第31話 いろいろマズイです
カーテンの隙間から入る光に目を覚ましました。頬に触れる清潔なシーツの感触と、温かなものが背中を包む心地よさにもうひと眠りしようか悩みます。
部屋の外は静かでまだ誰も起きていないようですし、二度寝する時間はあるはずで……。
え、いえ、えっと。
背中が温かいのはどうしてでしょうか。手が握られている感触に意識を向けるべきか、それとも現実逃避すべきでしょうか?
ゆっくり恐る恐る背後を振り返ってみれば、朝日に煌めく白銀色の髪が見えました。やっぱりぃ……。
昨夜どうにも寝付けなかった私は少し身体を動かそうかと庭に向かったのです。いえ、向かおうとしたのです。中央の階段までやって来たところで、暗がりをふらふらと歩く人影があることに気づきました。
それはもちろんジョエル様で、おやすみなさいの挨拶くらいはしたいなと思って、そしたらなんだか様子がおかしい気がして、それでえっと手を伸ばしたら捕まってしまって……それからどうしたんでしたっけ。
確か首元にお顔を埋めて「花の匂いがする」とかなんとかおっしゃって、いやいやジョエル様はお酒の匂いがしますけどーって思って、だから酔っぱらってらっしゃるんだわってわかったんですけど。
足元がふらついているのでとにかくお部屋まで行きましょうって言ってベッドまでお連れしたんです。そうです、そしたらギュッて抱きっ抱き締めっだっ抱き締められて!
思いだしたらまた心臓が爆発しそうなくらい動き始めましたーっ! 暑いけど動いたら起こしちゃいます、どうしよう、どうしましょう!
いえいえ、焦っている場合ではありません、どうにかしてここから抜け出ないと。まずはこの私の体を横断するように被さり、私の左手を握るジョエル様の左手をですね……そーっと、そーっと。
ジョエル様の手をどかしながら少しずつ移動する計画です。と言っても彼は私の左手を握ったままなので、どうにもならないのですけど。
横向きから仰向けにと身体を転がしている途中で「ん……」という吐息のような寝言のような声が聞こえまし……きゃあああああっ!
左手の枷はそのままに、ジョエル様の腕が私の体を掻き抱いて引き戻されました。ぬいぐるみのような扱いですし先ほどの努力が無に帰してしまいました、はい。
先ほどよりも近くなったジョエル様の胸が、規則正しく上下しているのがわかります。そういえばぐっすりお眠りなのですよね、よかった。
さらにぎゅっと抱き締められて、頭のてっぺんにジョエル様の息がかかります。左手は私の手を握ったままお腹をぎゅっと抱き寄せていて、ああもう!
私は緊張と恥ずかしさで指先ひとつ動かせません。ジョエル様が起きたらどんな顔すればいいかわからないし、誰かが起こしに来てもどんな顔すればいいかわからないし、もうホントに……。
「アリーチェ……」
「ひゃっひゃいっ?」
名前を呼ばれたのは寝言だったようで、すぐにまた規則正しい寝息が聞こえてきました。聞こえ……いえ、深く長いリズムが少し浅くなったような気がします。これはもしかして。
「……アリーチェ? は? アリーチェ?」
「はい……アリーチェでございます、おはようございます……」
ガバっと起き上がったジョエル様がまじまじとこちらを見下ろします。なんだか既視感がすごい!
「なんでここに……あ、いや、すまない。俺か……」
ジョエル様は自分の左手が私の左手を握ったままであったことに気づいたのか、パッと手が離れました。朝の冷たい空気が私の手を冷やしていきます。
私たちの間に横たわるこの雰囲気がいたたまれなくて、それに以前のように「出て行け」と突き放されたら耐えられない気がして、急いでベッドを出ます。言われる前に出て行くのが最善だと思うので!
「すぐ、出ますからっ」
「待っ――」
ベッドから降りて扉の方へ歩き出した私の手を、ジョエル様が掴みました。後ろへ引っ張られる感覚によろけたものの、力強い腕がそれを支えてくれます。
自分の足でしっかり立つと、彼の腕も離れていきました。何も言わないジョエル様を振り返って何事かと問います。
「ジョエル様?」
「あの、申し訳ないことをした。ただ、その、久しぶりに深く眠れたと思う。感謝する」
肩につくかどうかという長さの白銀色の髪が、俯いた彼の顔のほとんどを隠しています。けれどその隙間に見える目元や耳が赤くなっていました。
彼の言葉とその薔薇みたいな色とが、ひりついた私の胸を温かく包んでいきます。
「えと……」
なんと返事をするべきか逡巡したそのとき、部屋の外が騒がしくなったことに気づきました。特にエレナの叫び声が響いています。続いてマッテオの慌てる声。そして、バタバタと走り寄ってくる足音。
私とジョエル様の目が合いました。ベッドの上で膝立ちになるジョエル様と、ベッドの脇で立ちすくむ私。これってもしかして、まずいのでは?
マッテオはノックもそこそこに「失礼します!」と扉を開けて入って来ました。その背後にはエレナの姿もあります。
慌ててベッドから降りたジョエル様が私を背に隠すように立ちましたが、何もかも、手遅れでした。
「だっだっ旦那様っ! ままままままままだ、まだ婚姻前のお嬢様を……っ!」
「違うっ! それは違うぞマッテオ!」
エレナは顔を赤くしてマッテオの後ろから私とジョエル様とを見比べています。ふたりとも完全に誤解してるんですけどーっ!
「婚姻の儀はまだふた月も先でございます! もし、もし、稚児が早くお生まれにでもなったら!」
「だから違う、誤解だと言ってるだろう!」
いつも物静かなジョエル様の叫び声が屋敷中にこだましました。




