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ジパング大航海時代  作者: 扶桑かつみ
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●フェイズ06「対外戦争」

 1584年初秋、織田信長の手により天下統一は達成された。

 

 最後まで抵抗した北条家は小田原での籠城の末に降伏して滅ぼされ、前後して織田に刃向かった関東、奥州の諸侯も根こそぎ滅ぼされた。

 

 ただし毛利、島津、上杉のように意図的に残された有力大名も存在し、それは第六天魔王とまで恐れられた織田信長の虚像から考えれば、あまりにも寛容だと日本人の多くが考えた。

 しかし信長には、急いで天下統一を行う大きな理由があった。

 

 いつまでも日本で小競り合いや内乱をしている時ではなかったからだ。

 

 現に1564年にわずかな兵力で呂宗フィリピンに侵攻したイスパニアは、1571年に呂宋中心にマニラ市を建設。

 1574年に呂宋をほぼ占領してしまった。

 また1580年にはイスパニアとポルトガルは同君連合となり、イスパニアは遂に太陽の沈まない帝国となった。

 また彼らの本国のあるヨーロッパでは、イングランド、ネーデルランドなど数多の先進的な国家が海外へ飛躍すべく機会をうかがっており、このまま手をこまねいていては日の本は世界から置いていかれてしまうと考えられたのだ。

 

 幸いと言うべきか本国を失ったアジアのポルトガル商人は、それまでの関係もあって日本商人との関係を重視した。

 さらに日本側はポルトガルから幾つかの技術譲渡を受けとり、ヨーロッパからの情報も手に入れることができた。

 既に東南アジア各地に広がっていた日本商人達も、各地から情報を持ち帰った。

 

 しかしイスパニアが呂宋フィリピンを得てアジア貿易に乗り出したことは、日本商人にとって極めて大きな痛手となった。

 

 イスパニアは、メキシコの銀とチャイナの絹の仲介を呂宋のマニラで行うようになったからだ。

 無論その過程で高額になった絹を買うのは日本なのだ。

 そしてマニラの街は中華系商人と原住民により爆発的に人口が拡大し、イスパニア自身がアジア交易での大きな脅威へと成長しつつあった。

 

 これに対して日本は、現地のポルトガル商人と結託して、マカオ、小琉球、琉球などのルートを使って中華地域との交易を続けた。

 小琉球、琉球には多数の中華系商人もおり、1570年代からはイスパニアと日本が東アジア交易を二分するようになった。

 

 しかし貿易摩擦は国家の衝突を生むのが常であり、日本とイスパニアは急速に関係を悪化していった。

 そして発端となったのが、日本のキリスト教徒が行った天正遣欧使節だと言われている。

 日本の九州地方から派遣された四人の少年達は1585年にローマ法王に謁見。

 その時同行した宣教師が、イスパニア王フェリペ二世に日本王(織田信長)との貿易対立を訴えた。

 合わせて日本での事実上の宗教規制も伝え、軍を派遣するように訴えた。

 

 しかし当時のイスパニアは、ネーデルランド独立問題とイングランドとの対立で地球の反対側への派兵どころではなかった。

 それでも、宣教師へのさらなる支援と交易船の強化だけを約束した。

 

 そして1590年に、天正遣欧使節は日本へと舞い戻った。

 しかしその時、日本とイスパニアを巡る情勢は大きな変化を迎えていた。

 この時の使節の帰国も、とあるイスパニアの使節団に同行したものであった。

 

 1588年春に日本と現地イスパニアとの間に戦争が勃発し、1589年には呂宋は日本の領土となっていたのだ。

 

 この時の戦争原因は、東シナ海でのイスパニア側の日本人の人身売買と海賊行為にあったと言われている。

 しかし原因は今に至るもはっきりしておらず、日本、イスパニア双方共に意図的な戦闘を行ったわけではなかった。

 一説には、中華系海賊が原因だったとすら言われている。

 しかしちょっとした略奪行為でも全面衝突するほど、緊張状態にあったことを意味していた。

 また天正遣欧使節が、日本側に自国へのキリスト教浸透とイスパニアの侵略が結びつくのではと考えさせたからだとも言われている。

 

 しかし実際は、貿易摩擦が原因だった。

 そして日本というより織田信長は、数年前から戦争の機会を狙っていた。

 

 偶発的戦闘を絶好の機会と捉えた日本の織田信長は、素早く呂宋討伐を決意。

 短期間で大軍を用意すると、小西行長を総大将として一気にマニラへと攻め寄せた。

 

 この時日本軍は、半年で進行準備を整えその後半年の間に小琉球に兵力を集結。

 一気に呂宋島へと攻め寄せた。

 また日本海軍(水軍)は、すでにマニラ・ガレオンに匹敵する2000トンクラスの大型ガレオン戦列艦オダ・ガレオンを多数保有するようになるまで成長していた。

 外洋型帆船による艦隊総数も100隻の単位に達していた。

 一度に運べる兵員数も4万人を越えており、原住民に対抗できる程度でしかないマニラのイスパニア軍では、機動運用される大砲すら多数持つ信長軍団に太刀打ちできなかった。

 

 そして既に一度アルマダを失いイングランドと戦争していたイスパニアは、屈辱的な日本との和平を申し出る。

 天正遣欧使節を日本に送った船団には、この時の講和使節が乗っていたのだ。

 

 講和会議の席上で日本側は強気の態度を崩さず、呂宋の正式な割譲を要求する。

 しかもこの時点で、日本側はミンダナオのモロ族と同盟を結んでおり、彼らの自治独立と引き替えに現地イスパニア軍を攻め立てる行動を続けさせていた。

 

 直接的な軍事力の差もさらに開いており、地の利がまったくないイスパニアは日本域内でのイスパニア人の権利の保障と、交易地としての呂宋・マニラ港の有料使用権だけを認めさせ、フィリピン(呂宋)の割譲を受諾した。

 また織田側は、マラッカ以東の旧ポルトガル利権のイスパニアからの割譲を要求し、ほぼ無条件で認められた。

 これによりマカオ、マラッカ、スマトラ島、ジャワ島、ブルネイ島の領域の一部を日本が領有する事になった。

 これらの領土は織田の直轄領とされ、ポルトガル商人の利権はそのままに各地に代官が派遣される事になる。

 また一定の軍備も置くことになると同時に正式に商館も開かれ、東アジア交易のほとんどを取り戻すことに成功する。

 

 しかし呂宋のモロ族はミンダナオ島の自治を日本から認められ、日本は彼らとの交易と一部の港を借り受ける代わりに、海軍力を提供する事になった。

 その後もモロ族は小さないざこざを行いつつも日本と長らく盟約関係を結び、後には日本の呂宋傭兵の供給先として重宝されるようになる。

 他でも東印度諸島インドネシア地域でも、各地の王国や豪族と盟約を結び、当面の安定が図られた。

 

 そして、日本の織田家が植民地軍とはいえイスパニアを破った力を見るまでもなく、その頃の日本は確実に次なる時代へと進み始めていた。


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