フェイズ31「露土戦争とロシア」
1876年に大蝦夷鉄道が開通した。
まずは東護市(旧露名:オムスク)にまで鉄道が開通し、さらには中央アジア、西シベリア各地へと急速に伸びていった。
当然とばかりに、ロシア人との境界線となっているウラル山脈にも延長された。
またそれ以前に、日本近辺やウラル地域でも鉄道が敷設されていたため、各地の鉄道と大蝦夷鉄道は早速連結された。
中央アジア各地で敷設中の鉄道とも繋がった。
大蝦夷とジュンガル、ユーラシア北部、トルキスタン領域が一つになった瞬間だった。
鉄道敷設に連動する鉄鋼産業、機関車生産による機械工業双方の発展は、蓬莱に並んで爆発的となった。
初期の工業製品供給地となった日本列島も、大きな好景気となった。
この頃の日本では、大蝦夷景気と呼ばれたほどとなった。
そしてエニセイ川(白竜川)、オビ川(帯広川)の最上流地域を中心にして無数の炭坑と各種鉱山が見つかると、大蝦夷での開発はさらに急速な勢いで進んだ。
また鉄道が敷設されると、鉄道周辺地域に多数の日本人、新たな移民者である中華系が移民と入植を開始した。
鉄道によってこれまでとは比較にならないくらい簡単に各地に到着した彼らは、黒土地域の末端部を瞬く間に広大な農地に作り替えていった。
日本の大蝦夷総督府とジュンガル政府も社会資本整備に力を注ぎ、治水事業や鉄道、道路、都市整備を行った。
また住民の日本化、特に中華系移民の日本化政策を殊の外熱心に行った。
この副産物として、大蝦夷での公教育は民衆の生活を圧迫するほどの強引さで進められることになる。
本来なら暴動や反日本運動に発展するのだが、鉄道がもたらす近代化の波と富がそれを押しつぶすように補った。
そして開発と移民の波は、すぐにもウラル山脈地域へと伸びてくる。
しかもウラルには鉱産資源が豊富なため、瞬く間に移民と開発が進んでいった。
これを極めて強い脅威として見ていたのが、シベリア開発及び獲得競争、所謂「ノーザン・ゲーム」に負けた形のロシア帝国だった。
ロシア帝国は、17世紀半ばから後半にかけて日本人やジュンガル人にシベリア(大蝦夷)で出会った時点で、バイカル湖の手前まで領有している事になっていた。
たとえそれが毛皮目的の少数のコサックによるものだったとしても、国際的にはロシアの既得権益と言い張ることができた。
何しろ他の列強はいなかったのだ。
しかし、東からやって来た日本のコサックであるマタギは狡猾だった。
また数も多いため、狩猟を目的としたコサックは、獲物の枯渇もあって徐々に押し返されていった。
マタギとの勢力争いや小競り合いは日常茶飯事で、時には集落ごと滅ぼされた例もあった。
気が付いたら、シベリアの多くの場所はマタギとコサックとの事実上の雑居地になっていった。
日本人の持つ大蝦夷には、結局手は付けられなかった。
これがナポレオン戦争での大きな後退を生んだ土壌にもなった。
しかも日本人達は、大貴族(上杉氏などの大名)自らが進出してくるほどの積極姿勢を示すため、ロシア本土で富を貪るロシア貴族相手に有利なゲームを展開し続けた。
それが苦難に満ちた開拓と入植の歴史だったとしても、日本人を北辺の勝者としたことは間違いなかった。
草原の騎馬民族であるジュンガルも、シベリアのロシア人にとっては厄介な相手だった。
日本人が入り込んで色々と知恵と技術、文明の利器を与えているので、騙すことも、利用することも難しかった。
無論戦闘でも簡単な相手ではなかった。
彼らの領域に入ることは、死を意味する時もあった。
日本から得た近代的な銃や大砲で武装しているので、少数のコサック屯田兵による田舎泥棒的な進出ではどうにもならなかった。
モンゴルの末裔やその教えを受け継ぐ者達だけに、数を用意しないとどうにもならないし、数は大抵の場合相手の方が多かった。
そしてロシアとしては、莫大な資金を投じて危険を冒してまで日本人のテリトリーに進出する気を徐々になくしていった。
既に毛皮は一度刈り尽くしていた事が原因だった。
そして19世紀までは、それで良かった。
シベリアにせよ大蝦夷にせよ、人が治める領土とするにはあまりにも広大すぎたからだ。
