6.襲来
頭の中で計画をまとめていると、視界の端に何かを感じた。木立の切れ目から、向こう側の林の茂みを何かがよぎったような気がした。音を立てずに身を沈め、辺りをうかがう。ホロロロ…という、鳥とも獣ともつかない鳴き声が聞こえ、別の方角から口笛のような鋭い鳴き声が答えた。鳥に似せているが鳥ではない。
こういうのは大抵は山賊なんかが使う合図だと、昔叔父から教わった。だがそれは人間しかいない世界の話だ。この世界には別の生き物もいる。人間のように知恵があって二本足で歩くが、人間ではない連中だ。
おれは片手の指を丸めて利き目に当てた。その小さな隙間の中で、向こうの茂みに潜むその生き物を確認した。ゴブリンだ。
おれは屈んだまま後じさり、矢が抜けてこない程度の距離を確保すると立ち上がり走った。設置済みの結界アイテムに片っ端から触れて回り、発動させる。
「ゴブリンだ!!」
かまどの支度をしている楽舞団の連中に叫ぶ。座長がびっくりして振り返った。
「ゴっ…ゴブリンだと!? わしら一体どうしたら…」
「馬を出せ! 砦に入るんだ!」
おれは座長に砦の門を指し示しながら、馬たちの元へ走った。
「だっだっ大丈夫なのか!?」
「今結界を張った。馬車に馬を取り付けるまでの間くらい保つだろ。とにかく急いで砦に入れてもらうんだ」
他の者も急いで馬を出していく。おれは結界際で警戒した。ここから門までのわずかな距離を襲われないよう祈るしかねえ。
姉上もまた、自分の馬車の馬を支度していた。早くしろ。天上の主が自分の創った被造物にやられるなんて笑えねえぜ。
「サイード! 皆準備できたぞ!」
「よし出せ! もたつくな!」
焦れ焦れと待たされた時間はわずかだった。座長が合図し、馬車は次々と走り出した。殿の奴が動き出したとき、ついに茂みから二、三匹のゴブリンが飛び出した。おれは馬車を追いながら予備の聖水をぶちまけた。亜人どもが踏み込んで来る頃にはもう効果が切れてるようだったが、距離を見て奴らは追いすがるのをやめた。砦に近づきすぎて騒ぎになるのを恐れたようだ。
馬車の後ろに飛び乗った直後に、おれの顔の横に矢が突き刺さってそれきりだ。
砦の門では、異常を察知した兵士が近場の農家の住民を起こして城壁の中へ避難させようとしていた。哨戒から戻ってきた傭兵たちが、ゴブリンの一群が攻めてきたと叫んでいる。改めて振り返って森を見下ろすと、とっくに夜は明けてるってのに森だけ不自然に陰が差していた。その方角からくぐもったどよめきが聞こえてくる。ゴブリンの進軍だ。
やべえな。
おれは思わず腰の後ろに提げた剣の柄を握りしめた。こいつはちょっとした運試しになるか?
おれ一人ならどうとでもなるが、姉上と楽舞団がいる。砦は民間人を守る余裕があんのか? なけりゃどうにか抜け出す算段が必要だ。
アーノルドはどうする? いまあいつは傭兵だ。有事には真っ先に使い捨てられる扱いなのがわかっていながら、まだそんな時は来ねえだろと高をくくって、訓練目的で応募しやがったんだ。
魔法に長けるあいつは他の世界なら無敵だが、この世界じゃ剣だけで乗り切らなきゃいけねえ。ここは治癒魔法も蘇生もよそほどご都合主義じゃねえから、手足をなくすかも知れねえし、灰になって終わりかもしれねえ。
「チッ」
あいつを五体満足で元の世界に帰すのも、仕事のうちだ。そうだろ姉上。
――だが、アーノルドは逃げ出す気なんざ毛頭なかった。
怯える農民たちを先にやり、かさばる箱馬車の一団がやっと城壁の中に収まったのを見つけて、あいつは駆け寄ってきた。その身を案じるおれに、いつもの調子で頑固に言いやがった。
「どこへ逃げるんだ。砦は防衛する場所だ。お前たちを守るためにも、俺は半人前でも頭数にならなきゃいけない」
姉上も撤収などと言わず、アーノルドの選択に任せた。それでおれも悟った。今は、あいつが課題を達成する絶好のチャンスなんだ。攻め寄せてくるゴブリンどもを相手にしたら、命を丁寧にいただいたりしんみりしたりしてる暇はねえ。今までずっと強固に奴を縛り、奴らしさを守っていた理性をかなぐり捨てないことには、到底ここを生き残れやしねえだろう。
そうしてみると、このタイミングで戦が起きるってのも出来すぎだ。情勢から見ればいつでも起きて当然だが、おれたちが揃っている今起きたってことは、絶対に姉上が仕組んだに違いねえ。
いいだろう。アーノルド、お前がこの混乱を無事にかいくぐるのを見届けてやるぜ。
姉上は、天上の主として目をみはるようなことは起こせねえが、せめてもとおれたちの運気を最大に上げた。ゴブリンは相当気合が入っていて、防衛戦は厳しいものになりそうだった。早晩ゴブリンが城壁を越えてしまい、住民にも襲いかかる可能性は十分あった。
「姉上!」
おれは、馬車の中に戻った姉上に御者台から声をかけた。
「アーノルドは、おれに姉上を頼むとよ。言われるまでもなく、おれは姉上を守り切るぜ。だから、姉上はあいつを絶対に死なすんじゃあねえぞ」
姉上は、黙って真顔でうなずいた。
2024/9/3 修正(+10字)