25.静かに更ける夜
レオナールに抱きとめられたと思った瞬間、突然記憶が脳内に蘇り、フィーナは呆然とした。馬車の揺れで体が前に投げ出されたのはほんの一瞬のことだったので、すぐにでも彼の手から離れて座り直せばよかったのに、それが出来ない。
(わたし……こうやって、レオナール様に抱きとめられるのが……初めてじゃない……!)
そっと自分を抱きとめたレオナールの腕に手を添えて、それから彼の顔を見た。彼は腕をそっと引こうとしたが、フィーナの手がなんとなく置かれてしまったので、そのままにしている。
(あの夜……わたし……)
暗い馬車の中で、パニックに陥った自分を思い出す。何故か呼吸が出来なくなって。そんな記憶は先程までなかったのに、どうして今出て来たんだろう。ああ、そうか、あの時もこうやって……。
『息を吸え。吸ったら止めろ。それから、ゆっくり吐いて』
声が聞こえた。うまく出来なかったけれど、それを必死にやろうとした。
『大丈夫だ。すぐ、帰ろう』
そう言われて、自分は泣いてしまった。そうだ。だって、帰りたかったのだ。父ともヘンリーとも一緒に。けれど、それは出来なくて。ただただ、『あの日』に出来なかったことをしようと思って……。
泣いた自分を、誰かの手が撫でてくれていたことを思い出す。いや、誰かではない。それは、レオナールだ。何度も彼は「一緒に帰ろう」と言って自分をあやしてくれて。背中を撫でて、頭を撫でて、落ち着かせるためだとしても、大層恥ずかしいことをされていたのだと思う。
ひとつずつ思い出していく。恥ずかしい。恥ずかしいけれども、少しだけ嬉しい。いや、でも恥ずかしい。何だ、嬉しいとはどこから来たのだ……そんなことを思いながら、フィーナはなんとか言葉を出した。
「レオナール様、ありがとうございます」
「うん」
「うまく呼吸が出来なかったのを、助けていただいて……」
「どうということはない」
「あのっ、それから、その……情けなく……泣いてしまって……」
寝ろ、と言われてヴィクトルが寝ているわけではないことをフィーナは知っている。どこまで彼は知っているんだろう、と思いつつ、だが、思い出した以上はここで話をしてしまいたいと思う。
「それも、どうということはない。そうか。思い出したか」
「はい。ご迷惑をおかけいたしました」
「大したことではない。覚えていたほうが良いのかどうなのかはよくわからないが、落ち着いて思い出せたならば良かった」
「あの、思い出したことを……みんなに伝えた方が良いでしょうか」
「そうだな」
「わかりました。戻り次第、カークとララミーに伝えますね」
話しながら、フィーナはレオナールの顔をふと見た。
当たり前のように頷くレオナールだったが、しみじみとフィーナは「顔が良い」と思う。そんなことは当然で、今更誰に何を言われたって変わるはずがないことなのに、何故か「とてもお顔が良い」と思い、彼の腕に自分が抱き留められたことを思い出して頬を紅潮させる。
「フィーナ嬢」
「ひゃっ、ひゃい!?」
「教えて欲しいのだが……どうしてそんなに顔を赤くしているのだ?」
「!」
からかっているわけではなさそうだ。レオナールは本当に不思議に思って質問をしたのだろう。だが、フィーナからすればどう答えれば良いのかわからずに「うううっ」と声を漏らしてしまう。
「お、お、お顔がっ……大変、よろしいから、です……!」
言葉にすればなんとも間抜けな話だったが、フィーナにはそれしか言うことが出来なかった。本当のところは、それではない。だが、あえて言葉にしろと言われたらそう言わざるを得なかった。すると、それを聞いたレオナールは、なんとも言えない嬉しそうな表情を見せる。
「そうか」
「……!?」
(え? これで納得したの……?)