シベリアの日本人達は、現地に根付いて暢気に放牧や遊牧、場合によっては農業も始めていたが、ロシア人はそこまでする気を長い間感じていなかった。
何しろウラル山脈の西側のウラルの大地だけでも十分以上に広大であり、開発すべき場所が無数にあったからだ。
しかし、時代が進むと共に状況が変わってきた。
ナポレオン戦争において、日本人が隣に住んでいると認識されるようなったのだが、1815年のウィーン会議でロシアは大幅な後退を追認せざるを得なかった。
その後1830年代後半に蓬莱独立に伴う混乱につけ込もうとしたが、相手の方が凶暴であり、かえって領土を奪われる結果となった。
そして日本人達は、彼らの本土で国民国家を作ると、各地で鉄道を引き始めた。
しかも1850年から始まったクリミア戦争では、国民国家、国民軍隊として再編成された日本軍がシベリア各地にやって来て、さらに多くの土地を奪っていった。
日本人に従って、ジュンガルの騎馬達も旋条銃片手にやって来た。
ジュンガルの騎兵は、日本人の他の兵科と組合わさることでヨーロッパの騎兵並に強敵となっていた。
そしてクリミア戦争が終わってみると、ロシアと日本人の国境は、ウラル山脈の東部を南北に横断して、そのままウラル川を下りカスピ海に至るラインとなっていた。
ロシアは、シベリアと自ら名付けた地域のほとんどを失っていたのだ。
エカチェリーナ女帝の名を冠した町も、日本人の手で一度焼き払われ、日本人の街が再建されていた。
ウラルの一部では、早くも鉄道の敷設まで始まった。
しかもジュンガルをほとんど衛星国としてしまった日本人達は、チャイナ北部外縁、西部外縁のほとんどを獲得していた。
陸地面積の広大さは、ブリテン人の地理学者が図ったところでは、世界の陸地の六分の一から七分の一にも及んでいた。
殆どが不毛の土地や大山脈とはいえ、全てが利用できないわけではない。
しかも1878年の鉄道敷設に伴う近代化と移民政策によって、東に位置する巨大な勢力として急速に脅威度を増していた。
しかも不毛な大地のそこかしこに、豊富な地下資源が眠っていることが分かってきた。
工場から煤煙を吹き上げる煙突の数も、急速に増えていた。
鉄道もキノコの菌糸が伸びるように広がり始めた。
鉄道に乗って、日本人とその眷属も大挙して移民するようになった。
各地の騎馬民族の近代化も始まりだした。
しかし日本人は、今のところ自分たちの土地の開発と開拓と現地の近代化に忙しく、ウラルやロシア自身に向けてさらに前進してくる気配はなかった。
また西アジアでのブリテンの動きが、日本人の目をそちらに向けさせていた。
ブリテンは、インド支配の安定化のために度々アフガニスタンへの影響力拡大を狙っていたし、ペルシャへの進出も強めていた。
このため日本としても、アフガニスタンの現地王朝のバーラクザイ朝(1826年〜)を支援したり、ペルシャとイスラム社会全体への援助を行うなどして、ブリテンに目を向けがちだった。
おかげでロシアとしては自らの生存のために、まずはドイツへの対抗外交を実施する事ができた。
ウラルも大事だが、ヨーロッパこそがロシアの死命を制する場所だった。
それに、どん欲な日本人達が自分たちの土地に目を向ける前に、他の場所で状況を少しでも有利にしておく必要があった。
日本人との争いは、もう少し先の話だと考えられていたからだ。
当時ロシアが重視したのは、バルカン半島政策だった。
この地域のスラブ民族をオスマン朝トルコから解放して、自らの勢力圏と市場を増やすのが目的だった。
またできうるなら、トルコ自身を滅ぼして地中海への出口を確固たるものにすることも目指された。
東ローマ帝国の後継者を自ら任じるロシア人にしてみれば、トルコ人の都であるイスタンブールも垂涎の獲物だった。
正教の本拠地は、コンスタンチンノープル(イスタンブール)にあるのが一番相応しいからだ。
こうした欲望により発生したのが、クリミア戦争であった。
そしてロシアは、クリミア戦争では世界中の列強から袋叩きにあってしまう。
当初は小さな外交問題だった。
だが、ドイツとの関係が微妙な筈のハンガリー共和国がロシアを裏切り、これを突破口として列強が首を突っ込んできた。
