夢の中、つぎの夢につづく
茜ちゃんが部屋へ入っていくと登君がさかんに首をひねっています。
「お兄ちゃん、なにむつかしい顔してるの」
登君ははっと顔をあげましたが、茜ちゃんだと知るとまた首をひねります。
「ねえ。なに考えてるの」
「え。ああ。夢ってさ」
「夢? 眠ってるとき見るあれね」
茜ちゃんは登君のとなりにぺたりと座りこみました。
「そう。あれ。夜、寝てるときのあれなんだけど」
「その夢がどうしたの」
「自由がきかなくてさ。思うように行動できないんだ。それ、なぜかなって」
「夢の中で?」
茜ちゃんはふしぎそうに顔をかたむけました。だって夢の中は、この世界とちがって自由で、なんでも思いどおりになると思っていたからです。
「うん。たとえばさ」
登君はなにかを思い出そうとして目をつむりました。真っ暗闇になるのを期待していましたが、まだ日が高く窓からきらめく光がまばゆいほどに差しているので、まぶたの裏は明るいオレンジ色であふれます。あたたかくていい気持ちです。登君はうとうとしたかと思うとカクンと頭をたれて眠りに落ちてしまいました。
「ここは」
目をあけてみると見知らぬ風景が広がっていました。遠くまで草原が緑の風にそよいでいます。抜けるように真っ青の空はどこまでも高く、さわやかな空気に満たされていました。登君は深呼吸をします。新しい自分になった気分です。
「ああ、いい気持ちだ」
登君は草の上に手足を思い切り伸ばして大の字に寝そべります。太陽の光が、目に映るものすべての隅々にまで広がっています。
「お兄ちゃん」
「あれ、茜。どうしてここに? ここはぼくの夢の中だぞ」
「知らない」
登君は茜ちゃんを見て考えました。夢なんだからだれが出てきてもふしぎはない。知らない人だって出てくるんだ。妹がいたっておかしくはない。登君はぷいと茜ちゃんに背を向けて草原の小道をたどりはじめました。
草はさいしょこそ足元でなびいていたのですが、やがて膝の高さになり、腹から胸へとどんどん丈高く生い茂ってきました。
「お兄ちゃん、イヤだ、これ。こんな道」
茜ちゃんがべそをかくのも無理はありません。草はとうとうサトウキビか葦のように背よりも高くなってしまったのです。
「ぼくだってこんなとこ来たくないさ。しょうがないだろ、夢の中なんだから」
茜ちゃんははぐれないように登君のズボンのベルトをつかんでいます。
「こんなとこ早く出ましょ」
「うん。なんか暗くなってきたぞ」
さきほどまでの草原とちがって丈高い草があたりを覆いつくしています。陽の光はさえぎられていますが、それだけでなく、光がどんどん吸いとられるように弱くなってきました。へんな風も吹いてきます。
「なんだろうここは」
「臭い。息がつまりそう」
茜ちゃんは思わず両手で鼻と口をふさぎましたが、そのとき、登君のベルトをつかんでいた手を離してしまいました。
「あ」
登君がふり返ったときにはもう大きな草の葉が、二人の間をさえぎっていました。
「茜!」
登君はあわてて手を伸ばし、巨大な葉を取りのけながら茜ちゃんを呼びますが返事はありません。どこへ行ったんだろう。今のいままでくっついて歩いていたのに。でもまあ、ここは夢の中だから心配することはなにもないだろう。どっちみち夢の中なら思いどおりにはいかないから、見つけようとしたってかえって見つからないはずだ。気の向くままに歩いたほうが見つかるかもしれない。
不安な気持ちをふり払うように大またで駈けるように足をすすめました。いちど真っ暗になりましたがやがて光がそっと降りてきて、またたく間にあたりを満たしました。生い茂っていた大きな葉も姿を消しました。見晴らしがきくようになると、そこはまた広い草原で気持ちのよい風が渡っていきます。登君は足を止めて寝っ転がります。
「ああ、いい気持ちだ」
大きく両手を広げて大の字になります。降りそそぐ陽が体じゅうをぽかぽかと暖めてくれて、ふっと意識が飛びそうです。
『いかん。ここは夢の中だ。夢の中で眠るなんておかしな話だ』
眠気を振り払おうとカッと目を見開きます。真っ青な空にぽかりと綿菓子のような雲が浮かんでいました。雲はかたちをゆっくりと変えていくようです。
「お兄ちゃーん」
どこか遠くで声がします。登君は『茜の声だ』と直感しました。ガバとはね起きてあたりを見まわしますが、人の気配はありません。おかしいな、空耳かなと、もう一度寝転がって目を閉じているとまた聞こえます。
