10.王宮にて I
* * *
「サイード! やっと来てくれたのね」
「呼び出されちゃあしょうがねえからな」
今や「シェヘラザード王太子妃殿下」と呼ばれている姉上は、感激した様子でおれにハグしてきた。
姉上は結婚してからはスキンシップを自然に行うようになり、おれに対しても躊躇しないので気が済むようにさせている。どこも締め付けないゆったりしたドレスを身に纏っているが、産後のせいか体がやたらでこぼこしているのが感触でわかる。そしてどこか甘酸っぱいような人肌の匂いがした。
姉上に会うには、王宮へ出向いて数え切れないほどの扉を通過する必要がある。敷地の手前半分は執政官や議員が出入りする公的空間で、奥の厳重な扉を抜けるとそこから先は王族の私生活エリアだ。その一角を占める王太子家族ゾーンに入り、さらに廊下代わりの幾つかの小さな間を通ってやっと王太子妃の私室にたどり着く。
何代か前に建てられたものだから様式が古く、経路は回りくどいし柱も天井もやたらとごてごてしている。政務エリアはよく改築されてそのたび機能的になってるそうだが、こっち側は歴史的な建物だからあまり手を入れたくないらしい。
エリアが変わるたびに案内役も交代するのがまた手間だ。王太子妃の部屋のちょっと手前からは、この領域を警護する女性騎士に連れられている。
姉上が初産を無事に終えてから、半月あまりが経っていた。赤ん坊ともども健やかで、王都にいる唯一の親族であるおれはいつでも会いに来ていいと伝えられてはいた。道のりが億劫だと放置してたら、『もう床上げもして落ち着いたからお茶にいらっしゃい』と直筆の手紙が来た。
おれも言いたいことがあるし、さすがに頃合いかと思ってこうして参じたわけだ。
「さあ、あなたの甥っ子にも会ってあげて」
姉上は嬉しそうにおれの手を取り、部屋の奥へと導いた。そこには豪華な天蓋付きの揺りかごがあり、天蓋から垂らされたヴェールで大事そうに囲われていた。姉上がヴェールをそっと開くと、中には真新しい王族が眠っていた。頭も手も指も爪も全部がちっこくて丸々としてて、そしてほのかに姉上と同じ甘い匂いがする。黒い髪にうすい金茶の肌が、二人の間の子だということを如実に伝えている。
ベネディクト・シャッバーズ・ガレンドール――それがこの赤ん坊の名だ。未来の王にふさわしい響きを持つ、フィニーク語由来のミドルネームも与えられている。
「目はどっち似だ?」
「父親譲りの緑よ。そろそろ開き始めたわ」
姉上は、赤ん坊の頬を人差し指の背でそっと撫でた。
「ヴィンセントがすっかり喜んじゃってね。言葉がわかるようになったら若い頃の武勇伝を沢山聞かせてやると張り切ってるわ」
実は姉上は、国王ヴィンセント陛下とも知り合いだ。彼がやはりアーノルドと同じくらいの年頃に「もっと世界を広げないか」と持ちかけ、大陸を駆け巡る冒険をさせたんだとか。陛下は死にそうな目に遭ったのも一度や二度じゃないらしいが、王妃となるオクタヴィア陛下が手に入ったので帳消しだ。
昔の姉上はとっつきにくいキャラだったから陛下とは何の仲にも発展する余地などなかったそうだ。それでもそんな曰くのある女が自分の息子の嫁になるなんて、どんな気持ちなんだろうな? 父も息子も最大級に気まずくねえか? 二人ともよく割り切れたもんだ。
ちなみに陛下は姉上のことを、自分が接したシェヘラザードの生まれ変わりだと思ってる。陛下の即位後、姉上は店をたたんで連絡を絶った。それから二十年近く経ってまた王都に現れて店を再開したことを陛下は知ったが、昔と同じ年格好なのにプロフィールが違っていたため、そういう解釈になったようだ。ガレンドールじゃ「前世の記憶がある女性」がフィニークの預かり子並みの伝承として知られているらしい。
まあ、それでいいんならいいんだろう。おれが深入りすることじゃない。
「愛おしい子…」
姉上はそうつぶやいて、今まで見たこともないような顔で微笑んだ。
「…ベネディクトを見ていると、また新しい感情が湧いてくるわ。この子のことは何としても守らなければという、強い気持ちになるの」
「いわゆる親の愛だな」
「知識はあったわ。親子もたくさん見てきた。でも自分自身で実感すると格別ね。これも人間になったからこそ味わえることね」
天上の主には、本来の姿はないのだと聞かされている。全ての世界の創造主なんだから、この宇宙そのもののようなものだと。
以前は、人の姿をしていてもそれは厳密には幻影のようなものだったらしい。触れれば体温も肉の弾力もあったし息もしていたけど、食事をほとんど取らず病気になることもなく、かすり傷は翌日には消えていた。その気になれば、瞬時に姿を消して別の場所に現れることも可能だったようだ。
本気でアーノルドと共に生きていくことを決めたとき、幻影に命を吹き込んで本当の人間になった。だから今は歳も取るし、胎内で赤ん坊を育ててこうして出産もしてる。
「なあ、姉上はこの先どうするんだ?」
「この先って?」
「アーノルドのために人間になったんだろ。一緒に人生を歩んで、年老いて、…その先はさ」
「人間としての寿命は全うするつもりよ。というか、全うしなければこの体からは抜けられないの」
「つまり…、死んだら『天上の主』に戻る、ってことか?」
おれの恐る恐るの問いに、姉上は無言でうなずいた。
実は姉上は、人間にはなったが「天上の主」は引退していない。天上の主であることは姉上のアイデンティティであり、それを失ったらダメだとアーノルドが言い張ったんだ。オーバーロードもそこは同じ意見で、おかげでどうにかして王太子妃と兼業できるようにしてもらった。今じゃ公務の合間に遠隔で他の異世界の管理をしてる。
本質は逆かもしれない。天上の主は、人間観察のために下界に降りてきてた。占い師よりももっと本格的な形でこの世に紛れることにしたんだ。「人間のシェヘラザード」としての一生は、天上の主からしたらまさに泡沫の夢ってやつだろう。
「でも、その時が来ることを考えると少し怖いの」
姉上はまたぽつりと言った。
「私がどうなるかより、アーノルドを失う日が来ることが。人は死んだら甦らない。私自らがそのルールでこの世界を運用してるはずなのに、抜け道を探そうとしてしまう」
「いいことじゃあねえか」
「えっ?」
「誰か一人に執着して、失うことに怖気づいたりあがいたり、そういうのが人間をやる醍醐味だろ」
「そういうものかしら…いえ、そういうものよね…」
何か納得したように繰り返すと、姉上は顔を上げた。
「思い出させてくれてありがとう、サイード。私は、この身に沸き起こるすべての感情を余すことなく味わうと決めていたの。喪失や別離の辛さや悲しさも、避けてはだめね」
「おう、その意気だぜ」
ちょうどいい。心構えができたところで、おれの本題を言わせてもらおうか。
2024/10/11 修正(+68字)