第2話 予想外ではあったが影響はない
書斎へ入るなり、棚から琥珀色の液体の入った瓶を手に取った。
ここは亡き父が使っていた部屋で、今は使われていない。疲れを感じたときにここへ来て、家族の肖像画を眺めながら酒を飲む場となっている。
疲れ。そうだ、いくら君命とはいえ、とんでもない女をフォンタナへ招き入れてしまった。アリーチェ・マリーノと言えば、我が儘で男狂いで狂暴、さらに金遣いが荒く派手好きと有名ではないか。
「君命である以上、誰だろうと構わんとは言ったがまさかあの女とは」
「しかし噂と印象とはかけ離れていますね」
家令のマッテオがグラスを準備しながら言った。
両親のいない俺にとって初老のマッテオは親みたいなものだ。
確かに、先ほど会ったアリーチェに派手好きという言葉は似つかわしくない。外出着ではあるが、結婚相手の家へ向かうにはシンプルだし意匠も古いと言えるだろう。
「初日くらいは慎ましくしろと言われているんだろう。侯爵家の令息に水を掛けるような女が、そうそう大人しくなるとは思えん」
「アリーチェ様が社交と距離を置くのは、それがキッカケでございましたね」
5年前のことだったか。彼女は社交界へのデビューの直前に、侯爵子息に水を浴びせかけるという事件を起こしている。それまでの行いもあって、両親は半永久的に彼女を社交界へ出さないことに決めたらしい。
「社交の場に出て来ないにもかかわらず、彼女の悪い噂が落ち着いたことはない。1週間ともたずボロを出すだろう」
「そうでしょうか」
「家政は今後もマッテオに任せる。公爵夫人として必要な品位保持費は予算の通り使わせて構わないが、」
言葉を切って椅子に腰かけ、琥珀の液体をグラスへ注ぐ。複雑なカッティングのグラスを満たしたウイスキーは、本物の宝石に似た輝きを帯びた。
「社交の場への参加は禁止。当家で茶会を催すこともだ」
「それでは時間を持て余してしまうのではないでしょうか」
「刺繍も読書も乗馬もあるだろう。そこまでしてもあれだけの悪名だぞ、事件をもみ消す準備をしておくほうが現実的だ」
グラスの中の液体を一気に喉に流し込むと、喉から胃までがキュっと熱くなった。
息を深く吐いて、再びグラスを満たす。
「確かに、違和感があるのは否めないんだがな……」
不健康なほど痩せた身体、手入れどころかあかぎれだらけの手、微かに怯えを乗せた瞳。
彼女のどこに、我が儘で男狂いで狂暴な派手好きという要素があるだろう。
椅子の背に深くもたれかかると机の上に無造作に置かれた書類が目に入った。国王陛下を経由してもたらされたアリーチェの釣書だ。届けられた日にもここで酒を飲んだ覚えがあるが、そのまま置き去りにしていたらしい。
名前、年齢、生年月日といった簡単なプロフィールに加えて家族構成や本人の能力などが記載されている。
「……洗礼時の魔力測定で『特』を記録していながら、精霊の加護がないなんてことがあるのか?」
「いえ、必要とされる効果を伴った加護魔法が使えないというだけで、少量ながら加護はお持ちのようです」
「効果がないのでは宝の持ち腐れじゃないか。だから男子のいない家の長女なのに外に出されたわけだな」
なるほどと頷いてグラスを口に運ぶ。
このフィージ王国において、いや近隣諸国も似たようなものではあるのだが、精霊の加護を持つ血筋というものがある。
簡単に言ってしまえば水、火、風、土という4つの精霊の子孫である4大公侯爵が王国を支えているわけだ。
我がフォンタナ一族は水の加護を持ち、国内の治水を一手に担っている。と言っても、実務は各地に散らばる分家が担い、俺は軍人として奉職しているわけだが。
一方マリーノ家は当フォンタナの傍系であり、内海を含む南側に領地を持っている。
精霊の加護を持つ一族は常に血統を守ることが優先されてきた。例えば隔世的に結婚相手を縁者から選んだり、女にも継承権を与えたりだ。
加護魔法が使えなければ素行も悪いとなれば、長女であっても嫁に出されるのは道理と言えるか。もし親の愛情不足故に素行が悪くなったとしたら、なんとも哀れなものだな。
「問題さえ起こさなければそれでいい。よく見張っておいてくれ。ああ、それから。魔石の調査はどうなってる?」
「確定的な情報はまだ。しかし北の鉱山で先月、かなり大きな原石が採掘されたとか。そちらの情報を追いかけているところです」
「可及的速やかに頼む」
「しかし旦那様、本当に再封印を? これから奥様をお迎えすることですし」
「関係ない」
小さく首を振って見せると、マッテオは肩を落として部屋を出て行った。書斎に静けさが広がる。
机の引き出しを開け、小さな箱を取り出す。なんの変哲もない木製の鍵付きの箱だが、その隙間から淡い水色の光が漏れ出ている。
この箱の中味は俺の心の一部だ。人を愛するという感情と、両親と過ごした記憶。
幼いうちに不慮の事故で両親を亡くした俺は、身を焼くような悲しみから逃げるがごとくそれらを己の内から切り離し、封印してしまった。
人付き合いに困らない程度の情のようなものは残っているし、生きていくだけならそれで事足りた。問題は、魔力不足で封印が不完全だということか。微々たるものではあるが漏れ出るこの光のせいで、昔よりも情け深くなっている自覚がある。
今度こそ完全に封印してしまわなければ。そのためにも、より大きな魔力を含む魔石が必要なのだ。
顔をあげれば在りし日の家族の肖像画が目に入った。
「まだ、大丈夫だ」
両親を愛しく思う心などないと、確認してこの部屋を出る。