登校の日
退院してから数日が経った。
久しぶりの家での生活は、思った以上に穏やかだった。両親は俺に必要以上に干渉せず、でも気遣いを忘れない距離感を保ってくれている。
母さんが作る食事の香りや、父さんがリビングで新聞をめくる音――病院の静寂とは全く違う日常の音が、どこか懐かしくて心地よい。
だけど、まだ俺の中には不安があった。
学校に戻ること。これまで通りの生活に戻れるのか、友達や先生にどう接すればいいのか、全てがぼんやりとした霧の中にいるようだった。
「学校に行くのは、いつからにする?」
夕食の席で、父さんがふと口を開いた。
「……来週くらいには、行こうと思う」
自分の声が少し震えているのが分かった。
「無理はしなくていいのよ。先生にも事情を伝えてあるから、悠人のペースでいいって言ってたわ」
母さんが優しく微笑みながらそう言った。
「分かってる。でも、あんまり長く休むのも、逆に不安だからさ」
本当は怖い気持ちもある。けれど、ここで立ち止まっていては何も変わらない。
父さんは無言で頷き、母さんは「応援してるからね」と静かに言った。
その言葉が、俺の背中を少しだけ押してくれる気がした。
そんなある日、玄関のチャイムが鳴った。
「悠人、友達が来てるわよ」
母さんがそう言ってドアを開けると、そこに立っていたのは――
「おーっす、桜井!」
鈴木と宮田だった。
「ちょ、鈴木くん、いきなり来ちゃダメだって!」
「何がダメなんだよ? 退院したんだから、お祝いに来るのは当然だろ?」
二人のやりとりに、思わず小さく笑ってしまった。
「まあ……上がれよ」
そう言うと、鈴木は「おっしゃ!」と嬉しそうに靴を脱ぎ、宮田は「お邪魔します」とぺこりと頭を下げた。
リビングに移動し、テーブルに座ると、鈴木がコンビニの袋をテーブルに置いた。
「ほら、差し入れ。プリンとポテチとチョコ。お前、どれ好きだったっけ?」
「そんなにいらねえよ……」
苦笑しながら袋の中を見ると、なぜかお菓子ばかり大量に入っている。
「で、桜井、元気になったか?」
鈴木が腕を組みながら聞いてくる。
「まあな」
そう答えると、宮田が「無理はしてない?」と心配そうに尋ねた。
「大丈夫。……でも、まだちょっと不安はある」
「そりゃそうだよ」
鈴木が腕を組みながら言った。
「何ヶ月も休んでたんだから、いきなり元通りなんて無理だろ。でもな、焦る必要なんてねえよ」
「うん。学校は逃げないし、私たちもいるしね」
宮田の言葉に、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「……ありがとな」
二人と話しているうちに、不安よりも「また学校に行ってもいいかもしれない」という気持ちが少しずつ芽生え始めていた。
「学校のこと、みんなのこと、ちゃんと聞けてよかった」
そう言うと、宮田が優しく微笑んだ。
「桜井くんが戻ってくるの、みんな待ってるよ」
「でも、無理すんなよ? いつものお前のペースでいいからな」
鈴木が軽く拳を突き出してくる。
俺も拳を合わせながら、小さく笑った。
「……そっか、じゃあ、そろそろ考えてみるよ」
そう答えた瞬間、自分の中で少しだけ前に進めた気がした。
その夜、布団に横になりながら、鈴木と宮田の言葉を思い返していた。
「焦らなくていい」
「俺のペースでいい」
病院でカオルに言われた言葉とも、重なる気がする。
外の世界に戻ることが怖くても、少しずつ進めばいい。
「……また、学校に行けるかな」
窓の外には、静かな夜空が広がっていた。
「いや、行くんだ」
鈴木や宮田、白松さん、そしてカオル――俺を支えてくれた人たちのためにも。
もう一度、俺はちゃんと前に進む。
「大丈夫、俺ならできる」
――迎えた登校初日。
久しぶりに袖を通した制服が、少し窮屈に感じる。
鏡の前に立ち、ネクタイを締め直す。
「……変じゃないよな」
窓の外は、明るい朝の光に包まれている。
鈴木や宮田と約束した通り、俺は今日から学校に復帰する。
けれど、いざ家を出るとなると、不安が押し寄せてきた。
クラスメイトたちが俺をどう思うのか、白松さんとはどんな風に接すればいいのか――考え始めると、足がすくみそうになる。
「大丈夫、焦るな」
鈴木も宮田も、無理しなくていいって言ってくれた。
俺は俺のペースでいい。
そう自分に言い聞かせながら、ゆっくりと玄関のドアを開けた。
昇降口に足を踏み入れた瞬間、周囲の視線を感じる。
でも、誰も特に何かを言ってくるわけではない。
ただ、好奇心と戸惑いが入り混じったような視線が、俺の行く先々にまとわりついている気がした。
廊下を歩くたび、クラスメイトたちがちらりとこちらを見ては、何事もなかったように会話を続ける。
そんな中――
「桜井!」
遠くから聞き慣れた声が響いた。
「おーっす! やっと来たな!」
鈴木が大げさに手を振りながら駆け寄ってくる。
「……お前、うるさい」
思わず苦笑すると、鈴木はニッと笑った。
「まあまあ、静かに迎えるのは俺らしくないだろ?」
「鈴木くん、朝からテンション高すぎ……」
宮田が少し呆れたようにため息をつく。
「桜井くん、おはよう」
宮田がにこりと微笑む。その何気ない一言が、俺の緊張を少しだけ解いてくれた。
「……おはよう」
こうやって迎えてくれる友達がいることに、少し安堵する。
そのまま二人と一緒に教室へ向かった。
教室の扉を開けると、クラスメイトたちがそれぞれの席で談笑していた。
俺が入ると、一瞬だけ空気が変わった気がしたが――
「おはよー!」
「桜井、久しぶり!」
次々と声がかかる。
「……おう、久しぶり」
ぎこちなく返すと、周りの緊張も少し解けたようだった。
自分の席に向かおうとしたその時――
「桜井くん」
優しい声が、すぐ近くから聞こえた。前の席から立ち上がって振り向いた白松さんがそこにいた。
「おはよう」
彼女は穏やかな微笑みを浮かべていた。
「……おはよう」
俺は一瞬、言葉に詰まりながらも、なんとか返す。
「戻ってきてくれて、本当に嬉しい」
その一言が、胸の奥にまっすぐ届いた。
俺が何も言えずにいると、白松さんはふっと笑って、続けた。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
その言葉を返した瞬間、ずっと心の中にあった重みが少しだけ軽くなった気がした。
「はい、席ついてー! ホームルーム始めるよ!」
先生の声に促され、俺は自分の席へと向かった。
椅子に座り、周りを見渡す。
久しぶりに戻ってきた教室。
でも、変わらない日常がそこにはあった。
白松さんの「おかえりなさい」という言葉が、ずっと胸の中に残っていた。
過去の自分を否定することじゃない。
今の俺で、ここに戻ってきた。それでいい。俺は、またここでやっていける。
そう思いながら、朝の光が差し込む窓の外を見つめた。




