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ジパング大航海時代  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ07「織田幕府と殖産興業」

 1584年に天下統一を成し遂げた織田信長の、日本での権勢は絶頂に達した。

 しかも彼は1582年の時点で、彼の大嫌いな朝廷から関白、太政大臣、征夷大将軍のどれでも好きな役職を与えるとの内意を得ていた。

 

 つまり1582年の時点で、朝廷も日本での次なる支配者が誰かを確信していたと言えるだろう。

 既に実質的権力のない朝廷や貴族は、日本国内での権力に対する目先が利かなければ生き残れないのだから、彼らの見識は信頼に値するものであった。

 

 しかし信長は、1585年まで態度を保留した。

 織田家の家督も信忠に継がせていた。

 彼の官職は前右大臣で止まったままだった。

 しかしその間、天下統一の成った1584年に天皇を自らの居城安土に行幸させており、自らの権勢を天下に明らかにしていた。

 しかしこの時の信長は、天皇に対してどこまでも丁重で礼を尽くしており、信長が天皇に成り代わるのだという人々の風評を吹き飛ばしていた。

 しかもこの席上で信長は、織田家が天皇家をどこまでも守ると強く宣言した。

 日の本を脅かす海外勢力に対しても、断固たる態度で当たるとも言った。

 一千年を生き抜いた天皇家の権威とは、日本の権威そのものであるからだ。

 

 ただし信長は、天皇に寄生する公家に対しては別であった。

 彼は公家が大嫌いだった。

 

 そして彼は、数年前に示された最高官職に対して「皆々御受け候」との答えを1585年に行った。

 公家達は色めき立つが、既に日本中は信長のものであり、彼を何とかしてくれそうな者はもうどこにも存在していなかった。

 少なくとも公家達にとっての織田信長は、第六天魔王だったわけだ。

 

 公家達は、信長の権勢を前に「当面」の全面降伏を受け入れた。

 信長という個性が消えるまで雌伏することに決めたのだ。

 いかに魔王とはいえ、彼も人の子として生まれた身。

 残す寿命もせいぜい10年ほどだと考えられた。

 それに引き替え公家の伝統は、既に千年の長きを誇っていた。

 ほんの少しの時間、我慢すればよいのだ。

 

 なお、関白は天皇の代理人、太政大臣は太政官の最高位、征夷大将軍は武門の最高位として朝廷の刀として天下を治める地位のことである。

 このため征夷大将軍が日本での実質支配者として、鎌倉、室町時代を作り上げていた。

 

 かくして織田信長自身は、最高官職である関白の位を授かる。

 そして型破りな行動に出た。

 実質的には信長自身が、嫡子にして織田家の家督相続者である信忠に征夷大将軍を授け、信忠が織田幕府を大坂に開府する運びとなったのだ。

 また太政大臣には臣下の明智光秀が選ばれ、知識と人脈を用いて公家への抑え役となった。

 このため政治の実務は関白が行い、将軍が武士を統制し、権威的な面の統制を太政大臣が行うようになる形が最初から整えられる。

 

 そしてここに織田幕府もしくは大坂幕府が開かれる事になる。

 西暦1585年の事だった。

 

 しかし信長自身は、たった2年で関白を引退した。

 次の関白には、姓名を名目上の公家として豊臣と改めさせて権威付けした旧姓羽柴秀吉に「命じた」。

 以後の官職の多くは、単なる古代的権威だけでなく実質的な権力を伴わねばならないと日本中の武士に思わせるようになる。

 

 このため、太政大臣を求める権威派、関白を求める実務派に分かれた競争が武士の間で加熱するようになる。

 

 なお織田信長自身は関白引退後は、隠居を宣言。

 しかし影響力はそのままだったため、自然に太閤と呼ばれるようになる。

 そして以後の日本では、太閤と言えば信長の事を指すようになり、その時代時代の象徴的な権力者に太閤の名を送るようになったとされる。

 

 もっとも信長自身は、特に官職に興味はなかった。

 それよりも、自らが作り上げた帝国の整備と近代化を精力的に行った。

 そのための効率を引き上げる手段として、旧権威を利用したのであった。

 

