第40話 愛を知る彼と知らない私
ジョエル様は記憶を辿るようにしてポツリポツリと話を始めました。それは十数年の昔、両親に愛されて育った少年の喪失の物語でした。
「俺と同じく銀竜騎士団に奉職する父と、加護無しの母は互いに敬意と深い愛情を持っていた。それは俺に対しても流れる大河のごとく注がれていた」
そうですね。一度だけ見た家族の肖像画から、私も同じ印象を受けました。家族の愛というものを知らずに育った私にとっては、とても理想的な、飾らずに言えば羨ましい、そんな絵でした。
「多忙な父が珍しくまとまった休みをとって、旅に出ようということになった。俺は大喜びしたが、中でも水の精霊が生まれたという伝説の泉に向かうとなって、はしゃいだものだ」
砂時計の砂が落ち切って、ジョエル様はポットから覆いを取りました。カップに注がれる赤い液体から柔らかな湯気がたちます。
「泉まであと少しというところで、雲行きが怪しくなった。嵐が来る前に目的地へ急ぐか、通り過ぎるのを待ってのんびり行くかという二択になって、俺は早く行きたいと我が儘を言った」
以前、ファビオ殿下からこの話を伺ったとき確かに、「山道を移動中に嵐に見舞われた」とおっしゃっていました。嵐に見舞われたのはご自分のせいだと考えているのでしょう。
「でも、それは」
あなたのせいではない、という言葉はジョエル様がゆっくりと首を振って否定なさったため、続きませんでした。
先を急ぐと決めた大人が、恐らくお父様が、その責任は負うべきなのです。けれど頭で理解しても心がそれを許容できなかったのかもしれません。
「タイミングの悪いことに、崖際を走っているときが嵐のピークだった。激しい雨の隙間を縫うように雷がいくつも落ちて、崖下からはゴウゴウと凄まじい音が響く。俺はそれを、かっこいいと思ったんだ。大はしゃぎで外の様子をもっとよく見たいと窓へにじり寄った」
その後の話を、私は彼の目を見ながら聞くことはできませんでした。私も彼も、波紋ひとつない静かな紅茶を見つめるばかり。
ぬかるむ道と大雨と大風と。もしかしたらカーブに差し掛かっていたかもしれません、真実はわかりませんが、勢いよく窓へかじりついた子どもの動きに馬車は耐えられなかった。
「馬車が落ちる寸前で、俺は母の手で馬車の外、崖と逆側へ放り出された。父が俺を厚い氷で覆ったため、雨で体温を下げることも怪我をすることもないまま救助されたが、そのせいで両親は自衛の手段を失った」
寝言で繰り返しお父様に謝っていらしたジョエル様の姿が思い起こされます。眠りながら伸ばした手はご両親へ向けられたものだったのでしょうか。
「と、言うわけだ。俺が両親を殺したに等しい」
そう言ってカップに伸びたジョエル様の手は真っ白で、視線を上げるとそのお顔もまた色をなくしていました。
家族の愛を知らない私には、掛ける言葉ひとつ思いつきません。普通ならどうやって慰めるんでしょうか?
ただ当時のジョエル様のお気持ちを想像するだに、息が苦しいくらいに胸が詰まります。
「そう、ですか」
「そんなはずはないと頭でわかっていても、俺は人を愛するべきじゃないのだと思ってしまう。誰かを愛せば、傷つけてしまうだろうと。君が俺のせいで襲われたと知って、俺はまた大切なものを失うのかと……」
心臓が小さく跳ねました。
次に体中の血がぐるぐると回り始めました。先ほどまでぎゅっと締め付けられていた胸が小刻みに動いて、浅い呼吸を繰り返します。
「ジョエル様は私を愛しいと思ってくださったのですか、ほんの少しでも?」
口元まで持ち上げたカップを、彼はそのままソーサーへ戻しました。何を言われたのか、そもそも自分が何を口走ったのかわからない、というような顔でこちらを不思議そうに見ています。
「私はたった今、生まれて初めて、愛されるということを知りました。苦しんでいらっしゃるジョエル様には申し訳ないのですけど、私はそれがすごく嬉しい、です」
笑っているつもりなのに、目からはダバダバと涙が溢れていきます。だって生まれて初めて、誰かに大切だと言ってもらったんですから。
「アリーチェ」
「嬉しいから、私はマリーノには戻りません。やっと愛してもらえたんですもの。でも、でも、ジョエル様に苦しんでほしいわけではないんです」
悪夢にうなされて、寝ることさえできなくて、家族の思い出を遠ざけないと真っ直ぐに生きられなかったジョエル様に、耐えろだなんて口が裂けても言えません。だから、
「だから、一度でいいので『愛してる』と言ってはくださいませんか。私はその言葉を胸に、あなたのそばで生きていくことができます。記憶を、感情をなくしても、確かにあなたは愛してくれたのだと信じて生きていけますから」
「何を言って……、そんなのは決して正しい選択じゃない」
「苦しみの元を封印するのなら、お手伝いします。今伺ったお話も、私があなたの分まで覚えておきますから」
どこからか現れた青白い光が、ジョエル様の胸へと吸い込まれていきました。以前、書斎で見かけたのと同じ光です。もしかしたらこれは、ジョエル様が封印した記憶と感情の欠片なのかもしれません。
ジョエル様はスーっと細く長く息を吐いてから口を開きました。
「最期に母が俺に『愛している』と言って魔石を握らせたのを思い出したよ。その魔石は、封印の術に使ってしまったが」
「それも、私が覚えておきます」
「この話はマリーノの件を片付けてからにしよう。愛はなくとも君の家族のことだ。俺は君の気持ちを最大限に尊重できる状態でこの仕事に臨みたい」
「はい、よろしくお願いします」
ジョエル様の優しさに笑顔で返したつもりだけれど、うまく笑えませんでした。




