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静寂の講堂

 

 開放病棟に移ってからも、講堂は俺にとって特別な場所だった。


 古びたピアノ、窓から差し込む柔らかな光、静けさ――そこにいると、少しだけ心が落ち着く気がした。

 ある日の午後、講堂のドアを開けると、そこにはカオルがいた。


 ソファに腰を下ろし、窓の外をじっと見つめている。いつもより少し寂しそうな横顔だった。



「……カオル?」



 声をかけると、カオルは振り向いて小さく微笑んだ。



「桜井くんも来たんだね。今日、静かだから……ここでちょっと考え事してたの」



 その言葉に、少しだけ心配になった。彼女の目がどこか遠くを見ているようだったからだ。



「考え事?」



 俺が尋ねると、カオルは軽く首を振った。



「ううん、大したことじゃないよ。ただ……色々と思い出しちゃって」



 その声には、微かな影があった。


 俺は隣のソファに腰を下ろし、しばらく窓の外を眺めた。

 中庭の木々が風に揺れて、葉の隙間からこぼれる光が地面に揺らめいている。


 何か話すべきか迷っていると、カオルがふと呟いた。



「ここにいると、自分が本当に存在してるのか分からなくなるよね」



「ああ。そうだな」



「桜井くんは……どうしてここにいるの?」



 その問いに、一瞬だけ戸惑った。


 でも、これまで閉ざしてきたものを話してもいいと思えるくらいには、彼女を信じていた。



「……壊れかけたんだよ、俺」



 静かにそう答えると、カオルは驚いたように目を見開いた。



「……壊れかけた?」



「ああ」



 俺は軽く息をつき、思い切って自分のことを話し始めた。

 その言葉に、カオルは少し驚いたようだったが、すぐに頷いた。



「聞きたい。桜井くんのこと、もっと知りたいから」



 その言葉に背中を押されるように、俺はゆっくりと話し始めた。



「俺、白松さんっていう子が好きなんだ」


 

 最初にその名前を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。



「白松さん?」



 カオルが首をかしげる。その仕草に、少しだけ微笑んでしまう。



「……同じクラスの子だ。すごく優しくて、誰にでも分け隔てなく接する……俺には、まぶしすぎるくらいの存在だった」



 カオルは黙って頷き、続けるよう促してくれた。



「……俺は、白松さんに認めてもらいたくて、いろんなことを頑張った。学校では成績を上げようと必死になったし、バイトでも無理をしてた。それに、家族の期待にも応えたくて……気づけば、自分が壊れるまで全部を背負い込んでた」



 その言葉を吐き出すたびに、胸の奥に溜まっていたものが少しずつ軽くなっていくような気がした。



「でも、結局どこかで限界がきて……家族に当たったり、自分でも制御できなくなって。気づいたら、こうなってた」



 カオルはじっと俺の話を聞いてくれていた。その瞳には、優しさと共感が宿っているように思えた。


 少し息をついて、俺はさらに話を続けた。



「……ほかにも、バイトの帰りにひどい目に遭った。竹中ってやつに……」



 言葉に詰まる。思い出すだけで、手が膝の上で震えていた。


「そいつに、煙草を顔に押し付けられたんだ」


 指で顔を指し示すと、カオルは息を呑んだ。



「それからだ。誰にも言えなくなって、自分の中でどんどん壊れていったのは」



 彼女は静かに俺の手に触れ、自分の手を重ねた。



「……辛かったね」



 その声には、どこか震えが感じられた。



「カオルは?」


 

 思わず問いかけていた。


 彼女は少し目を伏せ、遠くを見つめながら小さな声で話し始めた。



「……私の家族は、普通じゃなかった」



 その言葉には重みがあった。



「父親はすごく厳しくて、何でも自分の思い通りにしようとする人だった。母親はそれに耐えきれなくなって、ある日家を出て行った。それから、私は父親と二人きりになった」



 声が少し震えているのが分かる。



「父親は、私に母親の代わりを求めてきた。でも、私はそんなの無理だった。それでも、逆らうことなんてできなくて……いつの間にか、自分が壊れそうになってた」



 彼女の言葉には、計り知れないほど深い痛みが宿っていた。



「だから、ここに来たんだ。壊れる前に逃げたくて」



 その言葉に、俺は胸が締めつけられるような感覚を覚えた。



「……大変だったな」



 俺がそう言うと、カオルは少しだけ微笑んだ。



「桜井くんもね」



 彼女のその言葉が、どこか救いのように感じられた。


 講堂の中は静かだった。窓から差し込む陽射しが、カオルの横顔を柔らかく照らしている。



「……桜井くん」



 カオルが静かに口を開いた。



「こうやって、桜井くんと話してるとね……少しだけ楽になれるんだ」



 その言葉に、俺は小さく頷いた。



「俺もだよ」



 気づけば、そう答えていた。


 お互いに抱えるものが違っても、感じる痛みはどこか似ていた。


 誰にも話せなかった過去を語り合うことで、俺たちは少しだけ心を軽くすることができた気がした。


 カオルがそっと微笑む。



「……ありがとう、桜井くん。竹中ってやつのこと、忘れられるといいのにね」



 その言葉が胸に染み込んでいった。


 その日の夜、病室のベッドで横になりながら、俺はカオルとの会話を思い出していた。


 竹中の件を忘れられる……か……いいや、忘れられるわけがない。「した方は忘れるがされた方は憶えているもの」だ。


 しかし、彼女と話せたことで、少しだけ自分の傷を受け入れられた気がする。


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