冬夜、すれ違う想い
バイトを終え、寒い夜道を歩きながら、気づけば足は白松さんの家の方へ向かっていた。
心の中では「こんなことしてどうするんだ」と自分に問いかける声が渦巻いていたが、それでも歩みは止まらなかった。
白松さんと話さなければならない気がしていた。
家の前に立つと、リビングの明かりが温かく灯っているのが見えた。
チャイムを押すべきか迷う。
「いや、さすがにそれは迷惑だろう」
けれど、このまま引き返すのも違う気がする。
悩んでいると、ふいに玄関の扉がそっと開いた。
「桜井くん……?」
驚いた様子の白松さんがそこに立っていた。
彼女の顔には戸惑いと、どこかほっとしたような表情が浮かんでいる。
「……ごめん、いきなり来て。少しだけ、話せる?」
俺の言葉に、白松さんは一瞬ためらったものの、小さくうなずいた。
俺たちは近くの公園まで歩いた。
ベンチに腰を下ろし、冬の冷たい風を感じながら、俺の心臓は高鳴っていた。
「……体調、大丈夫?」
「うん」
白松さんの声は小さく、風に溶けそうだった。
「昨日のことだけど……いきなり別れたいなんて言われて、正直、理由が分からなくて混乱してるんだ」
白松さんは言葉を飲み込むように黙り込んだ。
夜風が彼女の短く切られた髪を揺らしている。
俺は少し言葉を切りながら続けた。
「もし俺に悪いところがあったなら教えてほしい。俺、ちゃんと直したいから」
その一言に、彼女は目を伏せて唇を噛んだ。
「……桜井くんのこと、嫌いになったわけじゃないの。でも……」
「でも?」
彼女の声が掠れ、震えている。
「……止めてくれると思ってたの……」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。その言葉は、まるで時間を巻き戻すように俺の記憶を掘り起こす。あの時、俺は怖かったんだ。拒絶されるのが。
「止めるって……どういうこと?」
俺は少し身を乗り出して、彼女の顔を覗き込んだ。
「別れたいって言ったとき、本当は……桜井くんが『嫌だ』って言ってくれると思ったの」
白松さんの目が揺れていた。
「でも……桜井くんはすぐに『分かった』って……」
その言葉を聞いた瞬間、胸がギュッと締め付けられるような感覚が襲った。
俺の口にしたあの「分かった」が、彼女にどう響いていたのか、その意味を初めて知った。
街灯の明かりに照らされながら、俺たちはベンチに並んで座っていた。
言葉を失った俺の横で、白松さんは静かに口を開いた。
「……桜井くんと一緒にいるの、私にはもったいないって……思っちゃったの」
彼女の声は震えていた。
「ごめんね、桜井くん。勝手に一人で決めつけて」
その言葉に、俺は小さく首を振った。
「別に……謝らなくてもいいよ」
白松さんが少し驚いた顔をして、柔らかく笑った。
「……ありがとう。桜井くん……」
その笑顔が、かすかに揺れて見えた。
どうすればいいのか分からなかったけれど、ただ彼女のそばにいることだけは間違っていない気がした。
「……百合子! どこにいるの!?」
公園の入り口から響く声に、俺たちは振り返った。
そこには、白松さんのお母さんらしき女性が立っていた。
「お母さん……」
白松さんが小さく呟き、立ち上がる。
「お母さん、ごめんなさい……」
駆け寄る彼女に、母親は心配の色を隠せない表情で問いかけた。
「百合子……こんな時間に出歩いて、何かあったのかと思って心配したのよ」
母親の視線が俺の方に向けられる。
「すみません……俺が、少しだけ話したくて」
頭を下げる俺に、彼女はじっと目を向けたあと静かに言った。
「あなた……桜井くんね」
名前を呼ばれたことに驚いた。
「え……あ、はい」
「百合子から、あなたのことは聞いてるわ。でもね、桜井くん……こんな時間に二人で出歩くのは、やっぱり心配するものよ」
「すみません……」
言いかけたところで、白松さんが言葉を挟んだ。
「お母さん、私が勝手に出てきただけなの。桜井くんは悪くないから」
彼女の真剣な表情に、母親は深くため息をついた。
「とにかく、帰りましょう。桜井くん、遅くまでありがとうね。気をつけて帰るのよ」
「はい、すみませんでした」
白松さんは母親に促され、公園の外へ向かっていった。
彼女が振り返り、小さく手を振る。
その姿が見えなくなるまで、俺は立ち尽くしていた。
家へ向かう帰り道、吐く息が白く凍る。
ポケットに突っ込んだ手をぎゅっと握りしめた。
「……やっちまったかな」
白松さんの母親の言葉が頭の中で反芻する。
――「百合子から、あなたのことは聞いてるわ」
彼女が俺のことを母親に話していたなんて、少し意外だった。
それだけ、彼女にとって俺が大事な存在だったってことなんだろうか……?
夜空を見上げると、星が一つ瞬いていた。
これで終わりじゃない。むしろ、これからだ。
そんな気がしていた。
「……ちゃんと向き合わなきゃな」
そう自分に言い聞かせながら、冷たい風の中、俺は歩き続けた。