第39話 すべては自分が元凶だったらしい
しばらく自室で横になっていたものの、ソファーで仮眠をとったせいか眠気はなくなっていた。今日はゆっくり休むよう言われているため城に戻るわけにもいかないし、気分転換をしようと庭へ。
ぼんやり歩くうちに俺の足は温室へと向かっていた。ガラスの戸を開けて中へ入ると、重さが感じられそうなほど濃厚な薔薇の香りに包まれた。アリーチェの香りだ。そう、今の俺にとって花の香りはもはや母の香りではなくなっているのだと思い知らされる。
奥に設えられたティーテーブルも、その上に置かれた茶器も、長らく放置されていたとは思えないほど綺麗に磨かれている。表面をそっと指でなぞってから椅子に腰かけた。
そう言えばここでアリーチェに水を掛けられたのだったか。あの時の彼女と言ったら、怯えているのか恐れを知らないのかさっぱりわからなかった。思い出すたび笑ってしまう事件だ。
折れそうなほど深く頭を下げた幻のアリーチェの姿に笑みを浮かべていると、ディエゴの声が不意に耳を打った。
――あんたパーティーでミリアム助けたろ、あれで一目惚れしたんだってよ。
ディエゴは動機について語る際にそんな言葉で話を始めた。
公爵夫人の座を渇望したミリアムは、加護無しのアリーチェがマリーノに戻れば夫として伯爵家に入れる、とディエゴに話を持ち掛けたらしい。
つまり、俺が原因だったのだ。俺のせいでアリーチェは危険な目に遭ったということになる。
ミリアムがそうなるべきだとアリーチェに言ったという話は聞いていたし、ミリアムとディエゴに深い繋がりがあることもわかっていた。もっと事前に対策できたはずだ。一歩間違えたら、俺は彼女を失ってた!
最近ようやく多少なりとも眠れるようになっていたのに、この2日間まるで眠れなかったのはこのせいだと思う。
頭痛を感じて眉間を揉んだとき、温室に冷たい空気が入りこんだ。誰か来たのか、戸が開いたようだ。顔を上げると、薔薇の陰から艶やかな黒髪が見えた。
「ジョエル……様? すみません、いらっしゃると思わなくて」
「ああ構わない。茶を淹れようと思ってたんだ、君もどうかな」
「えっと、はい。いただきます、ていうか私が――」
走り寄りポットに伸びた華奢な手を押しとどめる。椅子を勧めると、アリーチェはおずおずと対面へ腰をおろした。
小さなヤカンを火にかけると、視線をさまよわせていたアリーチェが思い出したように「あ」と囁く。
「ジョエル様の懐中時計飾りをお借りできませんか? 魔石ではなく自分の魔力で作動するように書き換えようかと。えと、石を、交換したくなくて……。あっ、いえ、あの、宿題なんです、コレ」
言われるがままに飾りを外して渡す。
エリゼオ・ロヴァッティはファウスト勲章を授与されるだけあって付与術士としての腕は一流だが、何を考えているかわからない男だ。アリーチェのことは大切にしているらしく、仕事ぶりも丁寧……この防御魔法にしたって、元々俺が記述したものよりいくらか改善が見られたからな。
アリーチェが怪我ひとつなく無事に戻って来られたのは、彼のおかげかもしれない。そう思うと悔しさと恐怖とが胸を苛む。
「宿題か。ロヴァッティ卿は、変わりなかったか? 紳士的に……おい、どうした」
懐中時計飾りを裏返して、記述を書き直す作業をする彼女の瞳から水滴が落ちた。瞬間、頭が真っ白になる。
「この防御魔法、いりますか……?」
「どういう意味だ? 無かったらもしもの時に困るだろう」
みるみるうちに、テーブルが涙で濡れていく。アリーチェは俯いたままで細い肩を震わせていた。
「この飾りを通じて私の身の危険が知らされたとして、未来のジョエル様は私を助けてくださるのかなって……ごっごめんなさい、なんでもありません、忘れてください!」
「助けるに決まっ――おい、アイツに何を言われた?」
未来のジョエルという言葉で、アリーチェが俺の事情を全て知っているのだとわかった。
すぐにもエリゼオを追いかけてぶん殴ってやりたい。余計なことを言いやがってと。だが、そんなことをする権利が俺のどこにある。
「すみません。ロヴァッティ伯爵は私を心配してくださっただけなので」
ヤカンがカシュカシュと音を立てる。エリゼオを殴りたくて握った拳をゆっくり開いて、深く息を吐いた。
ポットに湯を注ぐと、中で茶葉が踊った。ここで茶を淹れたのはもう何年前になるだろう。
「詳しいことは言えないが、マリーノ伯爵家は無くなるだろう。君はマリーノに戻るか?」
「……え?」
顔を上げてこちらを見たスミレ色の瞳は涙に濡れ、朝露をこぼす花のようだ。簡単に潰れ、萎れてしまう花。
「俺の立場や仕事を思えば、今後も君が危険に晒されることは少なくないだろう。もしこの婚約を破棄して女伯爵として生きるなら、俺もできる限りの助けを――」
「どうしてそんなことをおっしゃるんですか? ジョエル様が守ってはくださらないの?」
その俺のせいで危険な目に遭ったというのに!
不安そうに、だが真っ直ぐにこちらを見つめるアリーチェには、全てを話すべきなのだろう。いかに自分が身勝手であるかを。




