第4話 私、何かやってしまいましたか
今日は忙しくなるとだけ聞かされたものの、エレナさんは準備があるからと姿を消してしまいました。私はマッテオさんに連れられて、庭の奥の温室へと向かっています。
温室は前公爵夫人が大切にされた場所なのだそうです。秋や冬にも薔薇をはじめとした美しい花々に囲まれたいと願う夫人に、前公爵様がプレゼントされたのだとか。
夫人はそのお礼と日々の喜びを伝える意味で、屋敷に飾るすべての花を手ずから活けたのだとマッテオさんが説明してくださいます。
「屋敷の調度品を選んだり、顔である玄関口の花を選ぶくらいのことはよそ様のご婦人方の中にも、なさる方は少なくないでしょう。しかしすべての花を直接飾る方は奥様だけだったのではないでしょうか」
「そんな重大な仕事を私なんかが、よろしいのですか」
「アリーチェ様は当家の奥様となられる方です。他に任せられる人間はおりません。さ、到着しました。こちらが温室となります」
ガラスで造られた建物はこぢんまりとして、周囲の緑と中の緑とが絶妙な調和を見せています。
扉を開けると、みずみずしい緑の香りを含んだ温かな空気が私を包みました。
「素敵……! 薔薇だけで何種類もあるのですね」
「おお、一見しておわかりになりますか。奥様は特に薔薇がお好きでした。今は我々が交代で現状維持に努めておりますが、今後この温室はアリーチェ様のお好きなようにお花を植えていただいて構いません」
温室の中を、奥の作業机まで進みます。作業机の脇には小さなティーテーブルも。
前公爵夫人はここでお茶を楽しんだりなさったのでしょうか。埃こそ乗ってはいませんが、磨かれなくなって長い時間が経ったのか、カップ類はくすんで見えました。
ここを私の好きなようにだなんて勿体ないお話だわ。追い出されないようにするのが精いっぱいですもの、余計なことはしないようにしなければ。
「と、とりあえず毎朝お水をあげたらよろしいでしょうか」
「ええ、その通りです。ですが、これがまた重労働でございまして。アリーチェ様にこなせるかどうか」
マッテオさんが思案顔を浮かべます。
せっかく考えてくださったお仕事なのに、私にできなかったらどれだけの不興を買うでしょう。そんなこと、あってはならないわ。
「お水が重いということですよね? 頑張ります。いえ、できます。こう見えて力持ちなのです!」
右の拳をぎゅっと握りながら上げ、左手で上腕に触れました。平均的な女性より細い自覚はありますけれど、マリーノ家で働きながら得た筋肉なら水桶も運べるはずです。
「ふっ……。あ、いや失礼しました。ええそうですね、水のたっぷり入った桶を運ぶのは大変ですから。以前は草花の育成も手ずからやるのだとおっしゃった奥様のために、魔道具があったのです。ええと、あ、これですね」
マッテオさんが作業机の下の箱から取り出したのは小さいじょうろでした。何の変哲もない、とは言い難いですけれど。だって普通ならじょうろに施されるはずのない精巧な細工があって華やかな見栄えですし、それに水が入るであろう部分さえとっても小さいのですもの。
「これを使ったら温室の水やりはいつまでも終わりそうにありませんね……」
「ふふ、そう思いますでしょう。でも魔道具ですから。こちらのボタンを押している間は、水を補給する必要もなく延々と新鮮なお水が湧き出ていたのですよ。今はもう、壊れてしまいましたが」
「魔道具だなんて初めて見ました」
精霊の加護を持つ人々は加護魔法を物に作用させることができる……人もいるのだと聞いたことがあります。それができる人は多くなく、だから魔道具は希少で高価なのです。
差し出されたその魔法のじょうろを受け取って、矯めつ眇めつ眺めます。やはりこれも磨かれなくなって久しいようですが、精緻な細工はそれでも美しく。前公爵様の夫人への愛が表れているように思えます。
「こちらの水やりを終えたら朝餉といたしましょうか。本日はわたくしも一緒に水やりをさせていただきます」
「そんな! マッテオさんはお忙しいのではないですか? 水やりなら私だけでも……」
言いかけて、でももしかしたら監視かもしれないと思い至りました。
壊れているとはいえ高価な魔道具もありますものね。伯爵家の娘の嫁入りだというのに荷物はほとんどなく、小さな馬車一台でこちらへ参りましたから。何か事情があることは察しているでしょう。
「では、お願いします」
「ええ、ふたりでさっさと終わらせてしまいましょう」
ニコニコと頷くマッテオさんに魔道具を返そうとしたとき、なんとなくボタンをカチカチと押してみました。どうしてそうしたか、というのは自分でもよくわかりません。強いて言うなら好奇心でしょうか。押し心地が気になった、というような。
けれど魔法のじょうろは筒の先の噴射口から水を出したのです。いくつも開いた小さな穴から、ふわりと風に舞う噴水の水のように。
「え?」
マッテオさんとふたりで顔を見合わせ、もう一度ボタンを押します。やはり水が出て私たちの足元を濡らしました。
「直った、のでしょうか」
「ちょっと拝借」
魔法のじょうろを引き渡し、今度はマッテオさんがボタンを押しました。けれどもそれはうんともすんとも言わなかったのです。