 そして彼が選抜した優秀な臣下たちは期待を裏切らず、関白、太政大臣の役職を現実政治の最高権力者としの地位へと返り咲かせる事になる。

 

 ただし征夷大将軍の位は若干違っていた。

 

 征夷大将軍の役割を武士の統制のみに限定し、実質政治上では織田嫡子が就く名誉職へと事実上の格下げが行われたのだ。

 現在の政党政治上で言えば、関白が内閣総理大臣で、征夷大将軍が政権政党の名誉大統領職、太政大臣は政権政党の幹事長のような位置になるだろうか。

 

 これは織田家自身の権威を下げることになるが、織田の頭領が常に優秀者だとは限らないため、権威的君主としての役割を強めさせようとする合理主義者信長の深謀遠慮であった。

 また他の息子の織田(神戸)信孝、織田信雄などは、地方の大領主として転封させて、織田家を存続させるシステムとしての側面だけを与えるようにした。

 

 もっとも信長自身は、敢えて子孫に実質権力を与えなかったとも言われている。

 自分の子孫であるなら、その気があるなら自分自身のように自力で権力を握れば良いと嘯いたと風説上では伝えられている。

 

 また、天皇と公家の間に織田家という象徴権力をもう一つ挟み込むことで、それまでの象徴権威であった天皇と公家の地位を落とすことも同時に図られた。

 この姿勢は、二代目将軍となった織田秀信の頃に確固たるものとなる。

 

 なお、関白と太政大臣職も秀吉、光秀という織田家出世頭から次代へと引き継がれる事で、実力のある大名が受ける役職という雰囲気がさらに強まった。

 織田幕府の初代、二代目将軍の頃の関白二代目には徳川家康、三代目に伊達政宗。

 太政大臣の二代目には早逝した明智光秀の間を短期間埋めた小早川隆景を経て三代目に細川忠興が就任している。

 任期は不定だったが、病や老齢などの理由がない限りおおむね10〜20年程度だったとされる。

 ただし長期的政策は踏襲されるのが慣例であり、国家規模の開発などでは顕著であった。

 また初代と二代目は、共に年齢の関係で任期はあまり長くなかった。

 これは慣例を作り上げるために、年齢に関わらず当時の最有力者にして最も優秀と判断された者が任命されたためである。

 


 そうして天下統一から既に十年が経過した。

 天下人織田上総介信長は、還暦(満年齢60才)を越えてもいまだ壮健だった。

 7年前の1587年に関白職を辞してすでに政治の表面上は第一線を退いていたが、いまだのその権勢は衰えるところを見せていなかった。

 自らの権威をほとんど取り上げられた公家達などは、本当に第六天魔王なのではないかと恐れたほどだった。

 

 織田家を中心にした織田幕府の日本統治は順調であり、もはや誰も刃向かう者はいなかった。

 信長の構想通り、着々と新たな政権は完成しつつあった。

 

 しかし信長自身は、満足にはほど遠かった。

 問題は海外交易だった。

 確かにイスパニアとの短期間の戦争に勝利して、琉球、小琉球、呂宋、マラッカ、ジャワなど様々な地域を手にはした。

 各地には大挙日本人が進出しつつある。

 しかし貿易は依然とした輸入超過で、日本列島からは大量に産出される金と銀、特に中華地域で求められていた銀が輸出されていた。

 

 日本の主な輸入品は絹製品と硝石であり、日本からは金銀以外だと銅(銅銭)、硫黄、刀剣、鉄(玉鋼)、日用雑貨品、海産物の乾物などであった。

 東アジアの交易をほぼ独占できたため、これに東南アジア各地の物産の中継貿易が加わる。

 現地では、インド洋方面のイスラム商人とも貿易は行われた。

 東アジアのポルトガル勢力はほとんど飲み込むことに成功した。

 また中華地域との絹の貿易は、日本商人が直に行っているためそれほど法外な値段ではなかった。

 

