記念SS/そういえば子供の頃に
本日12月20日よりコミカライズの連載が!始まりました!
というわけで有頂天になってSSを書きましたのでお楽しみいただければと思います。
暦の上では秋のはずで、庭の木の一部は確かに赤く染まっています。けれど今日はとっても暑くて、日課の散歩に出た私にエレナが日傘を差し掛けてくれました。肌を刺す強い日差しが遮られるといくらか涼しいですね。
「こんなに暑い秋、あり得ませんッ!」
エレナがぶすっと頬を膨らませましたが、私は彼女の言葉に遠い記憶が揺さぶられ、それを手繰るように目を閉じます。
――あり得ねぇだろ、これじゃまるで夏に戻ったようだぜ! 水でも被んねぇとやってらんねぇなァ。
そう、あれはマリーノ港に降りた水夫の言葉だったと思います。
私は四歳で、まだ私のための乳母や家庭教師がいた頃のこと。あの日も秋とは思えない暑さでした。
両親は偉い人が視察に来るからと言ってマリーノ港へ。義母のそばを離れたがらないミリアムと、その遊び相手を務める私もまた両親に同行しました。本来、両親の仕事中は私がミリアムの面倒を見るはずだったのですが……彼女はぐっすり眠ってしまい、私だけが事務所の外へと放り出されたのです。
港には日陰になる場所が少ないため、倉庫の脇でじっとしながら働く水夫を眺めていましたら。
「ここは子どもがいていいところじゃないはずだよ」
男の子の透き通るような声。
記憶の中の彼は強い逆光がさしたみたいに、または日に焼けた看板のように薄ぼんやりとしてお顔立ちが思い出せません。背格好からすると十歳にも届かないくらいでしょうか。
「あなただって子どもでしょ、私よりはずっとお兄さんだけど。それにね、私はここにいないといけないの」
「どうして?」
男の子は私の横に来てそのまま地べたに腰を下ろし、喋り相手ができたことに喜んだ私もまた彼と並んで座ります。
「私ね、今日は妹の面倒を見なさいって言われてね、お父さまが連れて来てくれたの。だけどね、ミリアムはぐっすり寝ちゃったからやっぱり面倒見なくていいって」
「えーっと。お父さまっていうのはもしかして、マリーノ伯爵? 乳母はいないの?」
「そう。今日は偉い人が来るって言ってたの。ばぁやは来てない。あなたはなんでここにいるの?」
「俺は父上の仕事を見て覚えるために――いや、父上が伯爵と話してる間に積み荷の点検をするっていう大事な任務を与えられたんだ」
「てんけん?」
男の子は水夫たちが船から降ろしたり、あるいは船へ積んだりする大きな木製の箱を指さしてクイっと顎を上げました。その仕草はまるで積み荷の検品をする港湾管理官のおじさまみたいで、私は声を出して笑ってしまって。
「笑いごとじゃないよ、もしかしてあの中に禁制品があるかも」
「きんせーひん?」
「人の脳みそを溶かす薬とか、爆発する拳銃とか」
「ばくはつ! どかーんって?」
「そう、どかーんだ」
両手を広げた私に、男の子も同じく両手を広げて見せてくれました。
それが面白くてキャッキャと笑っていたのですが、どうにも暑くて汗が滴り落ちます。それは男の子も同じで。
「事務所に入ったほうがいいよ、ずっと暑いとこにいたら倒れちゃう」
「でもね、お父さまが駄目って言うからね、入っちゃ駄目なの」
「は? まぁいいけどさ……」
男の子は首を傾げながら、右手を身体の前で切るように横に滑らせました。と、前方に水が飛びます。まるで勢いをつけて桶の水を撒いたみたいに。
「わぁー! すごい!」
「加護があればこれくらい誰だってできるよ。地面を濡らすとちょっと涼しくなるんだ。少しくらいマシになるといいけど」
「これが加護魔法? すごい! ね、ね、もっとやって。もっとバシャーってしてほしい! 私ね、精霊様にお祈りするから! もっとバシャーって!」
「そんな勢いよくは無理だよ」
当時はまだ誰かの迷惑だとか負担だとか、そういうところに意識を向けられなくて。家庭教師に何度も叱られたんでしたっけ。
私が両手を合わせてお祈りを始めると、男の子は小さく溜め息をついて同じように右手を振りました。
