第28話 ばかみたい、ばかみたい、ばかみたい!
扉を開けて入っていらっしゃったのはジョエル様です。ロヴァッティ伯爵は笑みを深めて「おや」と声を掛けます。
「ノックもなしに飛び込んでいらっしゃるとは、随分と……人間らしい反応ですね」
「授業時間はとうに過ぎている。まさかまだ残っていたとはな?」
「おやおや! あまりに楽しかったものですから、気付かずに時間をオーバーしてしまったようです。申し訳ありません、アリーチェ嬢」
「だっ、だいじょうぶです」
右手を胸において丁寧に頭を下げる伯爵に、私は焦るばかりです。少々長引くことは今までもありましたし、教えていただいてる身でとやかく言うわけにもいかないですし。
「ちょっといいか、ロヴァッティ卿」
「え? ええ、もちろんです。それではアリーチェ嬢、次回からは付与術の基礎を学んでいきましょうね。ごきげんよう」
「はい。ごきげんよう、伯爵」
伯爵が私に背を向けてジョエル様の方へ向かうと、ふたりそろって部屋を出て行かれました。大事な話でもあるのでしょうか、私の勉強の出来についての確認だったらどうしましょう……!
不安になってつい耳を澄ませてしまったりして。
「馴れ馴れしく呼ぶな」
「アリーチェ嬢のことですか? 思いのほか狭量なのですね、閣下は」
「マナーの問題だろう」
……聞かなければ良かったです。ただのお喋りでした。
この後は自室に戻って復習をして、それからランチというルーティンになっています。午後はダンスのレッスンですしボーっとしている暇はありません。
さっさと片付けて部屋に……あら。ころころと丸っこい可愛らしい形のペンがテーブルの隅にあります。これはロヴァッティ伯爵の付与術用のペンですね。
お持ちしないときっとお困りになることでしょう。まだ屋敷内にいらっしゃるといいのですけど。ジョエル様がちゃんと引き留めてくれていますように!
祈りながら応接室を出てエントランスホールへ向かいますが、おふたりの姿は見えません。まさかもうお帰りになっちゃっ――。
「……にはどれくら……」
微かに聞こえてきたのはジョエル様の声です。もう一度耳を澄ませて、声のする方へ行ってみましょう。方向からすると恐らくサロンだと思うのですが。
「随分と焦っていらっしゃる。それは記憶に苦しめられているからですか? それとも彼女を」
「詮索は無用だ」
「お急ぎなら私が対応してもよろしいのですよ?」
ううう。聞いちゃダメだってわかってます。耳塞ぎます。でもつい聞いちゃうー!
精霊様……欲に勝てない私をお許しください……。
でも、でももうサロンの前まで来ましたから。何食わぬ顔でノックすれば大丈夫です。もう聞きません。落ち着くのよ、アリーチェ!
さぁ息を吸って。手を握って。
「今回は万全を期したい。再び封印したら二度と記憶も感情も戻らないように」
「であれば属性の合致するアリーチェ嬢が付与術を完全に理解するのを待つほうがより確実となりますね」
え……? 封印、ですか。
ノックのために上げたはずの右手が、扉に触れる前にピタリと止まりました。
「だから、いつになるかと聞いているんだ。彼女はバカではないだろう、そう時間はかからないのでは?」
「そうは言っても――」
ロヴァッティ伯爵の言葉が途中で止まり、辺りに静けさが落ちました。世間話でもしているのでしょうか、どこか離れた場所からメイドたちの囁き声が聞こえます。
ただの勘に過ぎないのですけど、サロンの中の空気がざわりと動いた気がして、私はその場を離れました。
なぜかそこにいてはいけない気がしたのです。
振り返らず走って、走って、走って。部屋へ戻るとまたベッドへと飛び込みました。後頭部で揺れた髪飾りの重さが、今は無性に切なく感じます。
ジョエル様が記憶と感情を封印していることは、王子殿下から聞きました。でもロヴァッティ伯爵の口振りから察するに記憶が、恐らく感情も、戻りつつあるのだと思います。
それをジョエル様は再封印したいとお考えだということ、そのためには私の力が必要であるということがわかりました。
なんででしょう、涙が溢れて止まりません。
私は愚かにも、ジョエル様が時おり見せる優しさの奥に、好意があるんじゃないかって心のどこかで考えてました。多くを求めるなって言われていたのに、王子殿下が言うようにジョエル様の気持ちを変えられるんじゃないかって。
でもそうじゃなかった。
優しいのは付与術士となる私の機嫌をとるため。防御魔法をくださったのは万に一つも付与術士の身に何かあってはならないため。
すべて、開きかけた心をまた閉ざすためだったんです。
「うわぁぁあああん」
子どもみたいに泣きながら、ぶつける先の無い感情を乗せて手足をバタバタと動かして。
ばかみたい、ばかみたい、ばかみたい! 好きになっちゃダメだってわかってたのに!
振り乱した頭から、髪飾りがこぼれ落ちました。枕の脇に転がったそれを手にとると、銀細工の花びらに涙が落ちて淡く光ります。
身体を起こして髪飾りを胸に抱き、深呼吸をひとつ。
確かに私はバカだと思います。注意してもらっていたのに、まんまと好きになってしまった。できればこのまま心を開いてくれたら、もしかしたらって一層バカなことを考えてしまうけれど……。
悪夢にうなされるジョエル様を知ってるんです、私は。日に日に疲労が増していく姿を見ているんです、私。
封印しないでだなんて、どの口が言えましょうか。
「ジョエル様……」
小さく名前を呼ぶと、また目元が熱くなって視界がぼやぼやになってしまいました。