弱い者苛めは、帝国主義が進みつつあるこの時代では、あまりにも当たり前の行動だった。
弱いのなら、相手の肌の色など関係なかった。
そしてロシア人の味方をしようという奇特な者はどこにも現れなかった。
友人である筈のフランスなどは、クリミア戦争での陸軍の主力を成すほど派遣してくる始末だった。
戦争は次第に拡大して、ブリテン、フランス、ドイツ、日本、サルディニアがオスマン帝国の後ろに付いて参戦した。
戦闘は、黒海のセバストポリ要塞を焦点として戦われた。
完全な全面戦争にならなかったのは、せめてもの幸いと言うべき惨状だった。
しかし日本人はシベリアをさらにかすめ取り、ドイツ人はバルト海地域の民族の援助要請を受けたとしてバルト海各地に派兵した。
クリミア戦争自体は、ほとんど対ロシア全面戦争へと発展していた。
当時のロシアは、人口と領土が多いが先端技術面で他の列強に比べて大きく遅れていたので、ナポレオン戦争のような状況にでもならない限り、全てに太刀打ちすることは極めて難しかった。
当然ロシアは各地で敗退した。
セバストポリ要塞では頑強な抵抗を見せたがそれも潰え、1856年にパリ条約を結んだ。
かつてポーランドにしたことを、何倍にも拡大して自分がされた戦争と結果だった。
この時日本は、火事場泥棒的に残りのシベリアを全て奪っていった。
一方ドイツは、バルト海地域にドイツ(プロイセンのホーエンツォレル家)から分家を送り出して、リトアニア公国、ラトビア公国、エストニア公国の三国の建国に成功した。
またロシアは、フィンランドの自治強化を認めさせられ、ドイツ資本への開放を行わざるを得なくなる。
しかし逆に、ドイツとロシアは緩衝地帯を得ることができた。
ロシアは民族問題のいくつかを解消することもできた。
長い目で見れば、全てが悪いことばかりではなかったのだ。
そしてこの時ロシアは、自らの近代化と工業化の遅れを痛感した。
ブリテン、フランス、ドイツと比べることはともかく、有色人種の日本人にまで後れをとった事は痛恨の極みだと考えられた。
このため以後のロシアは、賢帝アレクサンドル2世のもと、依然として友好関係の強いフランス資本と技術を導入して工業化が推し進められた。
これでロシアの工業化は進展して、フランスは一部で好景気となった。
フランスの近代産業が発展したのは、一部ではロシアのおかげだった。
またアレクサンドル2世は、農奴解放令など様々な革新的政策を実施して、政治面、制度面でもロシアの近代化を行った。
しかしこれらは、かつての織田幕府同様にいわゆる「上からの改革」と近代化であり、近代化の進展と共に周辺住民の不満は高まっていく事になる。
アレクサンドル2世自身も、1881年に爆殺されてしまう。
一方ロシアの外交だが、当初は対ヨーロッパ協調路線を歩んでいた。
また当時ドイツは、バルト海地域とフィンランド、ハンガリー共和国の市場化に忙しかった。
また海外でもアフリカ各地や東アジアなどで精力的な市場進出や探検活動を行うなど、活発に帝国主義的活動に出ており、オスマン帝国にまで手が回らなくなっていた。
ブリテンもインドと中華方面が忙しく、フランスはインドシナに力を傾注していた。
蓬莱連合は統合戦争の戦後処理から続く国内の開発と蓬莱化(日本化)政策に忙しくて、まだ国家として本格的に海外に出る余力は少なかった。
それに当時の蓬莱は、海外と言えばアフリカ大陸に熱い視線を注いでいた。
大蝦夷鉄道に資本参加したのは、蓬莱稀代の大資本家となる岩崎弥太郎を中心とする鉄道コンツェルン達だった。
しかも蓬莱の資本家達、特に貧民から身を起こして「物流の神」とまで言われた岩崎弥太郎は、鉄道と船舶による新たな地球規模の「連環」の構築を目指しており、大蝦夷地域には大きな関心を向けていた。
ロシアにとっての問題は、シベリア(西大蝦夷)とカスピ海東岸で活発に活動する日本人達だが、日本人は現地での開発と安定化、中華系移民の日本化政策に忙しそうだった。
また日本人は、東アジアや環太平洋地域へ興味を向けており、ロシア方面への興味は薄いと判断された。
そしてトルコとの戦端が開かれたのだが、予測した通り今度は列強の誰もトルコ人を助けることはなかった。
