第38話 全部忘れてしまうのだそうです
寝起きだからか、ジョエル様は少しだけ不機嫌なお顔で自室へ向かいました。私とロヴァッティ伯爵は応接室へ行って付与術の授業です。
「嫌な事件でしたが、アリーチェ嬢がご無事でお戻りになって何よりです。今日も素敵な笑顔が見られて安心しました。公爵閣下の魔法が役にたったようですね」
と、部屋へ入るなりあたたかな言葉をいただきました。
「はい、伯爵のご指導のおかげでもありますね」
「その魔石はもう使い物になりません。新しいものに替えるか、」
「あ……これ、このままつけていたいのですが」
「そうですか、では術式を発動するための魔力をご自身の体内から得る方式に書き換えましょう。やり方は今お教えしますから、公爵閣下の持つ片割れは貴女が書き換えておくように。宿題です」
できるかしらと不安になりましたけど、できるできないではなくて、しっかり自分のものにしないと恩返しなんてできませんからね。強く頷いて教えを乞います。
授業が終わり、後片付けをしているときでした。ロヴァッティ伯爵は底の見えない不思議な魅力の瞳を細めて、こちらをご覧になっていました。
「公爵閣下に言われて授業の速度を上げていますが、問題はないでしょうか?」
「ええ、はい。大丈夫です」
「付与術は貴女にとって強力な武器となります。もうご実家を恐れることはないし、先日のような事件だって日頃より準備をしておけば敵を制圧することもできます」
それはその通りでしょう。今回は防御魔法を付与したネックレスしか持っていませんでしたが、攻撃型の魔法を付与したものを持ち歩いていれば、加護魔法そのものを使えなくても問題ないのですから。
もっと熟練度を上げれば、付与術に必要な特別なインクさえ使わず、その場にあるものだけで難局を乗り切れるようになるかもしれません。
「はい、研鑽を重ねていきたいと思います」
首肯する私に満足そうに頷いて、ロヴァッティ伯爵は扉のほうへと手を向けて私を促しました。
「そうですね。さすれば、いずれ公爵家を離れる日が来ても何も怖くはありませんよ」
「公爵家を離れる?」
「ご存じなのでしょう、彼が感情を封印していたことを? そして封印が解けかけている今、再封印を考えていることも。最近、ほとんど眠れなくなっているのも封印が解け始めたせいだと」
「あ……」
彼の言葉を否定はできません。先日おふたりが話しているのを立ち聞きしてしまって、封印が解けかけているのはわかっているつもりでした。
そう言えば、ジョエル様がうなされていたときにも、寝言でお父様を呼んでいたのではなかったでしょうか。8歳の子どもが両親を失って、耐えきれず記憶と感情を封印した……。時間をかけて消化したわけではないその記憶に、ジョエル様はいま苦しんでいらっしゃるのです。
足を止めたロヴァッティ伯爵が言葉を続けます。
「貴女がたの婚姻はあくまで君命によるもの。フォンタナが存続すれば目的は達成となります。その際、貴女は平気でいられるのですか? 心を寄り添わせるもののない人生で、ただひとり立ち続けることができると?」
彼は私がこの屋敷から逃げるはずだと言いたいようです。けれど、それは私の気持ちを慮ってくださっているだけで、本当に言いたいのは「追い出される」可能性についてかもしれません。
もしもジョエル様が感情をすっかり封印してしまったら、私をここへ置いておく情けさえ無くなるかもしれませんからね。
「そうなってみないと、なんとも」
「以前も申し上げましたが、彼は人を愛せない。愛せなくなります。貴女と過ごした日々、例えば先ほどのような仲睦まじい様子も、感情とともに不必要な記憶として再封印することとなるでしょう。記憶は邪魔になりますからね」
ハッとしました。その可能性についてはまるで考えていませんでしたから。
そう、ですよね。記憶は感情を呼び覚ますものです。私に対して情を持ち得る記憶は、きっと封印してしまうのだと思います。一緒にお花を飾ったり、お墓参りに連れて行ってくださったり、それに金真珠を贈ってくださったことも。
俯いた私の肩に、ロヴァッティ伯爵の手が置かれました。
「私は貴女の力になりたい。今後も支えていきたいと思っています。だから、もう公爵閣下を見つめるのはおやめなさい。貴女にそんな悲しい顔は似合わないから」
「あり、がとうございます。私は、大丈夫です。彼が忘れてしまっても、私が覚えていればいいから」
忘れてしまっても。そう言葉にするとこらえていた涙が溢れてしまいました。頑張って我慢してたのに!
ロヴァッティ伯爵に深く頭を下げて、この場を失礼することにしました。もうほんの少しでさえ、ここにはいられません。こんな情けない顔を誰かに見られたくない。
「すみません、今日はこちらで失礼させてください。また次回よろしくお願いします」
「私なら貴女を泣かせたりしませんから!」
ドアハンドルに手をかけた私の背に、ロヴァッティ伯爵の声が。
私の知るジョエル様も、私を泣かせようとは思わないはずです。でも、彼は私の知る彼ではなくなることを望んでいる……。それが悲しくて、もはやロヴァッティ伯爵に何を言われても今はちゃんと受け止めることができません。
背を向けたまま頭だけでご挨拶をして、応接室を飛び出しました。そのままどこか、誰もいないところに行ってしまいたくて、私は庭の奥の温室へ向かうことにしました。