どこからともなく現れた水は、先ほどとは比じゃないほどの量でした。しかもまるで手品師がカードを投げたみたいに勢いよく遠くへ飛んでいきます。水の塊からこぼれ落ちた小さな水滴たちが、日の光をきらきらと方々に反射させながら散っていきました。
一瞬の出来事なのに、輝く水滴もびゅんと飛んでいく水の塊も、ポカンと開かれたままの男の子の口も、ひとつひとつが鮮やかに思い出されます。
幻想的な光景に呆けていた私を現実に引き戻したのは、やっぱり水夫の声でした。
「つめっ、冷てぇな! 誰だ!」
男の子が飛ばした水を、たまたま前方にいた水夫が頭から被ってしまったのです。水夫は水を掛けた犯人を見つけるために自分の周囲をきょろきょろ見回します。
「うわ、やっちゃった」
「あっち、あっち行こ! 見つかる前に!」
跳ねるように立ち上がると、私はしかめっ面をする男の子の手をとって走り出しました。その場にいてもきっと疑われることはなかったでしょうけど、万が一にも叱られたくはないですから。
ふたりで手を繋いで息が切れるまで走って、立ち止まったところで顔を見合わせて大笑いしました。私たちはイタズラの共犯者になったのです。
「謝らなくてよかったのかな」
「だいじょうぶ! あのおじさんはね、水でも被りたいなってね、言ってた!」
「本当に? あはは、まぁいっか!」
「うん! まぁいっかだよ!」
もう一度笑い合ったところで、事務所のある方向から男の子を探す声が聞こえました。男の子は「もう行かないと」と言い、彼の手を握ったままの私の手をほんの少しだけ持ち上げます。
「君はなんていう名前?」
「アリーチェ!」
「アリーチェ。俺はこれから家族で旅行なんだ。水の精霊が生まれた泉に行く。向こうについたら手紙を書くよ」
「手紙! うん、待ってる!」
……ああ、こんなに素敵な思い出を今日まで忘れていたなんて!
あの男の子は確かに輝くような白銀色の髪でした。別れ際には月みたいな優しい金色の瞳を眩しそうに眇めて手を振ってくれたのです。
その後、男の子から手紙が来ることはありませんでした。もちろん今ならその理由もわかります。家族で水の精霊が生まれた伝説の泉へ向かうと言っていたのですから。つまりその旅で男の子は両親を亡くし、心を閉ざしてしまったんです。記憶も愛情も封印して。
でもあの頃の私はそれを寂しがる余裕さえなくて。乳母はあの後すぐにマリーノの屋敷を出て行って、私の味方は古くからいるメイドだけになってしまったから。
「奥様? アリーチェ奥様、大丈夫ですかッ?」
目を閉じて立ち止まった私を、エレナが不安げな様子で覗き込んでいました。
「え? あっ。ごめんなさい、ちょっと昔のことを思い出してて」
「昔でございますか? それは……」
「ふふ、嫌なことじゃないから大丈夫。あのね、もしかしたらこれが初恋だったんじゃないかって――」
「それは聞き捨てならないな」
後ろから氷みたいに冷たくて、でも優しい声がしました。
私が振り返ると同時にエレナが一歩離れ、日傘の角度を変えます。輝くような白銀色の髪と、月みたいな優しい金色の瞳。
「わ、わ、ジョエル様!」
「初恋だって?」
「ち、ちが、違うんです、じゃなくて、違わないんですけど!」
だってあの男の子は間違いなくジョエル様で!
何からご説明したらいいのかしらと戸惑う私の方へ、ジョエル様は長い脚で一歩二歩と近づいて、あっという間に目の前まで来てしまいました。
「さて、ゆっくり聞かせてもらおうか?」
ジョエル様は目配せだけでエレナを下がらせます。彼女はニッコニコの笑顔で一礼して屋敷の中へと戻って行ってしまいました。
待って、置いていかないで! と彼女について行こうとしたのですが、すかさずジョエル様の手が私の腰にまわります。
「ジョ……ジョエル様?」
「昔のことだ、受け入れる度量くらいあるさ」
や、その目はそうは言ってません!
実は原作の電子書籍化も進行中です!
というわけで今後も何かしらの節目にSSを書いたりするような気がしますので
ブクマはどうぞそのままにしていただけますと幸いです。
ありがとうございます




