ゆらぎ
暗闇の中、ただ、一人。
冷ややかな潮風が頬を撫でる。夜空に浮かぶ星たちはゆっくりと瞬き、溢れたひかりが水面に反射している。
真昼の喧騒とはかけ離れた、まるで浮世離れしているようにも感じられる景色を前に、大きく息を吸う。そして、ぬるく吐き出したそれは潮風に呑まれ消えてしまった。
名前もない、地図にも乗らないような小さな入り江にたった一人、目的もなく、いや、目的はあったはずだ。靄がかかったようにやたら不鮮明な思考回路で必死に思案するが、上手く考えがまとまらない、思い出せない、分からない。結局諦めてしまった。ただ、一つ、言葉を零してしまうとしたら、「疲れてしまった」、それだけだ。ただ、解放されたい。そんなことを考えながら、ここに来た気がする。
幼い頃から海が好きだった。ずっと昔から人間たちの文化の発展には欠かせない存在なのに、未だにその実態は未知に包まれている。そんな、美しく、幻想的で、謎めいた海が、好きだった。
そして僕は、その未知の一つになろうとしている。
後悔も未練も有り余っている。
でも、そんなことはどうでもよかった。
ここから解放されれば、それでいいんだ。
その幻想に誘われるように、ゆっくりと歩みを進める。すっかり冷え切ってしまった体が少しずつ、姿形を失っていく。足元から徐々に、星の瞬きを包んだ闇が、体を飲み込んでいく。受け入れる他無いそれは、やけに心地よく感じた。足が浮くような、深い深い奥へと沈んでゆくような、そんな矛盾を抱えながら飲まれてゆく。
やがて、口の中に鋭い塩味が広がり、本格的に終わりが見えてきた。意識は朦朧とし、すっかりぼやけてしまった視界の中に、突然、夜の闇とは似ても似つかないような、そんな何かが、目の前を横切った気がした。
いや、気がしたのではない、それは確かに横切ったんだ。それに気付いた途端、目の前を横切ったそれだけが、やけに鮮明に見えた。陶器のような繊細な肌に、桃色のうろこを纏った魚のひれ。
人魚だ。
すぐに分かった。しかし、その情報が整理し終わるころには、意識を保つことが難しくなっていた。
意識が遠のいていく中、心の中には少しずつ、新たな後悔が芽生えていた。
しかしもう手遅れだ。僕はそのまま、ゆるやかに、眠りにつくことしかできなかった。