「お兄ちゃーん」
「え」
「ここよ。上を見て」
聞こえるままに目をあけて空を見上げると、わ、なんてことでしょう。ぽっかり浮いていた雲が妹の茜の姿になって浮いているではありませんか、
「うわ」
登君はびっくりしてポカンと口をあけたまま固まってしまいました。
「お兄ちゃん、しっかりして」
「あ、あ、茜なのか。ほんとに」
「そうよ。わたしよ」
「なんで雲になって浮いてるんだ」
「これがわたしのほんとうの姿よ」
「そんなはずは。さっきまでいっしょに歩いていたのに」
「お兄ちゃん。こっちおいでよ」
「え。そんなことできるはずないだろ。茜こそ、降りといで」
「だいじょうぶよ、ほら。えい!」
くるくるとまわる風が舞い降りて来て登君をつつみ込みました。わ、なんだこれはと抵抗してもがきますが体がいうことを聞きません。夢の中だから体の自由が利かないんだと登君は考え、もう力を入れるのをやめて風のなすままにまかせました。すると、体がふわりと浮くではありませんか。スニーカーの靴先が地面から離れるとき、解放感が全身を駈けぬけ、えもいわれぬ心地よさを感じました。
「なんだ、これ。どうなってんの!」
ゆっくりと体が上昇していき、茜ちゃんがいる高さに来ました。すると上昇が止まり、空中に浮かんだ状態で、風のいたずらかふわふわ揺れています。
「わ。わ。わぁああ。落ちる落ちる」
みんなと同じように登君も高いところから落っこちる夢をいくども見ています。その感覚がよみがえって、おヘソのあたりがヒューッと音を立てて締めつけられるようです。
「わ。わああ」
登君は叫びつづけます。それを茜ちゃんは間近で見ていてなにやら楽しんでいるようにみえます。落っこちるはずがないと知っているからそんな冷たい態度ができるのでした。じっさい、登君は手足をバタバタさせていますが落ちる気づかいはなさそうです。浮いたまま、もう上昇も下降もしません。
「ぎゃああ」
それでも登君は恐怖のあまり叫びます。高いところに浮いているという状態はなかなか夢のなかとはいえ、慣れないとコワいものです。
「だいじょうぶよ、お兄ちゃん。落ち着いて」
茜ちゃんは高みの見物を決めこんで、ひざをかかえて座っています。空中ですから座るところはないのですが、そういう姿勢をとることでリラックスできるようです。
「ほらほら。じたばたするとバランスくずしてホントに落ちちゃうよ」
「そんなこと言ったって」
「力をぬいて。ほら。深ーく息を吸って~吐いて~」
なんだかからかわれてるみたいだと昇君は思いましたが、ほかにどうすることもできないので、言われるがままに深呼吸をしてリラックスをこころがけます。すると、ピタリと空中で静止できました。
「へーえ」
コツさえつかめば平気なんだとわかると、空に浮いてることが愉快な気持です。
「これってさ、移動できるのかな」
「もちろんできるわ。ほら。ついて来て」
茜ちゃんは手慣れたようすで泳ぐようにすいすいと進んでいきます。登君は見よう見まねで空気をかいて前に進んでいきます。地上の建物がほんの点にしか見えないほどの高さですから現実感が乏しく、しだいに恐怖心は薄らいでいきました。
「どこ行くのさ」
「一周しましょうか、世界一周。地球一周かな」
「え。え~ そんなことできるのか」
「もう始めてるでしょ。ほら、もうハワイよ、あれ。あの島の集まり」
「へーえ。そうなのか。言われてもピンと来ないけど」
「じゃあ、降りてみる?」
「いや。まだ。なんか気持ちいいし。このまま飛びたい」
「ほうら、もうアメリカ大陸だわ」
「見た感じはそうなんだけど、なんか、絵でも見てるみたいだ」
「そんなもんよ。世界なんて」
「茜はこういうのよく見るの?」
「いつも見てるよ。もっと小さくなってるけど」
「もっと小さいって。もっと高くからってことかい」
「そう。もっとずっと高いところ」
「ふうん」
登君は頭をひねりました。
「ここよりもっと高いって、空よりも上か」
「ええ」
「空より上ってことは宇宙だぞ。そんなところに行けるもんか」
「あら、行けるわよ。行く? いまから」
「うん。行こう」
茜ちゃんは大きくうなずいて登君の手を取るや、えいと空気を一蹴りしました。すると二人の体はいっきょに空の高みのそのまた上へと上昇していきました。
「うう」
登君がうなります。空気がうすくなってきたのです。
「くくく苦しい」
「お兄ちゃん、しっかり! もうそこよ」
