが出た。幸子らしい言い方だ。
「お前、これからどうすんの?」
「……まずは、ちゃんと向き合おうと思ってる。自分のことも、白松さんのことも」
「そっか。あの子、きれいだよな。中学のときの彼女とは、全然違う雰囲気」
「え、知ってたの?」
「何回か見かけただけだよ。でも、あの子……ああいう子って、強く見えても、芯のとこで誰かに寄りかかる場所、探してる気がする」
三浦の言葉に、心が少しざわついた。白松さんのこと、俺よりも冷静に見ているようで、悔しいような、ありがたいような。
「ありがとな、三浦」
「何が」
「なんか、今日こうやって話せて……自分のこと、ちょっと見直せた気がする」
「そりゃよかった。じゃあ、次はちゃんと、自分の言葉で話してこいよ。白松さんにも、鈴木にも。それと、いつか幸子にも。お前のこと、待ってるやつはちゃんといる」
「……ああ」
そう言った俺の返事に、三浦は立ち上がり、ひらひらと手を振った。
「じゃ、またな」
「おう。……バイト頑張れよ、接客王」
「うっせぇよ」
軽く笑い合って、三浦は駅の人混みに消えていった。
残された缶コーヒーを開ける。ほんの少しぬるくなっていたけど、不思議と美味しかった。
風が少し強くなってきていたけれど、
――また、少しだけ、前に進める気がした。




