第19話 時間はいくらも残されていないのだ
エリゼオを連れ、長らく使っていないサロンへと移動した。母が存命だった頃、仲のいい貴婦人を集めてはここで読書会などをしていたらしい。
中央のソファーに座るドレス姿の女性を幻視して、眉間を強く揉む。こういった、封じたはずの記憶が不意に蘇る頻度が格段に増えた。屋敷に漂う花の香り、せっせと花を飾ったり朝いちばんに庭を散歩したりするアリーチェ嬢の姿、誰かと会話しながらとる食事、そのどれもが記憶を呼び覚ます。
もう、時間がない。早く再封印してしまわなければ。
部屋の隅の小ぶりなティーテーブルを指し、エリゼオに座るよう促した。
「付与術士は加護魔法の効果を倍増させることができると」
「ええ。倍増というのは言葉の綾でして、熟練の付与術士であればいろいろな効果を付与できるでしょうね。威力を増すだけなら強化術士でいいのですから」
「俺が確認したいのはふたつ。上級魔法の行使に魔力量もスキルも不足するため魔石で補完したいと考えた場合に、どの程度の魔石ならそれが可能となるか? もうひとつは、付与術士がその魔石の代わりとなることはできるのか?」
エリゼオは腕を組んで瞳を閉じてしまった。深く考え込んでいる様子で、だがどこか楽し気で。
「結論から申し上げますと、どちらも可能でしょう。ただし、行使したいと考える魔法の規模によります。より安定を得たいのであれば付与術士の力を借りるのがよろしいかと」
「少し前に北部で見つかった魔石ならどうだ」
「かなり大きかったそうですね。実物を見ていませんのでなんとも。しかしあれは行方不明になっているのではありませんでしたか?」
「王都への輸送の過程で消えたそうだな。国を挙げて探してはいるが……」
時間はほとんど残されていないというのに、目星を付けていた魔石が消えるとは本当についてない。
北部の港では確認されていたはずだがその真偽も定かでなく、一体どこで紛失したのか見当もつかないため捜査は難航している。
エリゼオが狐のような瞳を細めた。
「そう言えばフォンタナ公爵閣下には心がないという噂があります。銀竜騎士団の仕事ぶりを見ればそれもむべなるかな、と思っていました。ですが実際にお会いしてみるとどうでしょう、貴方は――」
「戯言はいい。ロヴァッティ卿なら上級魔法の行使における補助もできるだろうか?」
「もしその魔法が、水の加護による『記憶と感情の凍結』であれば、そうですね、私の加護は水ではないのですが……まぁ不可能ではないでしょう。しかし、アリーチェ嬢のほうがより確実ですよ?」
俺に関する噂と上級魔法という単語とで俺の意図を正しく推測してきたか。彼の表情からは真意が読み取れないが、あまり敵に回さないほうがいいタイプの人間だ。
とはいえ、だ。
俺はテーブルの上に置いた右手を握って、なんとも言えない怒りに耐える。
「未来の夫の感情を封印するのを、妻になる女性に手伝わせろと? そんな残酷なことを」
「残酷とおっしゃいますか。彼女の知らぬところで感情を捨て、家を存続させる道具にするのは残酷ではないと?」
「……チッ。それが政略結婚というものだ」
「そのように苦悩するほど、感情が戻っていらっしゃる。だから焦るわけですね」
より確実な方法で再封印をしたいと考えていたが、ここ数日で幾度も起こった記憶の想起は、何が正しいのかを迷わせる。
本来なら、会って間もない人物にこのような相談を持ち掛けることもなかっただろう。それほどまでに、切羽詰まっているのだ。
今にも、あの日のすべてを思い出してしまいそうで。
「本日初めてお会いしましたが、わたしは彼女を好ましく思っていますから……もし閣下がアリーチェ嬢を傷つけるのなら、わたしがお慰めしましょうか」
「なんだと?」
「ふふ。封印後はそのように睨みつけることもなくなるでしょうね」
「子の血筋の正統性は担保されなければならない」
「もちろんです。わたしは精神的な支えになれればと申し上げただけでございますれば」
何か言いかけて、それはすべて溜め息にして吐き出した。
俺に文句を言う資格はないのだ。それに妻となる者が精神的に健康であるほうが、子どものためにはいいだろう。
「とにかく。確実に封印するのならアリーチェ嬢が適任なのだな」
「ええ。そのためには付与術について学ぶ必要がありますから、しばしお時間を頂戴したく」
「……いずれ離婚することがあっても、彼女が付与術士なら生きるに困ることはないだろう。しっかり教えてやってほしい」
「承りました」
その後マッテオを呼び、エリゼオと授業日程についての相談を任せた。淑女教育とダンスのレッスン、それに付与術の授業ときたらもうメイドの真似事をしようなどと画策する暇はなくなるだろう。
鼻腔を甘い香りが撫でた気がして、ふと上げた視線の先にはアリーチェ嬢と一緒に飾った花があった。
――お花はヒトを元気づけるのよ。心を洗ってくれるの。
そう言ったのは母だったか、それともアリーチェ嬢だっただろうか?




