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ジパング大航海時代  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ09「信長死去」

 西暦1617年6月、日本史上で名実共に最高の権力を得た織田信長は、満83才でこの世を去った。

 死に際は実に静かなもので、当時離宮状態となっていた安土城の天守内での大往生であったと記録されている。

 ただし誰も信長の死に際には立ち会わなかった。

 朝、通常通り起こしにいった小姓が、第一発見者だった。

 誰もが信長の唐突な死を予期していなかったのだ。

 

 なお信長は生涯特に病を持つこともなく、老人となっても健康なままだった。

 死去する前日も、来客をもてなすちょっとした宴席で自ら能楽の舞(敦盛)を披露したと記録されている。

 死因も今で言う老衰による自然死で、晩年は睡眠量が増えていたことが文献からも分かっている。

 

 しかし信長は、当時としてはあまりにも長寿であった。

 

 桶狭間の頃から彼に付き従っていた家臣の多くは、早い者では孫の代になっていた。

 何しろ桶狭間の合戦は、57年も前の事だった。

 

 生涯の盟友だった徳川家康も、信長同様に長寿だったが前年に死去した。

 彼の覇業をよく補佐し、中盤以降は腹心として、後半は信忠の筆頭家老、そして関白として権勢を誇った豊臣秀吉などは、92年に隠居し早くも1598年にいなくなった。

 しかも秀吉の場合はまともに後継者がいないため、信長自らが豊臣家存続に骨を折ったほどだった。

 また中盤で何度も信長に叱責されていた明智光秀も、内心に大きな不満を抱えつつも信長と朝廷の間を奔走し、その苦労が祟ったのか秀吉より数年早くこの世を去った。

 同時期には、股肱の臣だった前田利家なども世を去っている。

 信長より高齢だった柴田勝家や丹羽、滝川などがこの世を去るのは、さらに早かった。

 

 信長の死去した年には、初代将軍の信忠ですら既に60才に達し、秀信への引継を考えていたほどだった。

 

 こうした人間関係から、織田信長は天下統一を遂げ新たな時代を切り開くと同時に、戦国時代の終焉を看取った人物であったとも言われている。

 

 なお当時の関白は、最後の戦国大名と言われた伊達政宗であり、彼ですら既に十年以上も信忠をよく補佐していた。

 

 他の家臣達は既に二代目、三代目であり、織田幕府の統治体制は盤石であった。

 太政大臣には名家出身で切れ者の細川忠興が長らくあって、信長死去に伴う公家の巻き返しを警戒して朝廷と公家を巧みに抑えていた。

 

 また、当時次代を担うと言われていたのが、ジャワからの反乱鎮圧から帰ってきたばかりの戦上手で名をはせていた真田信繁(幸村)と、伊達政宗のもとで官僚として力を発揮していた石田三成だった。

 この石田三成は、もともと豊臣家(羽柴家)の陪臣であったが、そうした彼が政権の中枢を担っている事に織田幕府の先進性と、日本の武家社会全体の変革を見ることが出来るだろう。

 少なくとも、信長時代とも呼ばれる「安土大坂時代」は、信長を頂点とした完全な実力主義社会だったのだ。

 

 また織田幕府の中心として長らく建設が続いていた大坂の街と中心に位置する大坂城は、藤堂高虎の手によって30年の歳月をかけてようやく完成を見た。

 完成した大坂の街は、碁盤の目状の街路と堀によって仕切られ、淀川、平野川、大和川、大坂湾を掘りとした周囲40キロメートル(十里)もある、当時としては途方もない規模の大城郭だった。

 総人口も信長没時点で100万人近くに達しており、近世以前で匹敵する城塞は、中華王朝の巨大な首都ぐらいしかなかった。

 

 国内の統治体制も、流通網の整備と税収の安定によって完全な中央集権がほぼ確立され、旧朝廷の名を借りた近世的な政府が順調な政府運営を行っていた。

 

 大坂や堺の港には、日本中および世界中から多数の船が来航し、また無数の船が世界各地へと散っていった。

 ローマが陸の路により世界の中心であったのなら、大坂は海の路によって世界に通じていたと言えるだろう。

 当時大坂に匹敵する港湾都市は、まだイスパニア領だったポルトガルのリスボン、オスマン朝のイスタンブールぐらいしかない。

 ヴェネツィアは既に没落が進んでいたし、ネーデルランドのアムステルダムは、活気や先進性はともかく都市規模がまるで違っていた。

 都市規模という点では、ヨーロッパの全ての港湾都市が当てはまった。

 

 そしてこの時の大坂の繁栄を作り上げた人物こそが、日本の天下統一まで第六天魔王と恐れられた織田信長だったのだ。

 


 老齢に達して後の信長だったが、晩年に至るまで政治全般に対する精力的な姿勢を崩すことは遂になかった。

 

 1595年からの新大陸開発でも、97年の艦隊帰投を待たずに次の艦隊を派遣した。

 片やインド洋へも、セイロンへの商業的な進出を精力的に押し進めていた。

 

 また1587年に戦争を行ったイスパニアとは、戦後は逆に友好関係の構築を進め、彼個人が気に入っていた一部のイエズス会宣教師を通じて活発な外交を行っていた。

 

 イスパニアもヨーロッパで多数の問題を抱えていたため、実利面から対日融和政策を肯定していた。

 フィリピン(呂宋)を日本人に渡してしまったが、港の使用権だけを支払う方が統治経費のかかった時よりも安上がりとなっていた。

 

