10.明日は明日の風が吹く
離れにいる2人のことをすっかり忘れていた。いや、忘れていることにしていた、という方が正しいだろう。
「うーん、そうよね。お休みもらっちゃった以上は、行った方がいいわよねぇ……」
カークや使用人たちが彼女を休ませようとしても、なかなか休まない理由。そのうちの1つに思い当たって目を伏せる。忙しい忙しい、とやっていれば、向かい合わなくても良いからと、多忙を口実に逃げていたこと。その一つは、母とヘンリーのことだ。
忙しい間は「お母様が会いに来ない」という体に出来たし、実際先日ララミーに話した通り、きっと母アデレードは何かしらの想いがあって本邸に姿を見せないのだと思う。だからといって、それを勝手な推測で尊重をしているふりをして、フィーナもまた離れに行かないのは間違っている気がする。
(ずっとお会いしていない。いくらなんでも、会わないにもほどがあるわ)
2年前ぐらいからフィーナが邸宅を空けることが増え、忙しなく動き回っていたせいで、少しだけ母アデレードとの間に溝が出来たのは事実だ。互いに嫌い合っているわけではない。ただ、フィーナが領地運営に関わるようになったせいで、どんどんアデレードとの会話は減っていった。
もともとアデレードはそれこそこの国で若い頃には「最高の淑女」と呼ばれるほどの女性だった。穏やかでたおやかで男性に従順であり、決してでしゃばらず、何歳になっても美しく、ひたすら夫と子供を愛する優しい理想の妻。だから、フィーナが男性と同じ形で勉学を学びたいと言い出した時も、無論彼女は反論した。
フィーナとヘンリーは年の差がそこそこある。その間、なかなかアデレードは子供に恵まれず、もしかしたらもう子供が出来ない体なのかもしれないと医師に言われた。この国の貴族の妻が後継者を産めないということは、恥ずかしいことだと言われている。最高の淑女と呼ばれながらも、後継者を産めないことにアデレードが心を痛めた時期は長かった。
フィーナは自分が婿を取ればいい、と子供心に思っていたが、アデレードとしてはそれは「フィーナにも可哀相」だという思いがあったのだろう。そのせいで、ヘンリーが生まれてからというもの、少しずつ彼女の溺愛はヘンリーに向けられ、フィーナが領地を空けるようになってからはそれが加速してしまった。
(わたしだって、もし、自分が婿を取るとしたって、知らない土地から来るお婿さんよりも自分が領地について詳しくなくちゃいけないだろうって思ったし……)
そもそも、由緒正しい家門とはいえ、レーグラッド男爵領は王城から遠い僻地だ。そこに婿として来るような貴族子息はどんな人物になるのか想像もつかない。年齢的に釣り合っている従兄のラウルはとっくに婚約者がいたし、あれこれと「このまま自分しか後継ぎがいなかったら」と、父と相談をした結果、フィーナはこの国の女性が本来手に入れることが出来ない、多くの学びの機会を得たのだ。
(あの頃のお母様は、わたしのことを可哀相な子だと言っていたし、自分のせいだって何度もわたしに謝っていたなぁ~)
優しい人なのだ。ただ、古い風習――それは今でもこの国に根強いので一概に古いとは言えないのだが――で生きて来たため、なかなか新しいことを受け入れられなかっただけだ。しかも「自分が男の子を産めていないから」という後ろめたさが当時のアデレードにはあっただろうし、仕方がないとフィーナも思う。
それでも、アデレードは今だってフィーナのことは愛しい娘だと言ってくれるし、レースで編んだ襟を届けてくれたり、メッセージを添えてくれたり、気遣ってはくれているのだ。彼女からの愛をフィーナは疑ったことがない。
だが、今は少しうまくいっていない。だから、正直なところ会いたくない。会いたくないが、ぽっかりと空いた時間に彼らに会いにもいかずに呑気にマッサージを受ける気にもなれない……というのが本音だ。
と、その時、ララミーがやってきた。
「お嬢様、来月の感謝祭のために手配したものが届いたとのことです」
「あら、予定より早かったのね」
「ええ。どうやら、街道の整備が進んだおかげらしいですよ。お休みの日に申し訳ありませんが、確認していただけますか?」
「もちろんよ。倉庫前に行けばいい?」
「はい。お待ちしておりますね。あれですかねぇ、レオナール様はお出かけ中ですけど、お二方に手伝ってもらうことは出来ませんかね。今日来るとは思っていなかったので、男衆の手が足りないんですよ」
「そうね。荷を倉庫に運び込むのに、もし手伝っていただけたら助かるわ。聞いてみる」
