第6話 問題児には違いないようだが
馬車に揺られながら今日という日を振り返るのは、俺にとって日課のようなものだ。多くは業務の効率化について模索する時間となっている。
しかし今日は業務に関する方向へ思考が向かない。というのも、ファビオ王子殿下が次のパーティーにアリーチェを連れて来いと言いだしたからだ。座席に深く腰を下ろし瞳を閉じた俺の耳の奥で、殿下の楽し気な声が蘇る。他人の……いや俺の嫌がる顔を見るのが三度の飯より好きな殿下の、だ。
「ジョエル、婚約者殿がもう屋敷に来たんだって? 結婚式は三ヶ月後と記憶していたけれど」
「相変わらず耳が早いですね。なんでも、病弱な妹が近頃また体調を崩しがちなため、看病と結婚準備が両立できないとか。姉に風邪をうつさないように、そして妹が万全の体調で姉の結婚式へ出席するために必要な措置だと」
「あははは! それはそれは、マリーノ伯爵家も苦しい決断だったことだろう。そうだ、次の精霊祭には婚約者殿を連れて参加するんだろう?」
ペンを置き手元の書類から顔を上げた殿下の赤い瞳は、好奇心で煌めいていた。社交の場に顔を出したことのない、けれども常に社交界の話題の中心に居続けたアリーチェ・マリーノを見たい、というのが本音であることは明白だ。
「デビューさえしていない人間を連れて行けるわけがないでしょう。俺だって参加するつもりは――」
「精霊祭でデビューすればいい、父上もそれくらいは喜んで認めるさ。何と言っても、未来の公爵夫人なわけだからね。ジョエル、君だって家族を持つのだから今までのようにはいかないよ。社交のひとつやふたつ出席しなければね」
ニヤリと笑ったファビオ殿下の顔を脳裏から打ち払うように、頭を振って目を開く。窓の外を見れば馬車がちょうど屋敷へ到着したようだ。
「旦那様、お帰りなさいませ」
「マッテオか。待たなくていいと言っているのに」
「それがわたくしの仕事でございますから。アリーチェ様もお待ちになると仰っていたのですが、お疲れのご様子でしたので先にお休みいただきました」
「ああ、構わない。今後も待つ必要はないと言っておけ」
マッテオが扉を開け、エントランスへと入る。が、何か違和感があって足を止めた。何かがいつもと違う。周囲をぐるりと見まわせば、それがあった。
「あの花は?」
「華やかでございましょう? アリーチェ様がご自身でお選びになり、手ずから飾ったものです」
この屋敷に、花は長く飾っていない。花瓶は数え切れないほどあるし、庭や温室にはいつだって花が咲き誇っているというのに、だ。
この屋敷で事情のわからないものがあるとすれば、それは俺が封じた記憶の中に答えがある。つまり、両親に関することだ。
「どうせお前がやれと言ったんだろう。噂通りの女なら、そんなこと考えもつかないだろうからな」
外套をマッテオに預けて階段を上ると、マッテオは肯定も否定もしないまま俺のあとに付き従った。薔薇の香りが鼻腔をくすぐり、頭の奥の奥を覆い尽くす靄がゆらりと揺れた気がした。クソ、余計なことを。
「アリーチェ様のことで、お話が」
「早速なにかやらかしたのか」
「そういうわけではないのですが」
私室へ入ってソファーへ腰を下ろせば、煮え切らない表情のマッテオが小さく息をついた。彼が言いづらそうにするとは、一体どれほどのことをやらかしたというのか。
「温室の魔道具が動いたのです」
「直ったのか?」
「いいえ、わたくしが持てば元の通りうんともすんとも言いません。アリーチェ様だけが、お使いになれたのです」
「そんな馬鹿な」
あの魔道具が壊れたときはメイドたちが大騒ぎをしていたので覚えている。あれは水やり以外にも重宝していたのに使えなくなってしまったら困ると。
水の加護を用いた魔導具なら俺でもどうにかできるのではないかと確認してはみたが、あれはそもそも……。
「あれは動力である魔力を外部に依存している。にもかかわらず、大気中に漂う環境魔力を集積するための術式が摩耗してほとんど使い物にならなくなっていた。付与術士に任せない限り直りはしないだろう。だから捨てろと言ったのに」
「捨てるだなんてとんでもない。あれもまた温室の一部でございますから。しかしアリーチェ様はあの魔道具を用いて草花に水をやったのです」
「いや、待てよ。そう言えば今日は俺も不可解なことがあった。賊の討伐任務に向かったのだが、全ての加護魔法の性能が上がっていたんだ。飛距離や威力を見誤ることなどないが、しかし原理がわからん」
「精霊様のお導きでございましょうか」
信心深いわけでもなかろうに、神妙な顔でウンウンと首を捻るマッテオを笑い飛ばすこともできない。俺の魔法の性能の話だけなら、勘違いすることもあるだろうと自分を誤魔化せたものを、魔道具の挙動までおかしいのではな……。
「精霊までもが、精霊祭に参加しろと言うのか」
「精霊祭でございますか」
折を見て断るつもりでいたから深く考えなかったが、もし本当に精霊祭にアリーチェとともに参加するとなれば相応の準備が必要だ。
しかし彼女を連れて行くのはさすがに難しい。ああクソ、本当に面倒なことばかりだ。
どうしたものかと、俺までウンウンと首を捻りそうになったところで、ノックの音が響いた。声の主はマッテオの姪であり、アリーチェの侍女であるエレナだ。
俺と兄妹同然に育ち、成人して以降は4大公侯爵の中の他家で侍女として働いていたのを、アリーチェのために呼び寄せた。もしアリーチェが問題を起こしても、身内なら小火のうちに揉み消せるからだ。
「旦那様ぁ~! アリーチェ様のことでお話が」
エレナの口からもまた問題児の名前が出て、肩の力が抜ける。まったく、なんて日だ!