第16話 頭で理解しても心が追い付かないことってありますよね
えーっと、一体どういう状況なのでしょう。冷酷非情で有名な公爵様が花瓶にお花を挿しています。え、かわい……いえいえ、こんなことさせていいのでしょうか。
ちらりとマッテオさんに助けを求めましたが、ニコニコ笑って頷くだけでした。いいんだ……。
困惑するままにエントランスホールのもう一方の飾り付けを終え、応接室の花瓶に取り掛かります。
「こっちはどうするんだ? ああ、先端を切るんだな。じゃあ切るのは俺がやるから君は花を活けていくといい」
「えっ、でもそんな」
「そのほうが早いし、俺に飾るセンスはないからな。で、これはこの辺で切ればいいのか?」
「あっ、それは切り過ぎ……」
パチンと音がして、私と公爵様は目を合わせました。
水桶の中、公爵様の大きな手の上の黄色い薔薇はとってもちんちくりんになっています。
一瞬の間のあとで、公爵様が「あ……」と眉を下げました。こんなお顔もなさるなんて!
失礼かもしれないのですけどそれがあまりに可愛くて吹き出してしまいました。
「ぷっ。ふふ、ごめんなさい、あはは! 大丈夫です、テーブルフラワーにしてもいいし……、あ、私のお部屋用にいただいてもいいでしょうか。公爵様が最初にハサミを入れた子ですから、記念に!」
「いやな記念だな」
「ふふ。とんでもない、とっても楽しい記念です。あ、でもちょうどいい花瓶はあるでしょうか。もしなければ使わないグラスでもいいのですけど」
前回、お屋敷内にお花を飾ったときには手ごろな花瓶を侍従の方々がどこからか持って来てくださったのです。なので他にも種類があるのか、それともこれで全てなのかもわからなくて。
公爵様がちらりとマッテオさんを振り返ると、彼は頷いて近くの侍従に声を掛けました。
「全ての花瓶を持って来させる。好きなものを選ぶといいし、足りないようならマッテオに言って購入すればいい」
「えっ、いえ、小さいものがひとつあれば」
「そうなのか? だが花瓶は活ける花や季節に応じて変えるものだし――」
公爵様は途中で言葉を切ってまた作業に戻られましたが、よくご存じだなぁと感心しきりです。やはりこれも貴族なら当たり前のことなのでしょうね。
私自身、伯爵令嬢でありながらそれらしい教育を十分に受けたとは言い難いので、公爵様やエレナさんの立ち振る舞いや知識に学んでばかりなのです。
「最近は淑女教育を受けるようになったと聞いたが」
「あ、はい。私がいたらないために、マッテオさんが手配してくださって」
「俺からもひとり、家庭教師をつけたい。急で申し訳ないのだが明日、顔合わせの時間を作ってもらえるだろうか」
「はい……」
すぐには理解できず、流れのままに頷きました。家庭教師、ですか。
やはり公爵夫人となると学ぶべきことが多いということ……ですよね。私はマナーもなっていなければ学も足りなくて、できることと言えば掃除ばかり。
――あたしのほうが公爵夫人にふさわしい
ミリアムの言葉が思い出されます。私は自分の居場所のために彼女の申し出を聞かなかったことにしましたが、公爵家にとってのメリットという点で考えれば、ミリアムのほうが正しいのではないでしょうか。
「アリーチェ嬢?」
「あっ、はい。すみません、ぼーっとしてしまって」
「倉庫の花瓶を全て持って来させたから必要なものを選ぶといい。残ったものは君の行きやすい部屋へ保管させるので、自由に使ってくれて構わない」
公爵様の視線の先には、大小様々な花瓶が並べられていました。材質も意匠も多種多様で、どれひとつとっても高価そうで……あわわわわ。
「こんなに! ありがとうございます」
私が花瓶をひとつひとつ拝見していると、お花の切り口を整える作業を終えた公爵様がマッテオさんのほうへと移動する気配がありました。
お帰りになってから休むことなく私の作業を手伝ってくださってますからね、共有すべき情報もあるはずです。お邪魔しないようにしなくちゃ。
うん、しかしすごい量ですね……。これらはすべて前公爵夫人が集めたものでしょうか。南西のイージュラ大陸の文化を汲んだ幾何学的なデザインや、東の小国から生まれた焼き物、北部に多いシンプルな木製のもの。どれも素敵で、ぜんぶ使いたい!
あーいえいえ、まず必要なのは記念品である黄色の薔薇を飾るものです。一輪挿しに限定すると7つくらいですね、どれにしようかな……。
「ミリアム嬢が?」
ボソっと聞こえて来た公爵様の声に思わず、意識が耳にばかり集中してしまいます。
おふたりは十分小さなお声で話してらっしゃるのですけど、エントランスホールは音が響くせいでしょうか、それとも聞かれても構わないと思っていらっしゃるのか、耳を澄ませば聞こえてしまうのです。
「ええ、当家へ嫁ぐべきはご自分だとお考えのようだったとか」
気が付いたら両手を胸の前で握っていました。緊張のあまり唇も渇いているような気がします。
どちらが嫁ぐか私やミリアムでは決められませんけれど、公爵様の意見なら強い影響力があるはずですから。
心臓が口からこぼれ落ちそうで、吐き気までしてきました。時間がとてもとても長く感じられます。
「……そうか」
続く言葉を待っていたのに、公爵様はそれ以上は何も言わずマッテオさんを連れて離れてしまいました。目の前が真っ暗になった気がして、きつく目をつぶります。
そうですよね。元々ミリアムが嫁ぐ予定だったのが私になっても、公爵家から反対意見はなかったと聞いています。それが元通りになるからと言って、公爵様が特別な反応をするはずないです。
何を期待していたのでしょう。わかってるのに、どうして。
溢れて来た涙を誤魔化すように、クリスタルの一輪挿しを手に取りました。




