4.レオナールの添削
着替えたレオナールたちはカークに案内されて執務室――生前のレーグラッド男爵が使っていた部屋だ――に移動した。そこで、改めて部下2人もフィーナと挨拶を交わす。
「本日よりお世話になります。ヴィクトル・ユーボと申します」
「マーロ・ギュンターと申します」
「ユーボ様とギュンター様ですね。よろしくお願いいたします」
フィーナがそう言えば、レオナールは「我々のことはファーストネームで呼んで欲しい」と告げた。聞けば、彼の部下には親兄弟が揃って所属している家系もあるので、勘違いを防ぐためにファーストネームで呼んでいるのだと言う。
「そうなんですね。では、逆に同名の方がいらしたら、どうなさるんですか?」
「ああ、おりますよ。ショーンという名前の者が2名いるんですが、何故かそいつらは髪の色で呼ばれています。具体的には、ブラウンとグレイってあだ名みたいになっていまして……」
と、レオナールを差し置いてヴィクトルが話す。オチを知っているマーロは既にうっすらと苦笑いだ。
「ところが、今年ブラウンってのが異動して来たおかげで、ブラウンって名前じゃないやつがブラウンと呼ばれているっていう変なことになっています」
ヴィクトルの言葉遣いは初対面だというのにいささか砕けすぎている。が、フィーナは「レオナール様が注意なさらないということは、これがこの人の普通なのね」と思うだけで気にしなかった。
「まあ。ブラウン卿には災難でしょうけど、そんなことがあるなんておもしろいですね。わたしと同じ名前のご令嬢をみなさんはご存知ですか? もしかしたら、わたしも髪色で呼ばれる必要はあるかしら」
フィーナは笑いながら言うと、答えが欲しかったわけでもないので3人に着席を促した。3人がけのソファに若い男3人は少しばかり窮屈そうに見えたので、フィーナは「わたしは椅子に座りますから反対側もお使いください」と執務椅子を運ぼうとする。ガタガタ音を立てながら運ぶ様子はどう見ても貴族令嬢の姿ではない。
「フィーナ様、そんなことはわたしやヴィクトルにお申し付けください」
慌ててマーロが立ち上がる。それに対してレオナールは何も言わない。最も下っ端のマーロが名乗りをあげるのが当然だと思っているのだろう。
「いえ、でも、わたしその椅子が……」
座り慣れているので、いいんです。そう言おうとしてハッと言葉を飲み込む。そうしているうちにマーロがあっけなく椅子を移動させて座ったので、フィーナは大人しくソファに腰を下ろした。
「悪くない」
それが、計画書に目を通したレオナールの第一声だ。フィーナの表情は一気にぱあっと明るくなる。
「だが、これだけでは立て直しというよりは現状維持に留まりそうだ。立て直しとは、現状よりも確実によくなり、それを維持出来る算段までなければいけない。まず、いくつかの項目は推測をもとにしているため早急の調査が必要だ。それらがもしすべて単なる推測でしかなかった場合の代替案が少し弱いので、迅速に」
わたしもそう思っているんです、とは言えないフィーナは「そうですか」と消え入りそうな声を発する。『よくわかっていないものの話は聞いている』という雰囲気をうまく醸し出せただろうか、とろくでもないことを考えながら。
「フィーナ嬢、もしご存知だったら……いや、女性であるあなたはお父上のこの計画の詳細をご存知ないかもしれないが、この地区に新しく植えようとしている作物選定の基準を知りたいのだ。資料はどのように探せばよいだろうか」
「あっ……地区ごとの土壌の調査書がありますので……そこに詳細があるのかなぁと……」
(そこ、そこです! 立て直し公のご意見聞きたかったところです!!)
