18.フィーナのノート
「わたし、なんでベッドで眠っているのかしら……」
真夜中に目覚めたフィーナは、ぼんやりと周囲を見渡す。寝室だ。どう見ても自分の。思い出そうとしても途中で記憶が途切れる。もしや、自分は疲労のせいでとんでもない寝落ちをしてしまったんだろうか、と思う。
「馬車から寝室に突然飛んでくるわけもないし……誰かに運んでいただいたのね……」
フィーナの脳内では、馬車がレーグラッド男爵邸に着いて、レオナールが使用人か誰かに命じてフィーナを運んだイメージしか浮かばない。そういえば、なんとなく誰かに手を握られた記憶がある。
(手? 運ぶのに、手?)
よくわからないが、わかっていることはひとつ。腹が減った。
(ええーーー寝間着になってる……これじゃこの格好で食事の間になんて……っていうか、今何時? もしかして、もうみんな眠っている時間?)
ならば、尚更使用人たちを呼ぶのも申し訳ない。
「あれっ」
フィーナはサイドテーブルに置いていたノートが綺麗さっぱり一冊もないことに気付いた。これは、もしや何かがあって、ララミーが隠したのだろうか……慌ててチェストの引き出しを開けると、案の定そこに入っているようだ。よかった、と一息ついてからそっと寝室を抜け出す。
以前は夜でも誰かが当番で起きていて、その人々が寝泊まりできる詰所にいた。が、財政難で使用人も少し減らして――解雇した者の転職先は斡旋したが――しまったので、夜中に動く者はほとんどいない。
(ってことは、今は真夜中ね。誰もいな……)
「っとお!? フィーナ様!?」
「ひゃあああああ!」
角を曲がって出会い頭にぶつかりそうになるのはヴィクトル。どうして真夜中にヴィクトルが、とフィーナはひっくり返りそうなほど驚く。
「貴族令嬢が出す声じゃありませんよ、それ……」
「ヴぃ、ヴぃくとるさま、なんれ、ここに……」
驚いてろれつがまわらないフィーナ。
「ええ……それはこっちのセリフですけど……駄目じゃないですか、そんな格好で歩き回って、その上、俺なんかが見たことがレオナール様にバレたら……」
「あっ、こんな格好で恥ずかしいところを見せて申し訳ないわ」
「そこじゃねぇ~~~……ちょっと、バタバタしてたんで、湯浴みがみーんな遅くなって俺、待ちきれなくてソファで寝ちまったんですよ。でも、今日はちょっと土やら何やらで汚れてて……ほら、俺の頭、ふわっとしてるでしょ。埃とか、入り込みやすいからどうしても洗っときたくて……」
「あっ、そうなのね」
「っていうか、俺のことはどうでもいいですよ。具合はどうですか」
「具合? ええ、よく眠ったみたい。よほど疲れていたのね。馬車に乗って、えーっと、なんかよく覚えていないんだけど、途中で寝てしまったみたい。レオナール様に悪いことをしてしまったわ」
フィーナのその言葉にヴィクトルは一瞬目を見開いて、それから「そうですか。うん、疲れていたんでしょうからね。よく眠れたならよかったっすね」と答えた。
「それで、お腹が減ったので……」
「あぁ……スープがね、残っているらしいですよ。とりあえずお部屋に戻ってくれません? 寝間着で出歩くのはちょっと、淑女としてどうかといくら俺でも思いますね。誰かに持って行ってもらいますから」
「でも、夜はみんな眠っているから……」
「いいですから、いいですから。とにかく部屋に戻って、いい子に待っていてください」
フィーナはヴィクトルに押し切られた。そうか、仕方がない。それに、寝てしまったから、今日の報告書も書けていないし、ここはヴィクトルに甘えて部屋で報告書の下書きをしよう……そんな気持ちで部屋に戻った。
「なんで疲れて眠っちまった人が、真夜中に仕事をしようとしてるんですか!」
「わあああ~~なんでヴィクトル様はララミーを起こしちゃったの~~!? よりによってじゃない!」
「失礼ですね! わたしは年寄なんで、夜中にすぐ目覚めちまうんですよ!」
「いくらなんでもおかしくない!?」
「いや、でもですねぇ、いいものですよ、お嬢様」
「何がよ」
「この年になると、夜に素敵な男性に声をかけてもらうなんてこと、なかなかありませんからねぇ」
「ほんっと、何言ってんの!?」
とりあえず、ヴィクトルの采配で、今のところはフィーナが思い込んでいる「疲れて眠っただけ」設定を飲み込むことにしたようだ。