 一方では、1596年にジャワに到着したネーデルランドに対して強い態度で望んだ。

 彼らは宗教を持ち込まず、清貧と勤勉を旨とする合理的な国家だったが、それ故に警戒と対抗が必要だと考えられた。

 香辛料を求める彼らの船団に対しては、貿易以外では常に強い態度で臨んだ。

 強引な船団に対しては、海賊行為や戦闘に発生する事もあった。

 ネーデルランドの側も武力を用いた進出や攻撃、戦闘は一般的に行ったため、貿易をしつつも戦闘も行うという状態が長らく続いた。

 

 同時に、当時ネーデルランドはヨーロッパ最先端の優れた制度や技術を持っていたため、その技術吸収も同時に行われた。

 

 そうしてネーデルランドとの対立と貿易が行われていた頃、次なる異邦人がやって来る。

 1602年にスマトラに到着したイングランド人だった。

 当時イングランドは東印度諸島インドネシア地域で武力を用いることはなく、日本人との友好的な貿易が行われた。

 これは彼らがネーデルランドに後れをとっていた証だが、イングランドがもたらすネーデルランドを始めとするヨーロッパ情報は正確で貴重なものであり、日本側も重宝する。

 織田幕府に登用されたイングランド人もいたほどだったし、国同士で互いに親書の交換も行われた。

 しかしイングランドは、各地でのネーデルランドとの争いから印度交易に傾倒し、東印度交易はもぐりを除いて1624年に撤退している。

 またその頃には、ネーデルランドも東印度での日本との争いに疲弊していまい、日本との友好的なつながりを強めるようになる。

 これは1641年にマラッカとバタヴィアを窓口とするオランダ貿易として安定することになる。

 この背景には、ネーデルランドとイングランドの間に起こった長い戦争があった。

 

 一方でポルトガル(イスパニア)からマラッカやジャワを得ていた日本は、そこを橋頭堡に印度地域での交易も拡大。

 日本人はウコン以外の香辛料にはあまり興味を示さなかったが、印度木綿キャラコが日本で爆発的なブームとなった。

 しかしこれは日本からの大量の銀の流出をもたらすようになり、織田幕府に自力での大規模な綿花栽培と木綿産業に乗り出せるようになる。

 

 しかし信長死去までは、ここまでアジア貿易の拡大には至っていない。

 それよりも信長が重視したのは、未開地である新大陸開発の切っ掛けを作ることだった。

 

 ヨーロッパ諸国より先に広大な領域を確保して、数十年、数百年後に訪れるであろう日本列島内での人口飽和に際しての入植地を得ておこうという、あまりにも先を見通したものだったという説が存在している。

 この論の背景となっているのが、「宗門法度」で限定的に規制してなお日本国内での切支丹の増加が止まらない点が指摘されている。

 彼の存命時でも、九州北部を中心に30万人を越える規模の信者数となっていた。

 

 そうした中で、元豊臣秀吉の陪臣だった切支丹大名の小西行長に命令が下された。

 南洋探索を行い、新たに大きな土地があればそこを日本人切支丹の自由地とするというものであった。

 これには、日本各地に存在した切支丹大名も積極的だった。

 そして17世紀に入ると積極的な探査船団が出発した。

 特に1606年にネーデルランドが新大陸を発見したとの噂が広まると、より南方への航路開発が積極的となった。

 

 そしてポルトガルから引き継いだティモールを中継して、遂に南の新大陸に到達する。

 新大陸は、日本人切支丹の為の新天地であることが関白並びに将軍の名でお触れが出され、南の空を仰ぐ大陸という意味で、「南天大陸」と名付けられた。

 

 これ以後、日本各地の切支丹と切支丹大名のかなりの数が南天大陸を目指した。

 またアジア・太平洋でのキリスト教の新たな拠点だと定義したイエズス会も大挙して押し寄せ、現地の教化と日本人移民へのさらなるキリスト教布教に乗り出していく。

 

 また1613年には、当時関白の伊達政宗の陪臣であった切支丹の支倉常長に、ヨーロッパ訪問の命令が下された。

 こちらはヨーロッパの優れた制度や技術の日本への輸入を図るのが目的であり、彼を中心にした慶長遣欧使節は多数の文物を日本列島にもたらした。

 

 その中には、イエズス会及びイスパニアに日本にキリスト教大学を設けないかという提案があった。

 しかも経費は一部幕府持ちで、である。

 

 これを日本再布教の機会と考えたイエズス会は、イスパニア王室とローマに積極的な工作を実施。

 日本側からの多数の献上品もあって、双方が合意に至る。

 

 なお日本側の目的は、西欧の優れた学問や理論の効率的吸収と国内のキリスト教対策にあった。

 

 そして「大坂切支丹大学」が1616年に完成。

 

 主要学科は、文法、修辞法、論理、幾何、算術、音楽、天文学とされたが、多くはヨーロッパ中世の伝統的学問であり、最新のものとは言えなかった。

 それでも日本にギリシア・ローマ時代の系譜を持つ学問がもたらされた事は、後の日本の学術発展に大きな刺激となった。

 また切支丹大学の設立に伴い、日本在来の宗教関係者も自らこそが日本の学問を背負うべきだと奮起。

 本願寺を中心とする寺社勢力によって、京に「京都学校」が設立される。

 また幕府は、武士に官僚としての合理的な高等教育を施す場所として、「大坂学問所」を設立。

 性格上、規模としては最大のものとなった。

 以後三つの高等学府を中心として、日本の教育熱を煽っていく事になる。

 

 以上が、信長が晩年行った事業の重要な部分になる。

 

 かくして織田信長という戦国の覇王の後半生は、日本社会の近代化への尽力と勢力圏の拡大に注がれた。

 

 しかし余りにも強烈すぎた個性の消滅は、一時的であれ日本の発展と躍進に停滞をもたらすことにもなる。


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