悪くないはずだが、なんとなく納得が出来ずにフィーナは困惑をする。が、レオナールは、もう一度「そうか」と言うだけだ。悩みに悩んで、フィーナはヴィクトルに助けをついに求めてしまう。
「ヴィクトル様! 起きてください~!」
「俺は寝てます……寝ていますっ……!」
そうこうしているうちにマーロが目覚め、なんとなくその話はそこで終わってしまった。レオナールは少しばかり残念そうな様子だったが、フィーナは逆にそれに助けられたのだった。
その夜、フィーナは部屋で一人になり、小さく溜息をついた。あれから帰宅をして、カークやララミーに「あの夜」のことを思い出したと伝えたが、彼らは「それはよかった」と言って笑うだけだった。勿論、覚えていることが良いのかどうなのかはわからない。が、何よりも彼らがそれ以上フィーナにあれこれを求めないことは助かった。
(レオナール様には本当にお世話になってしまっていたんだわ。どうということはないとおっしゃっていたけれど、わたしったら本当に恥ずかしい……)
思い出したと伝えて、謝意も伝えた。そこであの話は終わりのはずだった。だが、なんだかもやもやと心に残るのは何だろう。
(ああ見えて優しい方なのね。あんな……)
情けなくも泣いて喚いて縋りついてしまった。そのことを思い出してフィーナはかあっと頬を紅潮させる。だが、問題はそれではない。そんな自分に付き合って、何度も何度も「大丈夫だ」と言いながら抱きしめて背を撫でて、頭を撫でてくれた彼のこと。
「うう……恥ずかしいけど……」
やっぱり、なんだか嬉しいと思ってしまう。それにはっきりと気付き、気付けば戸惑う。何故だろうか。何故、嬉しいと思うのだろうか。
「あれかしら。あの、ララミーが言っていたアレ……」
夜に素敵な男性に声をかけてもらうなんてこと、なかなかない。そんなことを言っていたララミーを思い出して「いやいや、違うな……」と思うフィーナ。
「失礼いたします。湯浴みのご用意が……お嬢様!?」
やってきたローラは、ソファに横たわっているフィーナを見て驚く。
「ローラ……」
「どうなさったんですか!? 体調が悪いのですか?」
「違うの。ね、わたし、男性に慣れていなさ過ぎなのかしら?」
「は?」
それだ、とフィーナは思う。レオナールは「どうということはない」と言っていたのに、自分だけがやたらと気にしてしまうのは、それだろうと。続けざまに「はっ!」となる。
「もしかして、それが原因でわたしは行き遅れに?」
そんなわけはないのに斜め上の発想をして、フィーナは少しばかり現実逃避をしているだけだ。ローラは怪訝そうに眉根を寄せる。
「話がわからないんですけど……多分お嬢様が行き遅れていらっしゃるのは……それではないのでは?」
「違う?」
「ハイ……あのぅ、一体何が?」
「それは、内緒」
フィーナは「うぐっ」と喉を締め付けて、頬を紅潮させる。ローラは内心「ははーん、これは何かハルミット公爵とありましたね?」と思ったが、それを顔には出さなかった。
「ローラはほら……ヴィクトル様に声をかけられても大丈夫じゃない?」
「えっ!? 何の話をなさっているんですか!?」
「わたし、知ってるんだからぁ~」
「お、お嬢様、とにかく湯浴みに行きましょう!」
ひとまず、湯浴みに連れて行ってとにかくそこで綺麗にしてあげよう……ローラはぐだぐだしているフィーナを必死に連れて行く。レーグラッド男爵邸の使用人たちは、みな優しいのだ。
(何かよくわからないけれど、とても綺麗にされたわ)
鉱山に行ったのだから汚れているだろうとローラは言い、上から下まで念入りに洗って、香油も綺麗につけて、ついでに体のマッサージ、髪にも香油を浸透させて……と、やたらと時間をかけられた。だが、おかげで体はなんとなくすっきりしたし、よく眠れそうだとフィーナは思う。
「ついでに寝間着まで新しいものを出されたけど……贅沢ではないかしら? こんな可愛らしいものを……」
ローラは「今日は気分を変えましょう」とかなんとか言って、新しい寝間着を用意してくれた。考えてみれば、ずっと同じような寝間着を繰り返し着ていて、確かにそろそろ替え時ではあった。自分がなんだかんだで悩んでいることを気にしてくれて、あれこれと気を遣ってくれたのだろう、と思う。
「そうだ。これも」
フィーナはチェストの引き出しから袋を出した。例のチャームだ。彼女は毎年「寝る前にちゃんとお祈りしよう」と思っては、三日坊主で終わってしまう。だが、とりあえず今回は三日坊主にはなってはいない。
「今日もありがとうございました」
見れば、ついついレオナールのことを考えてしまう。今日、馬車の中で思い出してしまったが、あの時には気付いていなかったことが今は冷静にわかる。
(きっと、わたしがパニックに陥ってしまうことを考えて)
――あなたが思っている以上に症状は深刻だ。それは、見たわたしにしかわからないことで、どうせ忘れるからと高を括っているならば許可出来ない――
そう言ったレオナールに、自分は少し食ってかかってしまった。だが、今考えれば、それが当然だったと理解が出来る。
レオナールは、自分を守ろうとしてくれたのだ。これでは、ありがとうだけでは済まないのではないかと思う。どうしよう。また、あのことで……と言い出しては迷惑だろうか。それとも……とフィーナの脳内は忙しい。忙しいが、何を考えても結論が出ないのでお手上げだった。
(駄目駄目。この件は夜は考えないでおこう……考えなくちゃいけないことは、毎日まだまだ沢山あるんだし……明日のこととか……)
3人には午前中は積み込みの手伝いをしてもらう予定だ。ついでのように使ってしまうことは申し訳ないと思うが、正直なところ大層助かっている。
(そうだ。生物の調査員の方々から連絡がそろそろ入って……鉱山は少し時間がかかると言っていたし、それから、川辺の積み上げの措置も……ああ、あと、街道の整備も引き続き行っているし……それから……まだ領地のあれこれを開示していいか許可が降りていない場所が……)
ソファに座ったまま、フィーナはうとうととした。ローラが頑張った分、フィーナも少しばかり頑張ってしまって突然の睡魔に抗えない。そもそも、今日は早朝から頑張りすぎていたし……と思ったら最後、寝室に行くことなくフィーナはそのまますうっと寝入ってしまった。




