第1話 一足早く婚家へ来ました
今日~明日は3話ずつ、以降は1話ずつ更新予定
初めて訪れた公爵家のタウンハウスは、我がマリーノ伯爵家のお屋敷が3つくらい入ってしまいそうでした。我が家よりずっと綺麗で、調度品も質が良くて、けれども家主の視線の冷たさは同じで。
目の前に立つ男性こそ、私の旦那様となられるジョエル・フォンタナ様です。切れ味鋭い剣のように輝く白銀色の御髪はサイドの髪だけを後ろで束ねていらして、金の瞳は夜空に輝く月のようで。
「君がマリーノ伯爵家の長女アリーチェか」
若きフォンタナ公爵であるジョエル様が軍人らしい冷ややかな目でこちらを一瞥しました。
わ、大変。氷のように鋭くも綺麗なジョエル様のお姿に声を失って、ボーっとしてしまいました。私は慌てて右足を引き、深々と腰を落として淑女の礼をとります。
「もっ、申し訳ありません! マリーノ伯爵が長女アリーチェでございます。当家の事情により婚姻の儀より先に参りましたものを、快く受け入れてくださり感謝に堪えません。至らぬ点も多くございますが、どうぞよろしくお願いいたします!」
広いエントランスホールを沈黙が支配しました。その場にいる侍従の誰も、身じろぎひとつしません。
どれだけの時間が経過したか……ほんの一瞬だったかもしれませんが、ジョエル様が小さく息をつきました。
「これが君命による婚姻であることは君も理解しているだろう。今までにどのような生活をしていたかは最早問うまい。今後はフォンタナの名を汚さぬよう大人しくしていろ。それと……俺が君を愛することはないから、多くを求めぬよう」
「はい」
「身の回りの用向きは侍女に。ただし、常識の範囲内でな」
「ありがとうございます」
再び沈黙が走りましたが、ジョエル様が立ち去る気配をきっかけに空気が動きだします。
追い出されなくて良かったと、一先ずは安心して良いでしょうか。
ジョエル様も妹と結婚できるものと思っていらっしゃったでしょうから……。
安堵の吐息を漏らしたところへ、お仕着せ姿の女性がひとり近づいていらっしゃいました。
「アリーチェ様。今後、身の回りのお世話をいたしますエレナでございます。お部屋までご案内いたしますので、どうぞこちらへ」
「あ……ありがとうございます」
小さく頭を下げると、彼女は眉をほんの少しだけ顰めました。でもすぐに踵を返し、半歩前を歩いて私を誘導してくれます。
案内されたお部屋は、私が今までに過ごした私室とは比べものにならない広さと、豪華さでした。思わず入り口で立ち止まり、はしたなくもキョロキョロと見回します。
「三ヶ月後のご結婚式まではこちらの客室でお過ごしください。湯浴みの準備をしてまいります」
「ゆあっ……あ、ありがとうございます」
びっくりして固まる私に頭を下げて、エレナさんは部屋を出て行きました。
ああ、そう言えば妹のミリアムも湯浴みは誰かに手伝わせていたんだったかしら。
「それにしたって、素敵なお部屋……」
大きなカーペットはふわりと私の足を優しく包んでくれますし、ベッドも大きくて柔らかそう。書き物机は重厚な造りだし、革のソファーには上品な光沢があって。
部屋の隅々まで掃除が行き届いているし、テーブルには指紋のひとつもないわ。
汚してしまわないように、気を付けなくっちゃ。
恐る恐る、だけどちょっとだけワクワクしながら広い室内を探検します。
この扉は……バスルームね。なんて広さかしら。こっちは……衣裳部屋だわ! 私が持参した衣類がすでにこちらに片付けられています。客室だと言うのに、こんなに大きな衣裳部屋が付いているだなんて。あまりの広さに、たった数着しかない私の衣裳は居心地が悪そう。
部屋の中央へ戻り、ソファーへ腰掛けます。瞳を閉じれば静寂が私を包みました。耳に残るのは妹ミリアムの声。
――フォンタナ家だなんて、あたし絶対にイヤだからね! お姉さまが行けばいいのよ!
そうです。元々はミリアムの元へ舞い込んだ縁談でした。
どうしてこんなことになったのだったかしら、と今までの出来事を振り返ります。
私、アリーチェ・マリーノは伯爵家の長女として生まれました。母は私を産み落としてすぐに他界し、翌年、義母がマリーノの屋敷へやって来ました。彼女のお腹にはその時すでに新しい命があり、私と1つ違いの妹ミリアムが誕生。
父にそっくりな美しい金の髪と義母に瓜二つの青い瞳を持ったミリアムは、両親のどちらからもよく愛されていたように思います。私の真っ黒な髪とスミレ色の瞳はどちらも母譲りで、疎外感を覚えたものでした。
いいえ、実際に疎外されていたのです。食事を満足にいただけなかった私は体格面ですぐに妹と並び、衣類はすべて妹のお下がりになりました。また、妹のわがままに耐えられずメイドが居つかなくなると、私がメイドの真似事を強要されたのです。
これらは義母とミリアムの指示でしたが、お父様は揉め事を避けて見て見ぬふり。
とは言えミリアムは、より格式の高いお家柄の方との縁談を望んでいましたし、長女である私がマリーノを継ぐのだとずっと考えていました。お父様もそのおつもりでお相手を探しているのだろうと。そう思っていたのに。
「家柄も容姿もミリアムの希望の通りだ」
「ジョエル・フォンタナでしょう? 嫌よ。だって彼、冷酷非情で有名な人じゃない。社交に出て来たことないし、こないだの遠征だって血の海の中で笑ったって――」
「でもね、ミリィ。これは君命なのだから、お断りはできないよ」
「だけどあたしにはお姉さまと違って精霊様の加護があるのよ? いくら公爵だからって彼と結婚するくらいなら婿をとったほうがマシ……あ、そうだ。お姉さまがお嫁に行けばいいんだわ」
この一言で、私の人生は大きく変わったのでした。