第5話 みんな居候に優しいです
温室での水やりは私が魔法のじょうろを、マッテオさんが普通の水桶と柄杓を用いて行いました。ふたりでというのもありますが、魔法のじょうろは水を汲む動作が必要ないのであっという間に終わったのです。すごい。
ぜんぜん重労働ではなくなってしまいましたが、それでも私をここへ置いてくださるでしょうか。なんとなく聞きそびれたまま朝ごはんをいただき、今にいたります。
今というのは、エレナさんにお花を飾るうえでのアドバイスをいただきながら、屋敷の中を案内していただいているのです。昨日も少し教えてもらっていましたが、タウンハウスながら公爵家のお屋敷は広いので時間がかかります。
「朝ごはんはたくさんお召し上がりになりましたかー?」
「あ……料理長さんがとてもたくさん作ってくださって」
「そうでしたねぇ。アリーチェ様のお気に召すものがわからないからって、多種多様なメニューをご用意すると息巻いてましたわ!」
朝食としてテーブルに並べられていたのは、サラダもスープも二種類ずつ。オムレツにソーセージにクロックムッシュにお魚に他にもたくさんのパンも。
「せっかく作っていただいたのに、食が細いせいでほとんど食べられませんでした」
「ふふっ。それは料理長も残念でしたねぇ。でも少しずつたくさん食べられるようになさったらよろしいかと」
クスクスと笑うエレナさんは、きっと私がガリガリであることを心配してくださってるのだと思います。私が食べる様子を見に来てくださった料理長さんも、このお屋敷の方々はみんないい人ばかりだわ。
「スープが温かくて美味しかった……」
私の朝食はいつも固いパンをひと切れと前日の残りの冷たいスープを少し。何もない日だって少なくありません。これは妹ミリアムが私に食事を与えるのを嫌って、メイドたちにそう言いつけていたからです。死なない程度で十分だと。
夜は誰もが寝静まったあとで、使用人たちがこっそり残してくれたものを食べていましたけれど。
だから出来立てのご飯をいただいたのは本当に久しぶりで。
目をまん丸にしたエレナさんでしたが、咳ばらいをひとつして私の手を取りました。
「これからは温かな食事をたくさん食べましょうねッ!」
「あ、ありがとうございます」
心地よい沈黙とともに屋敷を歩き回り、ひとつひとつエレナさんに説明していただきます。
「ここが旦那様の書斎でぇ、こちらが旦那様の私室でございまーす。またその隣は、いずれアリーチェ様がお使いになる予定の奥様の部屋。これらはお花を飾る必要はありません。と言っても、恐らく普段は鍵がかかっているかと思います」
「はい」
「そして最後になりますが」
屋敷の主人たちの部屋が並ぶ一角で、まだ説明のされていない部屋を指さしました。
廊下の最も奥まった場所にあるその部屋は、なぜか冷え冷えとした印象が。エレナさんがそっとドアハンドルに手を伸ばします。
「こちらの部屋は――」
「エレナ、マダム・ベッカからのお使いがいらっしゃったよ」
「あら、もうこちらに? ではきっと色よい返事だわッ!」
背後からマッテオさんの声がして、エレナさんは踊るように階下へと降りて行きました。残された私とマッテオさんは目を合わせて笑います。
「失礼しました。エレナはたまに周りが見えなくなるのが短所と言えましょう」
「何事にも一所懸命なのは長所です」
「ではアリーチェ様、わたくしと一緒に屋敷を飾る花を探しに行きましょうか」
「はい!」
マッテオさんとともに歩き出してから、一度だけ先ほどの扉を振り返りました。一体なにに使うお部屋なのかわからないままですから。あの部屋から漂う冷気にエレナさんもマッテオさんも気付いていないようでしたが……。
私の様子に何を思ったのか、マッテオさんが困ったように笑みを浮かべながら口を開きました。
「今後どうなるかはわかりかねますが、当面は鍵のかかった部屋には入らない、ということだけ覚えていただければ問題ないかと」
「それは……わかりやすいですね。ありがとうございます」
先ほどのお部屋にはまた機会があったら行ってみましょう。鍵がかかっていればそのまま記憶から消してしまえばいいのだわ。
庭へ向かうにはエントランスを通り抜ける必要があります。階段に差し掛かると、エレナさんがどなたかとお話をしているのが見えました。飾り気のないワンピースをまとった女性ですが、そのワンピースの素材がとても良いものだというのは遠目にもわかります。
ミリアムのドレスを作るたびに、生地のサンプルは私もたくさん拝見しましたから。
あのような生地は私には縁のないものです。いつか結婚して伯爵家を継ぐときに、もしかしたら少しくらいはと夢を見たりもしましたけれど。
エントランスへ降りて来た私にエレナさんが頭を下げると、お話し相手の女性は慌てたように私とエレナさんとを見比べ、そして優雅にお辞儀をなさいました。
どう反応したらいいのかわかりませんし、こっちのことは構わないでほしいのですけど……!
「さ、アリーチェ様こちらへ」
マッテオさんに優しく背を押され、外へ出ました。知らず知らずのうちに止めていた息が一気に漏れ出ます。
私の横でマッテオさんが、ふふっといたずらっ子のように笑いました。
「彼女は奥様が贔屓にしていたデザイナーのアシスタントです。アリーチェ様のお召し物を作るためマダムへ連絡をしたのですが、それで今はスケジュールの調整をしているのでしょう」
「わ、私の服ですか?」
「ええ。もしアリーチェ様もマダム・ベッカのデザインがお気に召すようでしたら、長くお付き合いされたらよろしいかと」
ただの居候ですのに、これではご恩返しが追い付かないじゃないですか……!
どんな言葉を返すべきかわからずに口を半開きにしたまま、私たちは庭園へ到着したのでした。