ララミーが退室すると、フィーナはつい、ほっと安堵の息を吐いた。休みだったけれど、たまたま予定外の仕事が入った。だから、仕方がない……そういう言い訳が出来たことに、安心してしまったのだ。
「感謝祭? お祭りなんてやっている余裕があるんですか?」
「男爵様がお亡くなりになってそう日数が経過していないのに、お祭りですか?」
執務室に行けば、運よくヴィクトルとマーロは休憩をしているところだった。感謝祭と聞いて、2人はどちらも首を傾げる。
「昔は盛大だったのですが、今はちょっとしたものをこちらから配布して、地域ごとにやってもらう形にしているんです。手配は父が亡くなる前に終わっていたので、止めることも出来なくて」
「そうなんですね」
良かったら荷物の運び込みを手伝って欲しい。そう頼めば、2人は二つ返事で立ち上がる。その頼もしさに嬉しそうに手を叩くフィーナ。
「荷物って、何ですか?」
「えーっと、粉とか、干し肉とか……」
「粉?」
怪訝そうな顔をする2人。
「地域ごとにお菓子を作る材料を配布して、その地域の女性たちが大量にお菓子を作って子供達に配るんです。子供達はそのお礼にお花を摘んで、作ってくれた人たちに渡します」
「ああ、だから粉」
粉と言っても色々あるが、あえてフィーナは「粉」とざっくりと告げる。正直なところ、あまり製菓に向いているとは言えないが、ないよりはまし、というものだからだ。それでも、その分今回は砂糖を良いものにしたのだと説明をする。
「昔は狩り大会が同時に開かれて、男性が狩った獲物をみなに振る舞ったりしていました。でも、今は狩りが出来る人も減っているので、代わりに安い干し肉を大量に仕入れてそれも各地域で配布してもらっています。レーグラッド家から領民への感謝、領民から自然への感謝、など色んな形で互いに感謝をし合うために、色々な方法で何かを振る舞い合うんです。だから、お祭りといえばお祭りですが、今はちょっと地味なんです」
「へえ~」
ヴィクトルとマーロはフィーナやララミーの期待に応えて、商人の荷車から倉庫への荷運びを他の使用人たちに交じって行なった。思いの外、荷物の量があり、2人に頼んだのは賢明だったと言える。
「みなさんお疲れ様です。今年の感謝祭の準備がこれから始まりますが、よろしくお願いいたしますね」
商人への支払いをカークが行なっている間に、フィーナはみなにそう告げた。ヴィクトルは「これ、俺達がいなかったらもっと大変だったんだよな」と言い、マーロは小さく頷く。きっと、彼らがいなければあと半刻はかかっていただろうと思えたからだ。
「大変だなぁ……よく、こんな面倒なことを」
「そうですね。でも、きっとやった方が良いんでしょうね。男爵がいらっしゃらなくなって、領民はみな心配していますし」
マーロの言葉に頷くヴィクトル。確かにそうだ。男爵もいなくなった。そして、フィーナが代理人になり、感謝祭もしない、となれば領民たちは不安で仕方がないだろう。いくら立て直し公が来たとは言え、自分たちはまだそこまで民衆に受け入れられていない。
「お2人ともありがとうございます」
「いえいえ」
ちょうどよかったとばかりに「もしかしたら、まだ自分達が見ていない資料に感謝祭に関する予算案とかあるのかな?」とヴィクトルが言えば、フィーナは「そうだと思います」と答えた。
「そこはさすがに見ても何にどれだけ必要なのかがピンとこないと思うので、もし時間があったら少し説明してもらってもいいですか」
「ええ、勿論です」
数字は苦手だが、数字の根拠になる「何をするためのものがどれだけ必要なのか」は話すことが出来る。フィーナは快く彼らの提案に応じる。
かくしてフィーナは、予定より早くやって来た商人とヴィクトルたちのおかげで離れに行かない言い訳を作り、訪問を先延ばしにしてしまった。
(とはいえ、明日は行かなくちゃ)
先延ばしとはいえ、明日も休みだ。明日こそは、と思えば思うほど、なんとなく気持ちはどんよりとしてしまう。
(でも、仕方がない。明日を逃したら、またいつ行けるかわからなく……)
なっちゃう、と思いつつ、本当はそんな大したことではないのだともわかっている。考えても行く以外の答えは残っていないし、今悩んでも単に「行きたくない」という気持ちしかないともわかっているのだ。仕方がない。
「うう、明日は明日困ろう!」
「フィーナ様?」
「いえ、いえ、なんでもありません。こっちの話なので……!」
「そ、それならいいんですけど……」
ヴィクトルとマーロ、2人は顔を見合わせた。が、それ以上のことをフィーナに突っ込んで聞いてはいけないと思ったのだろう。結局その日はレオナールがいない間に2人と親睦を深めつつも、数字の話はなんだかんだ頭によくない、と思うフィーナであった。