喫茶店ブルーポット 3 上
以前投稿したものがなくなっていたみたいなので一部追記・修正とともに再投稿です。
11月も下旬、ハロウィンが終わって間も無く世間の企業や店舗のクリスマス商戦が激化し始める中、そんなことなどどこ吹く風と一年を通してのんびり平常運転で営業していた喫茶店ブルーポットが、今年になって行事に積極的に取り組んでいた。
この喫茶店、観光名所にもなっている超有名な神社のそばで大通りに面した場所にあり、コバルトブルーの切妻屋根と角が白煉瓦のベージュの壁の小洒落た外見をしている。
人と車の行き交う賑やかな大通りを逸れて静かな枝道側に設けられたガラス戸を開けて中に入ると、まず目につくのが北壁の欧風な棚の前に置かれた、小さな平型ショーケースが乗った簡素ながら立派なマホガニーのL字カウンター。そして右手の小さなホールはクラシカルな4脚の4人掛けテーブルが置かれた落ち着きのある空間。
店長の淹れる美味な珈琲と手作りスウィーツ、カウンターのショーケースに飾られた店長作の精巧な装飾品が、味覚と視覚で客に寛ぎのひと時を提供している。
──そんな魅力的な条件を揃えていながら、この店はあまり賑わっていない──
南の大通りに面した壁に開けられた大窓は屋根と同じコバルトブルーのオーニングと植木でさりげなく隠れて中が分かりにくく、入り口は隠れるように大通りを外れて目立たない。
入り口傍の地面にそっと置かれた、白地に青い線で湯気の立ち上るカップの添えられた背の高いポットが描かれ小さく店名の書かれた看板は、膝下程度の小さなものですぐには気づいてもらえない。
極め付けはこの店の店長、菱井純が創業より三年間、行事に無関心であるかのように特に何もやらないどころか営業時間までも気分でやっていた経営で、これらに不安と憤りを感じた勤続9ヶ月になろうとしているアルバイト大学生、翡山翠が営業時間を11時から20時と定め、この秋から時期に合わせた期間限定のスウィーツを提供するよう働きかけ今に至っている。
そんな翠の苦労も虚しく、土曜日の昼下がりの店内にはテーブル席に毎日のように通ってくれている近所の年配常連客のみ。カウンターには、これまた古参の常連客であるスーツ姿の若い男性客が1人いるのみである。
年配客はいつもブレンドを一杯頼むと後は何も頼まず、カウンターの男性も、アインシュペンナーを時折口に運びながら本を読んでいて何かを頼む様子がないので、菱井は奥に引きこもり、店頭ではアルバイト店員の女性2人がカウンターで顔を突き合わせて何やら話し込んでいた。
「やっぱブッシュ・ド・ノエルは外せないでしょ」
ハロウィンも終わり、来たるクリスマスに向けて何か催しを、と翠は期間限定で提供するスウィーツをメモに書き込む。
「あれって丸太を模したロールケーキでしょ?カットしてお客さんに出した時にただのロールケーキにしか見えないんじゃない?かといって丸ごと出すわけにいかないし」
翠の案を指摘するのは同じ大学に通う友人の篠田有里子で、今月からこの喫茶店でバイトすることになり、いま翠と一緒にクリスマスのイベントを考えているところだ。
「じゃあ、ケーキ屋みたいに制作予約受け付ける?店長の作るものだったら結構予約集まると思うよ」
「それこそマスターがアクセ制作できなくなるからやめた方がいいって」
大きな利益を産みそうなアイデアに喜色を浮かべる翠を、眉を寄せて有里子が嗜める。ブルーポットの店長である菱井は店の経営よりもジュエリー製作に重きを置いているところがあり、その製作作業の時間が削られるのを酷く嫌う。
「えー?じゃあイブに店が終わってから3人でケーキ食べる?」
「作ってもらうことは決定なんだ……?」
苦笑しながら確認する有里子に翠は菱井を真似てほんわりした笑顔で答え、有里子に肩を軽く小突かれた。
「ケーキはまぁ……わたしも楽しみだし作ってもらいたいけど、タダは流石にダメだからお金は出そうね。それと、期間限定のお菓子はもっと手間がかからないものにしない?」
