第3話 置いてもらうためには仕事が必要です
フォンタナ邸へ来て一夜が明けた朝。私はエントランスで侍女のエレナさんと対峙しています。
彼女が困ったように眉根を寄せているのは、どうやら私が掃除道具を持ち出しているからのよう。
「これから朝のお支度にお伺いするところでございましたのにぃー」
エレナさんはメイドと見紛うような私の古い濃紺のワンピースに視線を走らせ、小さく息をつきました。
私だってできることならまだまだ眠っていたかったです。手足を伸ばしてもまだまだ余裕のあるふかふかのベッドはとっても気持ちがいいんですもの! でもそんな怠惰なことは言っていられませんし許されません。
「私は婚姻の儀が無事に執り行われるまで、ただの居候にすぎないのです。何かご恩返しをしなければ、お世話になることはできません」
「そうおっしゃいましても……。アリーチェ様は公爵夫人となられるお方でございますッ。公爵家、そしてアリーチェ様に仕えるわたくしどもの仕事を取り上げられては困りますわ!」
「わ、私がお借りしている客室を掃除するだけです。あの、皆さんのお仕事が始まる前には道具もお返ししますし。それから私、お掃除もお洗濯も、野菜の下拵えだってできますから、だから」
迷惑をおかけしない範囲で、自身の食事と寝床をいただく分だけでも働かなければ。マリーノ家で私が生きるためにはそうする必要がありましたし、それに私はここを追い出されるわけにはいかないのです。
もうあの家に居場所はないのだと、そう言われてこちらへ来ていますから。
「お言葉ではございますが――」
「なんの騒ぎだ」
冷ややかな声に顔をあげれば、家令のマッテオさんを従えた公爵様が階段から降りていらっしゃったところでした。
気が付いてみればハウスメイドの皆さんも少数ですが顔を覗かせています。お仕事の時間が近いのかもしれません。
「あのッ、アリーチェ様が客室の掃除をなさりたいと」
私の手元に注がれていた公爵様の視線が私の顔を一瞬だけ経由して、扉へと向けられます。
「わざとらしく善人をアピールするな、無意味だ。……マッテオ」
「はい」
公爵様が歩き出し、マッテオさんが外套を手に従います。
「お出かけですか」
私の問いかけに公爵様からの反応はありませんでしたが、マッテオさんがお顔だけこちらへ向けて頷かれました。それでは私もお見送りをと、後へ続きます。
見習いと思われるお仕着せ姿の少女がこちらへ駆け寄って、掃除道具を受け取ってくれました。こうなってしまっては今日の掃除は諦めざるをえませんね。
屋敷を出ると冬というには暖かく、けれども長く外にはいられないほど冷えた晩秋の朝の風が吹き抜けます。
私はマリーノ家でそうしていたように、馬車へ乗り込んだ公爵様の横顔へ頭を下げました。
「公爵様のご活躍とご無事をお祈りいたします。お気を付けて行ってらっしゃいませ」
ほどなくして御者の掛け声とともに馬車の動きだす気配があり、私はゆっくりと顔を上げます。
窓の奥にある公爵様の瞳がこちらを見ていたような気がしたのですが、すぐにその姿は見えなくなりました。
「公爵様はこんなに朝早くからお仕事でいらっしゃいますか?」
私の問いにマッテオさんがにこやかに返答をくださいます。
「ええ。今日は会議ののち王都の外まで足を延ばすのだそうですよ。なんでも、禁制品の銃器を用いて民を蹂躙する輩の討伐だとか。ですからお帰りも遅くなるかと」
「お忙しいのですね」
「明日の朝食はご一緒に召し上がれるかと存じますよ。……それで、先ほどの騒ぎは一体?」
マッテオさんが笑顔を引っ込めて問うと、エレナさんは言葉を選びながら簡潔に説明してくださいました。
ああ、もしマッテオさんにまでお掃除を止められたらどういたしましょう。ここへ置いていただくための条件を確認させていただかなくては。
なるほどと頷きながら息をついたマッテオさんは、扉を開けて身振りで屋敷の中を指し示しました。
「ここは冷えますから、先ずは中へ入りましょうか」
首肯してエントランスへ戻ります。
ピカピカに磨かれたエントランスは掃除の必要さえ無さそうに見えました。お客様にお待ちいただく応接セットなどの調度品も立派で華やかです。
なのにこの寂しさはなんでしょう。寒々しいというか、物足りないような印象があります。
エントランスホールの中心あたりまで歩を進めたとき、背後からマッテオさんに呼び止められました。
「アリーチェお嬢様、大変申し上げにくいのですが」
「はい」
「屋敷内に花を飾っていただいてもよろしいでしょうか」
「お花、ですか?」
周囲をぐるりと見渡します。
ああ、そういえばエントランスホールにはお花がないのです。それが無機質な印象を与えるのだわ。
「ええ。旦那様の私室および執務室を除き、どちらに飾っていただいても構いません。それからもうひとつ。温室の植物に毎朝水をやっていただきたいのです。それが、アリーチェ様のお仕事……ということでどうでしょう」
「そんな、そんなことでよろしいのですか」
「そんなことだなんてとんでもない! 屋敷の飾り付けは『家』の、ひいては『主』の印象を決める大切かつ重要な仕事でございます。それに温室は――」
エレナさんがそっとジャケットの裾を引いて、マッテオさんは口を噤みます。私に聞こえない声量で一言二言お話をすると、おふたりともニッコリと笑いました。
「今日はアリーチェ様も忙しくなりますよ」