第30話 花に罪などないのに
「なんだ、これは」
日が変わった夜更けに屋敷へ戻り、残務処理のため真っ直ぐ執務室へ向かったのだが……扉を開けると同時に肺を満たす花の香り。
――あら、ジョエル。剣術の練習はもういいの? お父様はお仕事で出掛けてるわ。お花を飾るのを手伝ってくれる?
開け放たれた窓、舞い踊るカーテン、光を受けながらこちらに微笑みかける母、揺れるストロベリーブロンドの髪。そんな過日の思い出を幻視してしまった。
封印から漏れ出た記憶も刺激がなければ思い出すまいに、香りは記憶を強く揺り起こす。
「チッ……!」
ぐるりと室内を見渡すと、机の片隅にそれはあった。背の低い小ぶりの花瓶だ。
くそっ、勝手なことを!
机に向かい、叩き落とそうと腕を振り上げたもののそれ以上動かすことはできなかった。
アリーチェが悪いわけではないし、花に罪などない。
振り上げた手を握って机に叩きつけた。と、焦ったようなノックの音が響く。夜食の準備を命じていたマッテオが来たのだろう。
引き出しからいくらかの書類を引き抜き、乱暴に扉を開けるとマッテオが気遣わしげに俺を呼んだ。
「書斎へ行くから夜食はそちらへ。あの花は……どこか別の場所へよけておいてくれ」
「かしこまりました。それから旦那様、アリーチェ様の――」
「なんだ」
いま彼女の名を聞きたくはなかった。
以前の俺ならすぐにも叩き起こして、剣で脅してでも余計なことはするなと言ってやるところなのに。怯えさせたくないとか、自由にしていてほしいとか、そう思ってしまう自分が恐ろしいのだ。
「社交を禁じられていたかと存じますが、アリーチェ様の外出について今後はいかがいたしましょうか。なんでもオススメの洋菓子店があるとミ……」
「ああ、噂は噂にすぎんとよく理解したから好きにさせて構わない。外に出ることも彼女には必要だろう。だが、護衛だけはしっかりつけておいてくれ」
外へ出て、花を飾ることを一時でも忘れてくれたらいい。真面目な彼女のことだからそんなことはないのだろうが。
いくつかの扉を通り過ぎて書斎へ入る。
最初に目に飛び込むのは白い布をかけた肖像画だ。もう布をとることはできない。乱暴に絵を後ろに向けて、父の愛用した椅子へ掛ける。
父が愛用した、か。と自嘲しながら手にしていた書類を広げた。仕事に没頭しているときだけは、忘れたいことを忘れられる。
ファビオ王子殿下の差配によるマリーノ港に関する調査はそれなりの成果を見せていた。不認可船によってもたらされているのはやはり禁制品である火薬式銃器だ。マリーノ家はその密売によって不当な利をあげている。
その対価として港から船に積み込んでいるのは金ではなく、魔石と……人間だった。殿下曰く禁制品を売りさばくのが最も手軽なのだろうと。魔石は盗品だし、国内に人間を買う人間はほとんど存在しない一方で、火薬式銃器の需要だけは後を絶たないから。
「売られた国民の捜索および救出は引き続き殿下が当該国家と連携して行う……。マリーノが対価として提供する魔石の出どころも殿下が調査を続ける、か」
届けられた夜食も目の前にしてしまえば食欲など消え失せ、書類をめくりながら頭の中を整理していく。
不認可船は数週間に1度のペースでしか現れないため、次に寄港する際に踏み込みたいところだが、相手がマリーノである以上、俺に捜査権はない。
こちらに任された事案といえば、行方不明者の捜索および犯人の調査だ。犯人と目される輩のアジトに潜入させていた部下の報告によると、頭目はディエゴ・カッターニ。カッターニ子爵家次男でミリアム・マリーノの元恋人だ。
ふたりの関係を考慮すれば行方不明者がどうなったか考えるまでもないし、彼らが禁制品を持っているらしいという噂も信憑性が高まる。ただ、犯人グループにとって新人である部下は動きが制限されており、中枢に近づけていないのが実情だ。
今のところは特に目立った動きのない日が続き、火薬式銃器も現物を確認できないままで調査は行き詰まりを見せていた。
ただ……今日入った最新の情報によると、ディエゴはミリアムと密会していたらしい。何か行動を起こす前兆と考えるべきだろう。
つまり、以前の夜会で奴らの痴話喧嘩を仲裁したのは骨折り損だったというわけだ。くそったれが。
書類を置いて席を立つと、棚からグラスと酒瓶を取って戻る。琥珀色の液体がグラスを満たし、鼻腔の奥に微かに残っていた花の香りが掻き消えた気がした。
酒がなくては眠れなくなってしまったのはいつの頃からだったろうか。最近では、飲んだところで悪夢にうなされてすぐに起きるばかりだが。
いつもいつも、夢の中で俺は崖を転がり落ちる馬車を見下ろしている。手を伸ばしても何にも届かず、叫んでも誰の返事もなく、ただ嗚咽とともに父母に許しを乞うばかりだ。
気が付けば上も下もわからないような闇の中にいて、両親を求めてさまよい歩く。永遠にそれが続くのだと夢の中の俺は理解しながら、それでも歩き続ける。
「少し飲み過ぎたか」
深く息を吐いて書斎を出る。
自室へ戻って横にならなくてはならないのに、それが嫌でダラダラと飲み続けてしまった。執務室から続く私室に花の香りが入り込んでいなければいいなどと、余計なことを考えたのもよくなかった。
疲労と寝不足がたたって思っていたより酔いが深い。足のふらつきに悪態をつきかけたとき、どこからか花の香りが漂ってきた。
「ジョ……ジョエル様? 大丈夫ですか?」
明かりを落とした廊下で、ふたつのスミレ色の花が煌めく。腕に触れた手は温かく、俺は思わずその手を握ってしまった。