 硝石の製造の方は、国内での努力で多くがまかなわれるようになっていたが、品質の低い日本産の絹では、どうしても中華産の絹には太刀打ちができなかったからだ。

 そのくせ日本国内では大量の絹需要が存在し、統一による安定が皮肉にも需要を爆発的に増大させていて、統制する事すら難しかった。

 へたに統制しても、密貿易で価格がつり上がり余計に経済が混乱する事が確実だったからだ。

 

 このため信長は、日本中の諸侯に殖産興業を強く命令した。

 日本独自の輸出物を増やすことが輸入超過への抜本的な解決策だと考えられたからだ。

 ただし生糸、絹製品、綿織物や陶磁器などの技術は、当時明の方が圧倒的に優位で芳しいものではなかった。

 このため刀剣と共に鉄砲が大量に輸出されるようになり、日本の主力輸出商品の一角を占めていくようになる。

 当時の日本の鉄製品は、世界最高品質を持っていたからだった。

 そして鉄と連動して、火を使う加工品の生産が活発になり、ガラス工芸品なども発展している。

 北九州の一部では、伐採の進んだ森林資源に代わって早くも石炭の利用が行われるようになった。

 

 また殖産興業と同時に、農地の開発それに連動した治水治山と流通網の整備を熱心に行われた。

 人口の方も、信長の天下統一により国内安定を見たため大きな上昇曲線を描くようになっており、日本中で赤子と子供の数が大きく上昇しつつあった。

 

 一方では、当面過剰となった武力の分だけ軍事費も大幅に削減され、多数失業した武士は社会不安と戦乱の元となるため、日本の各領域への屯田兵としての入植が強力に押し進められた。

 その数は、天下統一から十年間で15万人にも達した。

 守備兵や傭兵として各地に派遣された者も多い。

 そのための資金は諸大名から捻出させ、大名の力をそぎ落とすことも忘れてはいなかった。

 

 当然ながら、南方の開発も一層強化された。

 多数の商用作物や物産を得ることは貿易拡大のために必要であり、特に南蛮人が求める香料利権確保のためジャワやモルッカ諸島の経営は重要と考えられた。

 

 ただし、ジャワでの経営は順調とは言えず、イスラム系国家のバンテン王国は日本に対して敵対的だった。

 バンテン王国は、1596年にアジア(ジャワ)に初来航したネーデルランドとの交易を重視し、以後頻繁にイスパニアから事実上の独立を果たしたばかりのネーデルランドが訪れるようになる。

 これに対して日本は武力を全面に出した行動を頻発するようになり、次第にネーデルランドと敵対的になった。

 そしてアジアでのポルトガルの生き残りを完全に抱き込んだ形で、対ネーデルランド戦争をかなりの期間にわたって続けるようになる。

 ただし、地の利と圧倒的な人口差を持つ日本側が常に有利に事態を運び、またオランダ船を拿捕することで技術吸収も行ったため競争力に差が出ることはなかった。

 ただしジャワのバンテン王国、スマトラのアチェー王国などイスラム系の現地国家が、宗教を持ち込まないヨーロッパ国家であったネーデルランドとの同盟を続けたため、完全な優位を獲得するには至らなかった。

 こうした状態は、ジャワではマタラム王国を利用した日本側の完全な優位が確立されるまで続くことになる。

 

 そして日本人は1590年代に入るとセイロンにも商館を構えるようになり、17世紀以後はヨーロッパ勢力との対立を恒常化していくようになる。

 

 そうした開発の中には、鎌倉幕府以来の北方探索が含まれていた。

 室町時代前期の記録が確かなら、二ヶ月余りの航海を経た先には、未知の巨大大陸が広がっている筈だからだ。

 またイスパニアが支配するノヴァ・イスパニアがその先にあるとも考えられ、交易拡大と領土拡張の双方を満たす魅力的な航路開発であると考えられた。

 

 そしてこの北方(東方)航海は、当時関東、奥州諸侯の領分と考えられていた事もあり、奥州で一番の勢いを持つようになっていた伊達政宗に新大陸探査の命が下される。

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