第13話 まさか訪ねて来るとはおもいませんでした
朝いちばんに温室での水やりを終えて屋敷へ戻ると、エレナさんが頬を膨らませて駆け寄って来ました。その手には厚手のショールがあります。
「アリーチェ様! お外へ出られる際にはショールをお忘れにならないようにと何度……ッ」
「す、すみません。温室は暖かいし、それにそんな素敵なショールを汚したら大変だと思って」
「お嬢様の健康と比べたらそんなの書き損じのクズ紙ほどの価値もありはしませんッ! 日に日に寒くなってきますのにーもー」
エレナさんは私の腕を掴んで部屋へと連れて行き、暖炉の前に座らせました。もう、そんなに寒くないのに。
でも心遣いはとっても嬉しくて、私もされるがままになっておきます。
「今朝の食事も私ひとりでと伺いましたけど、公爵様はずいぶん早くお出かけになったんですね?」
「ええ、朝の鳥が鳴く前から出られましたぁ。昨日も珍しく夜会にご出席されましたし、毎食おひとりが続いてしまいますね。でも今夜はお早いお帰りだと聞いていますわッ」
「ひとりで食べるのは慣れてるのですけど、でも今夜のご飯は楽しみです」
「アリーチェ様ぁー!」
エレナさんは思い切り私の体をぎゅーっと抱き締めました。ぐるじい。でも、あったかい。いややっぱりぐるじい。
と、そこへノックの音。
「ど、どどうぞ……エレナさん、ぐるじ」
「アリーチェ様、失礼しま……エレナ! 離れなさい、アリーチェ様が死んでしまいます」
「わっ、あっ、ごめんなさいいい」
弾けるようにエレナさんが離れ、肺に空気が入って来ました。あぶない、ちょっと天国が見えた気がしました、戻って来られてよかった。
マッテオさんはエレナさんの頭を優しく小突いてから、こちらに向き直りました。
「ただいま、ミリアム・マリーノ伯爵令嬢より使いの者が。本日のお昼前にアリーチェ様とお話をなさりたいとか」
「ミリアムが……?」
「わたくし、あの方は好きになれませんー。大体、いま来てお昼前にって失礼にもほどがありますッ!」
「エレナの気持ちは聞いてませんよ」
再び頬を膨らませるエレナさんをマッテオさんが軽く睨みました。
失礼というのは確かにそうなのですけど、一体どういった事情があるのでしょうか。残念ながら、用事もなく和気あいあいとお喋りをするような仲ではありませんし。
むむ、と悩んでいるとマッテオさんが気遣わしげに声を掛けてくださいました。
「お断りしても全く差し支えございません。そのようにお伝えしましょうか」
「あ……いえ、確認なのですけど、これは公爵様の禁じられた社交にふくまれますか?」
一瞬だけ目を丸くしたマッテオさんでしたが、すぐに微笑みを浮かべます。
「ご親族が会いに来られる程度は、旦那様も何もおっしゃいませんよ」
「そ、それでは、お迎えの準備が大変でなければ会ってみたいと思うのですが、どうでしょうか。あの、必要であれば私もお手伝いしますし」
「何をおっしゃいますかー! アリーチェ様は公爵家の威信をかけてキラッキラの素敵なレディにして差し上げます! その他の準備は他のものにお任せくださいッ!」
大きな声をあげたエレナさんに、マッテオさんがホッホと笑います。このふたりは叔父と姪の関係だと聞いていますが、本当の親子のように仲が良くてちょっぴり羨ましかったり。
そんなこんなでひとりぼっちの朝食を終え、キラッキラに衣装や髪の毛をセットしていただきました。
刺繍をふんだんにあしらい、襟や袖にはレースの飾られた薄いラベンダー色のドレスは、動きやすさも考慮されたゆったりとした作りになっています。しかし優雅で柔らかな印象とは裏腹に、いつもの簡素な室内用ドレスと比べると着るのはちょっとだけ大変でした。
二度深く息を吸った私に、エレナさんが困ったように笑います。
「ドレスで動き回るだけの体力もつけていただかなければいけませんわね。ダンスのレッスンを増やすよう旦那様に進言いたします」
「ええ……」
最後の仕上げとばかりにネックレスをつけたところで、ミリアムの到着が知らされました。応接室で待たせているとのこと、礼を言って席を立ちます。
妹に会うだけなのにどうしてこうも緊張するのかしら。
もう一度息を深く吸うと、エレナさんが優しく背を撫でてくれました。
「今からキャンセルしてお帰りいただいてもいいですよぉ?」
「それはさすがに」
だけどその言葉は確かに私の心を軽くしてくれました。
私はもはや公爵家の人間であると、公爵家はマリーノ伯爵家に対してなんら物怖じする必要はないのだと、そう言ってもらったような気がして。
エレナさんと目を合わせ、ふたりでクスクスと笑いあいます。
「では、行きます」
「はぁい。ご案内しますね」
るんるんと弾むように歩くエレナさんの後に続き、私も足が軽くなったような気がしました。
マリーノにいた頃、家族の誰かに呼ばれたときにはいつだって足を引きずるように歩いていたのに。
エレナさんが応接室の扉をノックし、そしてゆっくりと戸を開けました。
絹糸のようにしなやかに輝く金の髪が揺れ、ミリアムが立ち上がります。
「お姉さま、突然ごめんなさいね」
「え、ええ。いいの。座って」
生まれて初めて、ミリアムに謝られました。
ちょっとびっくりしてしまったけれど、エレナさんが肩にショールを掛けてくれたことで、また落ち着きを取り戻しました。