ロシアの協調外交の結果ドイツはロシアと同盟を結んで、ロシアのオスマン朝トルコ攻撃を容認していたのが効いていた。
それにヨーロッパ諸国も、トルコが適度に弱り叩かれることを望んでいた。
トルコは依然として地中海地域、中近東地域に多くの領土や勢力基盤を持ち、これを奪い取るにはもう少し弱る方がやりやすいからだ。
オスマン帝国は、有色人種国家同士のよしみとばかりに日本に泣きついたりもしたが、日本人達は列強間の足並みを乱してまでヨーロッパ情勢に直接首を突っ込む愚を侵さなかった。
というより、遠すぎて何もする気がなかった。
過去のクリミア戦争で黒海にまで出向いたりもしたが、遠征はその時に懲りていた。
かかる戦費が、半端ではなかったのだ。
西大蝦夷がヨーロッパ・ロシアのすぐ側まで拡張していたが、それはまだ地図上で拡張したという以上ではなかった。
鉄道が引かれたからと言って、おいそれと手が出せる場所ではなかった。
日本にとって、西大蝦夷に配置してある自国軍隊は警備部隊以上の規模ではないし、今は自らの地固めを進めるためにもロシアと事を構える気はなかった。
ロシアに隠れて、若干の兵器を売却したり武器商人を紹介し、さらに少数の軍事顧問を送り込むのが精一杯だった。
ただしロシアに対する嫌がらせと、トルコの好意的感情を得る域を出るものではなく、そうした行動は列強としてのたしなみのようなものでしかなかった。
当然ながら、トルコはロシアに敗北した。
日本人軍事顧問団や日本製武器が多少活躍したが、戦術面を越えることはなかった。
そして日本としては、トルコ人からの信頼を得てトルコをその後の武器の顧客とできた事で満足し、それ以上出過ぎることもなかった。
この時点でロシアを本気で怒らせる事は、国益上得策ではないからだった。
しかしロシアは、トルコとの講和の「サン=ステファノ条約」で失敗してしまう。
バルカン半島を一人で飲み込まんばかりの、余りにもロシア本位の条約のため、ブリテンなど列強の多くが激怒したのだ。
衰退したトルコを苛める事は問題ないが、出過ぎた利権拡大は列強内の暗黙のルールに反する行為だった。
しかもトルコは東地中海に広く面しているので、そこにロシア人が我が物顔をすることは誰もが嫌がった。
当時のロシアとは、ヨーロピアンにとっては日本の次に異質な存在だったのだ。
その後同盟国のドイツ(ビスマルク第二次内閣時)が会議の仲介を申し出て、「ベルリン会議」が開催される。
どちらにしろオスマン帝国の領土は大きく割譲され、ドイツの後押しを受けたハンガリーが多くの地域で影響力を増して、バルカン半島各地には様々な民族国家が新たに成立した。
また会議は列強による大国外交の最たる例となり、小国の発言権は実質的になかった。
会議の結果ロシアの南進政策は失敗するも、バルカン半島でセルビアなどのスラブ民族を支援して影響力を拡大し、結局ドイツを後ろ盾とせざるを得ないハンガリーと対立を深くしていく。
またドイツとロシアは、互いに抱える大量のポーランド人問題で対立と協調の繰り返しとなる。
だがドイツは世界各地で市場を得たことで心理的余裕を持ち、むしろ東ヨーロッパ方面では協調路線を歩むようになっていった。
また互いの国境線整理と緩衝地帯設定による関係安定化という大国的考えから、ポーランドの再独立についての話し合いすらもたれるようになった。
むろんここにポーランド人の入り込む隙間はなく、あくまでも帝国主義的な大国外交の延長でしかなかった。
故にポーランドでは、最後のポーランド領だったワルシャワ大公国復活に関してドイツとロシアの話し合いが進むようになった。
またドイツとロシアが互いに妥協に近い形に落ち着いていたのは、ビスマルクのフランス封じ込め政策が的確だったのもさることながら、互いの持つ基幹民族の人口がほぼ拮抗していたという要素が見逃せない。
つまりは互いに全面戦争にでもなったら危ないので、出来る限り話し合いで解決しようという事だった。
そして、所謂「ビスマルク政治」と自らの膨張政策によって、ヨーロッパで一定の安定と成果を得たロシアは一息つき、次なる懸案であるウラル山脈の東へと目を向けるようになった。