興奮を抑えながら立ち上がり、フィーナは資料棚をごそごそと探すふりをした。本当は一発で場所もわかれば何枚目に何が書いてあるのかもわかる。質問に答えることも出来るし、更には答えつつ彼の見解を質疑応答の形で聞きたいぐらいだ。しかし、そうすることが出来ない。そうしたら、自分が領地運営に携わっていることはバレてしまう。
「こちらの資料に、もしかしたら」
「失礼」
すべてが早い。受け取った資料をめくる手には躊躇がないし、文字を追う目の動きも早い。その間、フィーナの向かいに座っているヴィクトルが彼女に話しかける。
「故レーグラッド男爵は領地運営をなかなか深く考えていらっしゃったのですね」
「え?」
彼は、執務室の壁に貼ってある領地内の地図を指さした。
「こうしてレオナール様と共にいくつかの領地を回りましたが、領地の地図を大きく作ってこのように執務室に常に見える場所に置いているような方は見たことがありませんし、これ、素晴らしいアイディアですね……地域を分割して、月ごとの目標と達成度を地図にも貼ってあれば、誰もが見るだけですぐ進捗を理解出来ますし……」
いえ、そもそもそれを見て議論できる「誰も」は今までいなかったんです……フィーナはそう言いたかったが、ぐっと堪えた。地図を執務室に貼って一目でタスクを把握できるようにしようというアイディアはフィーナのものだった。まだ幼いヘンリーが少しでも「父と姉が何をしているのか」興味を持ってくれるようにとの思いで作成したものだ。
「第一、自分の領地の地図を作るという発想は普通はない。そんなものはなくとも、おおよそ頭の中に入っている情報で事足りるからな」
資料から目を逸らさずに口を挟むレオナール。
「だから、この地図を作った者は、誰かと情報を正しく共有しなければいけない、立て直しをするという大きな目標のためには互いの脳内で齟齬が起きてはいけないということを知っている者だ。立て直しに限ったことではない。すべての物事を一人ではなく誰かと為そうとする時は、前提条件の共通認識を浸透させる必要がある」
フィーナは「ありがとうございます。わたし、わたしです!」と叫びたい気持ちをまたもぐっと抑えて、レオナールが資料を確認し終わるのを待っていた。
「うん。大体わかった。地質と過去に作られた作物の変遷を調査していることは正しいし、その結果選んだものなのだろう。が、検討の余地はあるし、最新の作物事情には疎かったのだと感じる。まだ、作物を植えるための手配は終わっていないのだろう?」
「種や苗の発注をしたとは聞いておりません」
まだで良かった、とほっとするフィーナ。そこは、自信がなかったところだ。だからこそ、領地の視察等をする前にすぐに彼が気にしてくれてよかったと心底思う。
「明日、あの地図に『3』と書いてある場所に行きたいのだが」
「はい、大丈夫です」
「助かる。それから、明後日はここ。しあさってからは、あなたの叔父とやらが作成した財務状況を分析しつつ、ここ最近の報告書をひととおり見せてもらう。それから、地図を拝見したところ領地内を5つに分割して立て直しを進めているようだが、ここの地域は更に二分する」
「何故、でしょうか?」
「2つの川に囲まれているだろう。ひとつのまとまった地域に見えるが、西と東で依存している川が違う。数年に一度は大雨が降ると思うが、その時の氾濫の具合がこちらの川とこちらの川では違うので、やるべきことの優先順位も変わる」
「あの、この地域の東側の川近くは高く土手を盛ってあって……」
これぐらいは口だしをしても問題ないだろうとおずおずとフィーナが言えば
「ああ。街道を通った時に、それぞれの川辺に寄ってそれは確認してきた」
「ええっ!? あの街道から東西の川まで!?」
仕事が早すぎないか。そこまでしたのに予定通りの時間に到着するなんて、それも話がおかしい。これは、後で騎士団長に聞いた話だが、馬車でやってくると思っていたハルミット公爵はまるで当たり前のように馬に乗って現れ、最初から「この街道を行くならば、こことこことここに寄りたい」との指示があったのだという。来てから確認ではなく、既にレーグラッド男爵領に来る前の下準備が完璧だったのだろう。
「だが、足りなくなる可能性がある。戦争のせいでこの地域はかなりの伐採が進んだと聞いた。伐採のみならず伐根されていると問題だ。しかし、見せてもらった資料からは伐根の有無がわからない。たまたま近年大雨が来なかっただけで、今年や来年はその影響があるだろうし」
「ああ……なるほど……あの土手では足りなくなる可能性があるということですね……」
レオナールの言葉は正しい。レーグラッド男爵領の森林は戦時中に王城からの不当な依頼で過剰に伐採されていたから。なるほど、彼は川の氾濫に繋がる可能性を示唆しているのだろう。
(すごい……すごい、すごい、すごい! 立て直し公の名前は伊達じゃない!)
彼らがレーグラッド邸に来てからそう時間も経っていなかったが、すっかりフィーナは立て直し公のあまりの呑み込みの早さと手際の良さに舌を巻いていた。出来る限り顔に出さないようにと必死に抑えていたが、どうにも興奮を止められない。
(天国のお父様、見ていますか。わたしの憧れの人ったら、やっぱり最強です!)
あと、ついでに顔もいい。それも思ったが、きっと天国のレーグラッド男爵は見ていたとしても「そこはどうでもいい」と言うに違いない。
そうして、4人はみっちり一時間休憩なしで仕事の話をしていた。フィーナにとってはこんなに長い時間集中して誰かと取り組むことなぞ初めての経験だ。これまでは「わかっていない者同士」で頭を突き合わせていたので、話の密度が違う。
(これから毎日甘いものを作ってもらおう……)
後半はくらくらしそうになるのを必死に踏みとどまり、なんとか最後まで話を聞くことは出来た。理解はまた別の話だが。途中で「食事のお時間はどうなさいますか」と聞きに来たカークに、フィーナは心から「束の間の休憩! カークったらいい仕事してくれたわね!」と賛辞を送ったのだった。