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花のナポレオンフィッシュ3

 その時、魚が大きく身体をひねらせて、空からスペアミントの香りが降ってきた。

 思わず肺の奥まで深呼吸をしてしまう。

「オゼさん!」

 遠くからオオミに呼ばれた気がした。

「おい、大丈夫か?」

 アオチの声もする。何時間かしか離れていないのに、ひどく懐かしい。

 隣の船の甲板に二人の姿があった。

 あいつらずっと外にいたのか? ブリッジの中からだと姿も声も確認できなかった。

 右舷の方からウルウと無言ちゃんも小走りでやって来るのが見えた。

「お前たちも、許してくれるのか」

 やっとの思いで尋ねた俺に、二人が真剣な表情で答える。

「許すもなにも……悪いのは神様でした」

「お前、ローヌに騙されているんだ。早くこっちに戻って来い」

 こいつらも神様の話を聞いたのか。でも、ローヌに騙されているとは何のことだろう。もう一度スペアミントの空気を吸い込んで言った。

「俺もそれは聞いたよ。三人で、神様の作ったルールを潜り抜けよう」

「はい。神様は反抗的な人間に色んな罠をしかけてくるそうです。さっきの百万体のクリスタルもそれです。この、記憶喰い魚も僕たちを惑わすためにやって来て、ゲホッ……」

 声量のないオオミが声を張り上げ続けていたので、思いっきりむせた。

「お前、無理するなよ。あの魚は俺たちの悪い記憶を喰うんじゃないのか? だったら、そんなに危険じゃないだろ。だいたい俺はナポレオンフィッシュが好きだ」

 そう言った俺の顔に何か優しい感触のものが落ちた。

 青い花びらだ。

 呼吸を整えて、空を見上げた。

 花が、咲き始めていた。

 青い魚の身体の内側から、次々と瑞々しい花が盛り上がってきている。そのせいで、表面の古い花びらがどんどん落ちているんだ。

 桜の花が降るさまは何度も見たことがあるが、青いものは初めてだ。思ったより小さな花びらだ。これが集まってあの巨大な魚の鱗になっているのか。心にあった重い物が青い花びらに沁み込んで、そのまま海に飛んで行ってくれそうな、そんな気になった。

 アオチとオオミを見ると、目を瞑って花びらを全身に受けている。その後ろの無言ちゃんもだ。ウルウだけは楽しそうに花びらを両手で受けてくるくると回っていた。こいつは生まれたばかりだから、吸い取られるような悪い記憶なんてないのかもな。

 甲板にも花が積もり、青いステージのようだ。

 花を掻き分ける音がして振り返ると、おばさんとマモルが立っていた。

「兄ちゃん、お花きれい」

「青のブルンネラだね。見慣れたものより大きいけど」

 おばさんが静かに言った。

「あの、小さい公園に咲いてたやつですか」

 俺の家の近く、ということはおばさんのアパートの近くでもあるのだが、ブランコと鉄棒とシーソーが置いてあるだけの、狭い公園があった。

 確かにそこで見た花だ。今までずっと忘れていた。本当にあの公園があったのかすら怪しい。記憶の中で作り上げた場所ではないか? 自信がない。

「そう、一緒に見たじゃない、忘れてしまった?」

 そんなーー今まで忘れていたなんて、そんなの信じられない。

 あの頃のことは全部覚えてるはずなのに。おばさんの言葉も、その言葉を発した時の口の動きも、目の色も、全部覚えているのはずなのに。

 いや、でも待て。現におばさんとマモルを殺した事を忘れていたじゃないか。そういえば、アオチとオオミは俺が人殺しだと知らない。知らないから、ああやって気楽に戻って来いとか言えるんだ。

 俺のやった事を知ったら、むしろ二人がかりで俺を殺しに来るかも知れない。ああ、どうしよう、混乱する。

 おばさんはもう俺に話しかけるのをやめ、空のナポレオンフィッシュを見ている。

 おばさんには青が似合う。俺の好きな青が。いや、おばさんに似合うから青が好きになったのか? もう良くわからない。

 浮遊感の中、見上げたナポレオンフィッシュと目が合った。

 さっきまでは目なんか無かった。フォルムだけで動いていたのに。怖い。青い花の奥から覗く感情のない横眼で、俺たちの船をじっと見ている。

 他のみんなは目を閉じているので気がついていない。

 回収人たちはどこへ行ったんだ。俺たちを守ってくれるんじゃなかったのか。

「みんな、目を開けろ! 船の中に入るんだ!」 

 そう叫んだ時だった。ナポレオンフィッシュがその花で出来た身体を俺たちの方へ向けた。

 そのまま勢いよくこっちに落ちて来る。おばさんとマモルを守らないとーー。

 身体の向きを変えたのと、おばさんが魚に喰われたのは同時だった。


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