バーガーショップの長い夜(前)
閉店間際のハンバーガーショップには、昼間の賑わいが嘘みたいに静かな空気が漂っていた。
フロアに響くのは、鈴木が床を擦るモップの音だけ。
「おい、桜井。そっちのトレーは全部拭き終わったのか?」
鈴木が振り返りながら俺に声をかける。
「全部なわけないだろ。これ、いくつあると思ってんだよ」
「いやいや、それくらいさっさと終わらせて帰ろうぜ。この後、俺は風呂で1時間コースって決めてるんだからよ」
いつもの軽い調子だ。
俺がトレーを拭き終わったら、次はフライヤーの片付け。鈴木の掃除ペースを見た感じ、まだまだ帰るのは先になりそうだった。
そんな冗談を交わしていると――
ガラガラッ!
店の扉が勢いよく開いた。
「いらっしゃいませ――」
条件反射で言いかけた俺の言葉が、途中で止まる。
入ってきた男は、顔をマスクで隠し、手には黒い袋と、何か硬そうな棒のようなものを握っていた。
「……カネを出せ!」
低く響く声に、店内の空気が一変する。
心臓がドクンと跳ねた。
男の声が響くと同時に、鈴木が振り返った。
「カネって……?」
呟くように言いかけたその瞬間、男が一歩前に踏み出し、ドンッ!とカウンターを叩く。
「さっさとカネを出せって言ってんだよ!」
俺の手が無意識に拳を握る。
どうする? 逃げるわけにもいかない。
でも、下手に刺激すれば何をされるか分からない――。
そんな中、突然鈴木が口を開いた。
「いやいや、待ってくれよ」
男の緊迫感をものともせず、いつもの調子で話し始める。
「カネとか言われても、俺たちバイトっすよ? 金庫のことなんか知るわけないじゃないっすか」
「うるせぇ! いいから金庫に案内しろ!」
男がさらに声を荒げる。
鈴木の言葉に動揺したのか、一歩踏み出して彼に詰め寄った。
その隙に、俺はゆっくりと後ろに下がり、バックヤードへ向かう。
息を殺しながらスマホを取り出し、震える指で画面をタップする。
――110番
「こちら、ハンバーガーショップです。強盗が……」
簡潔に状況を伝え、すぐに通話を切る。
警察が来るまでの時間をどう稼ぐか――。
俺はそっとカウンターの裏から覗いた。
鈴木は相変わらず軽口を叩きながら、男の注意を引きつけている。
「バイトが金庫の場所知ってたら、それこそ問題でしょ? 俺ら、そんな重要な仕事してないんで」
内心、その大胆さに驚きつつ、俺も男の背後に回り込むタイミングを探る。
その時――
カランッ
店のドアが開く音がした。
振り返ると、そこには 白松さんの姿があった。
「桜井くん……?」
彼女が何かを察したのは一瞬のことだった。
目の前にいるマスクをした男、張り詰めた店内の空気――
白松さんの顔から血の気が引いていくのが分かる。
「これ……強盗……?」
震える声で呟く彼女は、スマホを取り出し、何かを操作し始める。
たぶん、警察に電話しようとしているのだろう。
しかし――
彼女はそのまま、ゆっくりと店内に足を踏み入れようとした。
「待て、白松!」
とっさに声を上げた俺は、カウンターを飛び越え、彼女を制止する。
「中に入るな! 外にいてくれ!」
俺の声に、白松さんはハッとした表情を浮かべる。
彼女の足がピタリと止まる。
一方、男はまだ外の状況には気づいていない。
鈴木がうまく注意を引きつけ続けているおかげだ。
「……強盗やるなら、もっとでかい店行ったほうが効率いいっすよ?」
「いいから黙って金庫の場所を教えろ!」
男は苛立ちを募らせ、鈴木に詰め寄る。
俺は息を殺しながらカウンターの裏に戻り、警察の到着をひたすら待つ。
外では、白松さんが店の様子をじっと見守っていた。
震えながらも、その目には俺たちへの心配が宿っている。
――その時
遠くからサイレンの音が聞こえた。
赤色の光が店内にちらちらと反射する。
男の表情が一変する。
「くそっ!」
男が店の出口に向かおうとした瞬間、パトカーが店の前で停まり、警察官たちが一斉に店内へ突入してきた。
「動くな!」
男は反射的に何かを叫びながら抵抗しようとするが、警官たちに取り押さえられる。
事件が収束した後、俺と鈴木はようやく緊張から解放された。
カウンターにもたれかかり、二人して息を吐き出す。
「お前、よく軽口叩けたな……」
「いや、叩いてないと俺の心臓持たねぇよ。つーか、怖くて手震えてたわ」
鈴木が苦笑しながら手を広げて見せる。
確かに小刻みに震えていた。
外に目を向けると、白松さんが立ち尽くしていた。
店内を見つめている彼女の顔には、涙の跡がうっすらと残っている。
俺はドアを開け、彼女の元へ歩み寄った。
「白松、大丈夫か?」
声をかけると、彼女はほっとした表情で頷く。
「……桜井くん……鈴木くん、本当に無事でよかった……」
彼女の目が潤み、思わず視線をそらす俺。
あの時、何もできないまま店に入ろうとしていた彼女を制止したけれど――
俺は、彼女がどれだけ勇気を振り絞っていたのかを知っている。