茜ちゃんは登君の手を強くにぎって全身に力をこめて急ぎます。
「ほら、着いた」
二人の目の前には大きな円筒形のものがありました。猛烈な速度で移動するその円筒形に片手で取りつくと、えいと思いきり引っぱりました。ガタンと扉のようなものがこちらに倒れて来ました。
「さあ、入って」
どさりと倒れこんだのは柔らかい床の上でした。バタンと扉を閉めるとふわりと空気がゆらぎます。登君は息を吸い込んでほっとしました。
「ああ、死ぬかと思った。ここは?」
「人工衛星よ。使われなくなった衛星を再利用してるんだって」
「へーえ」
20世紀半ばから打ち上げられた人工衛星は1万機以上で、耐用年数を超えて打ち捨てられた衛星は数知れません。
「その衛星にわたしたちは住んでるの」
「え。なに言ってんだい。ここに住んでるって…」
「コツコツと改造して住めるようにしたのよ」
「いや、そういうことじゃなくて。でもいったいだれが改造を」
「ここにはね、いろんな人がいるの」
「ほかにも人がいるのか」
「大工さんや鍛冶屋さん、建築士、現場監督、調理師、化学者、工学専門家、サイバネティスト…」
「へえ」
「お医者さんもいるわ。でもここでは役に立たない。だれも病気にならないし、威張るばかりでなにも出来ないしね」
「そうなんだ」
「人だけじゃない。犬や猫もいる。あ、くろちゃん」
黒毛の猫が奥の扉からちょこんと顔を出してこちらをうかがっていました。名前を呼ばれるとにゃあと言って近づいてきます。登君はひと目見るなり、あ、と息をのみました。
「おまえ、くろじゃないか。どうしてこんなところに」
「こんなところってなに」
「いや、そんなつもりじゃなくて。でも、くろは死んだんだ二年前に」
言ってる先から猫はぴょーんと登君のひざに乗っかりました。とたんになつかしい感覚がよみがえります。
「くろ!」
そっと抱き締めると猫も爪をたてて登君の腕にしがみついてきます。猫とはいえ、物心つく前からずっといっしょに過ごしてきた分身みたいな存在です。登君は感情がはげしくゆさぶられて涙を流しています。
「くろ、よかったね。お兄ちゃんに会えて」
猫は甘えた声をだして登君のひざの上に落ち着きました。
「おや、お客さんかい」
また奥からだれか来ます。
「まあ、登じゃないか。まさか、おまえまで!」
「ちがうのよお婆さん。お兄ちゃんはわたしが連れてきたの」
「ほ。そうかい。でも、あまり長居しちゃいけないよ。さもないと」
「わかってる。でも、ソーダ水かジュース、飲みたいな。のど乾いちゃった」
「はいよ。登はクリームソーダだね」
「え。あ。はい。えーと」
「ヤだね、この子は。おまえのお祖母さんだよ。忘れちまったかい」
プンプンしながらお婆さんは奥へ入って行きました。
「え。お祖母さんて。え。ええ~。何年か前に亡くなった旭の」
「そう。お祖母さんだわ、わたしたちの」
登君は猫の頭をなでながら、混乱する頭のなかを整理しようといっしょうけんめい考えをめぐらします。でも、なにからなにまで腑に落ちないことばかりで謎ばかりが大きくなっていきます。くろもお祖母さんも死んでるのに、なぜここに。茜はここに住んでると言った。おかしいだろ。ぼくと茜は地上の、ぼくたちのうちにいっしょに居るのに。
「はい、おまちどおさま。茜はレモンジュースだね」
「ありがと」
茜やお祖母さんに聞いてみると、ここには水も食料も果物や野菜もそろっているそうです。いろんな職種の人が手分けして材料や原料に手を加え、どんどん新しい生産方法を生み出しています。地上と同じ空気を発生させる装置も備え、伝送システムで欲しい食べ物や日用品も即座に手に入るということです。
「へーえ。じゃ、地上と同じ生活ができるんだ」
「不自由なことはなにもないわ。くろちゃんのフードも」
賛同するように、にゃあと猫が鳴きます。登君は感心してうなずいていますが、なにか変だと思いました。お祖母さんも猫のくろも死んでるのに、なぜここにいるのだろう。
『ひょっとしてここは死者の国? そうだとしたら、なぜ茜がここに居るのか、しかも住んでると言うのはなぜだろう』
登君はクリームソーダのストローに口をつけながら考えます。ソファの上で茜ちゃんは両手にもったコップからレモンジュースをおいしそうに飲んでいました。
「茜はいつからここに住んでるんだい」