有里子に言われて翠は低く唸るとスマホを取り出して、何かいいものがないか調べ始めた。
「楽しそうだね、今度はクリスマスに何やるの?」
朗らかな声で不意に横から話しかけられた2人がスーツの男性を見ると、彼は本を閉じて上体を2人に向けて笑いかけている。
歳は2人とあまり変わらなそうで二十代前半といった感じで、長すぎずスッキリと整えられた黒髪で清潔感のある中性的な顔立ちの美青年で、2人は菱井が彼と話しているときに"立花さん"と呼んでいたのを覚えている。
彼はこの店で──他店でもまず無いが──数少ない、メニューにないアレンジを頼む客の1人で、菱井が珈琲であればどんなアレンジも作ってしまうのを知っていて、店に来るといつもメニューも見ずに翠や有里子の知らない飲み物を注文していた。
「今のところは何かお菓子を作ってもらおうと思ってるだけなんですけど、いいのが思いつかなくって」
「なるほど──」
苦笑しながら翠がいうと、立花は片手で顎を摘んで思案する。
「──そうだ、バニラキプフェルなんかいいかもしれないね。ドイツやオーストリアの伝統的なクッキーでアドベントの時に出されるものだよ」
知らない単語だらけで首を捻る2人をよそに立花は時計を見て「そろそろ行かなきゃ」と呟き、精算を済ませて出ていった。
有里子のレジ打ちを見守った後、翠は休憩室で椅子に座って何かデザイン画を描いている菱井に声をかけた。
「店長、ちょっといいですか」
「ん?」
菱井は顔を上げずに短く答えながら先を促した。
「えっと…いま立花さんから聞いたんですけど、バニラきふきゅる…きぷ…なんとかっていうクッキーって知ってます?」
翠があやふやに覚えたクッキーの名前を尋ねるとデザインを書きながら菱井が答えた。
「バニラキプフェル?知ってるよ。今度のクリスマスに作るの?」
「あー、いえ…出来れば店長に作っていただけないかなー、なんて…」
すると菱井はデザインを書く手を止めて、いつになく優しい微笑みを浮かべながら翠に言った。
「そういえば、さっきブッシュ・ド・ノエルがどうとかいうのが聞こえたんだけれど、それはどうするのかな?」
こういう状況で菱井がこのような笑顔を見せたときは必ず裏があるのを知っている翠は戦々恐々としながらなんとか答えた。
「そ、れはですね、店長の作ったお菓子は絶品なので、イブの夜に店が終わったらそのブッシュ・ド・ノエルを3人で頂こうかーって有里子と話してまして──」
「ミドリちゃんが店に出すバニラキプフェルを作ってくれるのなら、私が腕にヨリをかけてとびきりのブッシュ・ド・ノエルを作ってあげるけど、どうかな?当然、お代はいらないよ」
「うっっ!!」
ものすごく魅力的な話ながら、同時に提示された交換条件に翠は思わず声を上げた。料理ですら殆どレトルトや冷凍食品に頼っている翠にはお菓子を作るなど絶望的だった。
頭を抱えて悩んでいる翠に、戸口から有里子が顔を出して声をかけた。
「作りなよ翠。わたしも手伝ったげるからさ。翠に話を持ちかけるってことは、そんなに難しくないんですよね?」
後半のは菱井に聞いたもので、菱井はそれに頷いた。
「私も横で見ているから大丈夫だよ。ミドリちゃんもそろそろ調理も覚えないとね」
菱井の言葉に翠は観念して頷いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
2日後の夕刻、キッチンで翠が菱井に教わりながらバニラキプフェルを作っていると立花が来店した。
応対した有里子は注文を聞くと、カウンターに戻った菱井に教わりながらホットモカ・ジャヴァを淹れる。翠が調理を教わることになった時、有里子は飲み物の淹れ方を教わることにしたのだった。
煮沸されたネルに粉を入れ、少々おぼつかない手つきでポットからお湯を糸のように細くしてネルに落としながら手持ちドリッパーをゆっくり回し、挽きたて豆の香りを漂わせながら珈琲を抽出していく。