医師に話をして眠っているフィーナに特に問題がないことを確認してもらったが、あとは彼女が目覚めてから話し合おうということになっていた。だから、もしかすると明日改めて、医師がレオナールやカーク立ち会いの元、フィーナに「馬車の中で混乱して過呼吸を起こしていた」という話をすることになるかもしれない。それでも、今のところはフィーナを不安がらせないようにしようという心遣いだ。
そういうことを器用に受け入れられる者といえば、やはりカークとララミーだろう、とここに来てそう日数が経過していなくてもヴィクトルは思い、いびきをかいて寝ていたララミーを起こしたということだ。
ララミーに彼女を任せて、ヴィクトルはその足でレオナールの部屋に行った。レオナールもまた、戻ってきてから医師が帰るまで待機しており――フィーナがそうなったいきさつを知っている者がレオナールしかいなかったからだ――食事も遅くなり、当然湯浴みも遅くなり、未だ就寝していない。ぐうぐう眠っているのは、マーロぐらいだ。
レオナールに「フィーナ様は、どうやら眠り込んでしまっただけだと思い込んでいるようです」と伝えると、レオナールは苦笑いを見せた。
「そうか。まあ、どちらにせよ、今後も同じことがあるかもしれないので、防ぐためにもきっときちんと話さなければいけないだろうな」
「そうですね……そういうのって、治るもんですかね」
「治るにしても、時間がかかるだろう。それほどの心の傷を負っていたのに、日々気丈に振る舞って今日まで頑張っているとは、恐れ入る」
「そうですね。ところで、それは?」
ヴィクトルは、レオナールが手にしていたノートが気になって聞いた。
「ああ。今日からわたしは盗人という罪人になるな。フィーナ嬢のノートだ」
「フィーナ様の?」
読んでいたノートをぱたりと閉じて、レオナールは表紙をヴィクトルに向けた。
「コルト伯爵領……」
表情が険しくなるヴィクトルと、それを見て苦笑いのレオナール。
「は……?」
「同じようなノートが何冊も寝室にあった。執務室に置くとバレるからと隠していたのかもしれないな」
ヴィクトルはレオナールからそれを受け取って、ぺらぺらとめくる。フィーナのノートだと言われなくとも、彼らは既に過去の報告書から彼女の筆跡を知っている。しかも、そこに書かれたものは報告書のようにまとめたものではなく、生の声をそのまま書き写したような雑然としたものと、それに対しての冷静な所見が添えられているものだ。
「ぷっ……」
驚きながらも真剣に目を通してページをめくっていたヴィクトルだったが、つい笑い声を漏らす。途中のページに「コルト伯爵話が長い!」「同じこと三回話してる」とフィーナの文句が書いてあったからだ。
「そのノートを見てから例の計画書を見ると」
「はい」
「不思議なことに、フィーナ嬢の姿がそこに見えるのだ。薄々はわかっていたが。あの計画書は、色んな意味で『生きて』いるように見えて来る。おもしろいものだ。おもしろすぎて、つい、この時刻まで寝ないで読み込んでしまった」
「困りますねぇ。困ったことに、このノートだけで本当に見応えがある。我々が立て直しを行なった領地の領主の本音も透けて見えますし、領主に託したその後の運営がどうなっているのかも見えるし、ああ、フィーナ様の苛立ちや気付きなんかも見えるし、それから……我々がやったことが正しかったのだと後から立証してくれている、そんな内容でもあるし……なんだこれ。ちょっと、なんていうんですか……やばいな、あれっ……」
フィーナのノートをめくりながら、ヴィクトルは鼻をすすった。
「俺、そんな、涙もろくないんですよ」
「知っている。マーロの方がよく泣いている」
「はい。でも、これやばいっすね……誰かが、こんなに……一所懸命俺らがやったことを学ぼうとしてるんだって思ったら……ちょっと……しかも……」
しかも、領地運営のことなんか、わかるはずもないと誰もが思っている貴族令嬢が。この国の誰もが「立て直し公に任せておけばいい」と思っているのに、自分たちがやっていることを学ぼうと背を追って来る者がいるなんて、レオナールもヴィクトルもこれっぽっちも考えていなかった。だからこそ、得も言われぬ感動を与えられた。ヴィクトルがごしごしと涙を拭うと、レオナールは小さく笑って
「もっと、彼女は報われていいとわたしは思うのだ」
と告げた。それへ、ヴィクトルが「報われるように、全力を尽くしましょう」と返した。