登君は茜ちゃんをふり返って聞いてみました。茜ちゃんは、はっとしてお祖母さんのほうを見ました。お祖母さんはソファにどっかと腰をおろし、茜ちゃんにうんうんとうなずきながら、登君を見るともなく何かつぶやき始めました。
「登、おまえは知らないだろうが、茜はね、生まれる前に亡くなったんだよ。お母さんのおなかにいるときに、お母さんが転んでね、流産したんだよ。わかるかい? 流産て」
「え。うん」
あまりに唐突なお祖母さんの話に登君は耳をうたがいました。
『生まれてない? 茜が。そんなバカなことが。ついさっきも眠る前にぼくの部屋で話してたじゃないか。こんなおかしなことを言うなんてお祖母さんはどうかしている。待てよ。お祖母さんは死んでるんだ!」
登君の頭が混乱してきました。
『ここはやっぱり死者の国なんだ。そこにぼくもいるってことは、ぼくも死んで…』
「えええええ! ぼくは死んでない! 死んだおぼえはないぞ!」
登君は叫びました。お祖母さんも猫も茜ちゃんもびっくりして登君を見ました。登君は半狂乱になって、くろをしっかりと抱き締め、茜ちゃんの手もぎゅっと握り締めました。
「いっしょに帰ろう。ここに居ちゃいけない。さあ」
言うが早いか扉をこじあけ、漆黒の闇のなかへ体を躍らせました。衛星から飛び出たので、落ちるかと思いきや、落ちません。衛星と同じ軌道で地球をぐるぐるまわり始めました。
「困ったな。どうしよう。なんとしても降りなくちゃ」
「お兄ちゃん、だいじょうぶよ。また来て!」
茜ちゃんは登君の手を離し、突き落とすように闇のむこうに広がる青い地球のほうへ押し出しました。猫は茜ちゃんに抱かれて衛星のほうへ帰っていくようです。登君は青い地球の上へ落ちていきます。加速度がついてますます猛烈な速さで落下します。
「わあああああ」
叫んでいるうちに登君は、どっすーんと落ちました。目をあけてみるとそこは先ほどうたた寝し始めた自分の部屋でした。しかし、いくら見まわしても、さきほどいっしょに居たはずの茜ちゃんの姿がありません。ぽかぽかと暖かそうなお日さまが窓を照らしています。
『待てよ。だいたい「あかね」ってだれだっけ。ぼくは一人っ子だ。兄弟姉妹はいない』
まだ夢のつづきを見ているのではと登君は思って、もういちど目を閉じてみました。しかし、いくら寝返りを打っても眠りに戻る気配はありません。ということはこれは夢ではないということかなと、また目をあけました。
『いまが現実なんだ。いまは夢じゃない。でもどこから夢だったんだろう』
ふかふかのラグの上にあぐらをかいて部屋を見まわします。午後の光が部屋のすみずみまで満たしていました。その光がキラリとしたあたりを見ると、そこは勉強机の上です。猫のくろの写真が光を反射しています。
「くろ」
手やひざにいましがた見た夢の感覚が残っているようで、悲しい気持ちになりました。登君は立ちあがって猫の写真を手に、ベッドに寝っ転がります。窓の全面が日差しにあふれ、まぶしいくらいです。ふと目を閉じると、まぶたの裏でも陽の光が跳ねています。とろとろと溶けるような感覚にうっとりしていると声がしました。
「お兄ちゃん」
はっと目をあけてみましたが、だれもいません。空耳かと目を閉じました。すると声がまた聞こえました。
「お兄ちゃん」
こんどは目をあけずに耳をすましてみました。声は耳の奥のほうから聞こえたようです。気をつけて声のほうをたどっていくと暗闇のなかでぼおっと光を放つものがありました。近づくにつれて頭の芯がしびれるような心地よさを感じます。やがて卵のような形のそれは、がたがたとふるえたかと思うと、すっと立ちあがりました。
「茜?」
おぼろげな手がそろそろと伸びてきて登君の手をとります。
「茜。また会えたね」
「お兄ちゃん、くろも居るわ」
うす暗い足元でにゃあと声がしました。登君はかがみこんで猫を抱きあげます。
「じゃあ、もういちど行こうか」
「ええ」
「あれ。ふーん」
登君は先に立って歩きながらふと足をとめました。
「どうしたの」
「夢でも思いどおりに行動できるんだって思って」
「そうよ。夢なんだもん」
パッと顔を輝かせて茜ちゃんも登君も笑いました。猫もにゃあと鳴きます。
「あはは。行こ行こ」
登君はベッドの上で猫の写真を胸に抱いたまますやすやと眠っています。その表情はとてもおだやかで気持ちよさそうです。窓に映る日の光はかたむいたとはいえ、じゅうぶんな暖かさを登君の部屋にとどけていました。これなら、いくらうたた寝をしてもかぜをひく心配はなさそうです。
了