珈琲の入った手鍋を弱火で温めながら、チョコレートシロップを注ぎ入れて軽くかき混ぜ、カップに移すと泡立てた生クリームを搾り出して浮かべ、チョコレートを刻みながらクリームに振り掛けると、ニコニコしながらカウンターの席から作業を見守っていた立花の前に恐る恐る差し出した。
立花はカップを手に取って一口服んで味わうと「うん、いいね。美味しい」と、ニコリと微笑みかけて有里子を赤らめさせ、菱井も同意するように頷き、満足そうに微笑む。
「うん、有里子くんはセンスあるよ。これだと早いうちから任せられそうだね」
「ありがとう、ございます…」
菱井に誉められ、耳まで赤くしながら有里子はもそもそと礼を言った。
「そういえば、クリスマスの限定メニューはどうなったの?」
立花に聞かれて有里子が奥のキッチンの方にチラリと目をやると、ちょうど翠が切迫した声で菱井を呼ぶ声が聞こえた。有里子はくすりと笑い、菱井がキッチンに戻る。
「……いま試作品を作ってるところです。教えていただいたバニラキプフェルを作ることになりました。コストを抑えてたくさん作れるし、23日から27日に飲み物にサービスで出させてもらって、それとは別に……なんだったかな? 黒森のケーキとかいうのを限定メニューで出すので、お時間のある時にまたお越しください」
「もしかしてシュヴァルツヴァルター・キルシュトルテ? いいなぁ……じゃあ、ブッシュ・ド・ノエルはどうなったの?」
「あぁ、それは──」
有里子が言いかけた時、香ばしい匂いと共に「あっつ!」「店長、お皿っ!」などと翠が騒ぐ声が響き渡り、立花は愉快そうに笑い、有里子は眉間にしわを寄せて深々と頭を下げた。
「ブッシュ・ド・ノエルは、イブの夜に店が終わってから3人でささやかなパーティを開いて食べることになりまして、、マスターが作ってくれる代わりにミドリがサービスで出すクッキーを焼くことになりまして、それで今のような騒ぎに……」
恐縮しながら友里子が答えると、立花は愉快そうに笑って言った。
「じゃあ、あの子が初めて焼くお菓子も食べられるわけだね。でもいいなぁ、パーティかぁ」
笑顔を静めて、立花がしみじみと羨ましそうにいうので有里子は思わず聞いてみた。
「立花さんはクリスマスに彼女とかご家族と一緒に過ごされないんですか?」
すると立花は自嘲気味に笑って手を振った。
「彼女?いない、いない。誰かいい人がいたら紹介してほしいよ」
「えー、そんな勿体無い」
焼きたてのバニラキプフェルを盛った皿を手に現れた翠が話に加わり、意外そうな声を上げながら小皿に数枚取り分けて「是非試食してみてください」と、立花の前に置く。三日月の様に湾曲した細長いクリーム色のクッキーは、甘い香りで店内の皆を魅了していた。
立花は翠に「こんにちは」と挨拶すると小皿から一つつまみあげた。バニラキプフェルは焼き立ってでほのかに暖かく、ややしんなりとしていた。
「なんだかちょっと柔らかいね」
「あー……まだ粗熱が取れてないんで……。冷めたら硬くなると思います……たぶん」
立花は「なるほど」と呟き、折れないように気をつけながら慎重に口に運んで一口かじった。バニラキプフェルは口の中でホロホロと崩れ、仄かなバニラフレーバーと、砂糖で際立たされた小麦とバターの甘さが口の中一杯に広がっていく。
素朴な美味しさに立花は顔をほころばせ、ホールのあちこちでも感嘆の声が聞こえる。見れば翠が店内にいる他の客にもバニラキプフェルを配っていた。
すべて配り終えて戻って来た翠が、大皿に二枚残ったうちの一枚を有里子に差し出し、残った一枚を自分の口の放り込んだ。有里子も一口かじって目を見開き、口元を押さえながら黙々と味わっている。
バニラキプフェルを飲み下すと翠が改めて立花に聞いた。
「さっきの話ですけど、やっぱり勿体ないですよ。立花さんだったら彼女なんてすぐできるでしょうに」
「ありがとう。まぁでも……実はちょっと気になる人はいるんだよね」
「え、そうなんですか!?どんな人か教えてくださいよ?」
はにかみながら答える立花に、好奇心をむき出しにして翠が聞くと、立花は人差し指を口に当てて悪戯っぽく笑った。
「だめ、それは内緒」