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ジパング大航海時代  作者: 扶桑かつみ
27/38

フェイズ27「新大陸統一」

 一年間という自らが優位に立てる期限を知っているアメリカ側は、1863年の春が来る前に戦線の整理と兵力の再編成を開始した。

 彼らの中に、講和や停戦という文字はなかった。

 それが許されないことを知っていたからだ。

 

 アメリカは蓬莱の占領地で、それだけの事を行っていた。

 戦場を見てきたアメリカ軍兵士達、つまり働き盛りの男達の多くが、蓬莱の人間が許してくれないことを肌で実感していた。

 政府の掲げた理想の実体がどういうものだったかも理解していた。

 

 そして蓬莱が戦争を投げ出すまで、後は粘り強く戦うだけだった。

 戦争目的からは遠く及ばなかったが、それなりの占領地は得る事ができたのだ。

 後は耐えればよかった。

 多くのアメリカ人はそう考えて、以後数年間を戦い続けることになる。

 

 そして1862年の戦いでは、おおよそ予測通りの戦いを展開する事ができ、蓬莱領に踏み込んでいたアメリカ軍は、蓬莱の巨大な軍隊を各所で押しとどめる事に成功していた。

 

 一方で蓬莱の統合政府は、初期の危機的状況を回避できた事にまずは満足し、後はじっくりとアメリカを圧倒していこうと考えて、敵が引いた地域以外での無理な奪回戦や前進はあまり行わなかった。

 1862年の戦いが停滞気味だったのも、戦争の方式を従来のものから近代的な総力戦に塗り替えるための準備期間だったのと同時に、蓬莱中枢の政治的判断が影響していた。

 

 アメリカ側の戦線密度が希薄な南部では、機動戦による反撃が可能だとして不満を持つ将軍や兵士も増えていったが、統合軍総司令部は認めなかった。

 それに蓬莱では、反撃よりも先に疎開民、避難民の救済、占領地回復後の現地救済が先だった。

 

 しかし蓬莱の動きは、これまでの世界史上でどの国よりも早く、しかも巨大だった。

 


 一年後の1863年春、蓬莱軍による国土奪回とアメリカ侵攻作戦が開始される。

 動員された兵力は、末端まで含めると実に450万人にも及んだ。

 今までの戦争では考えられない規模の軍隊が出現したのだ。

 これに対してアメリカは、動員の徹底強化で対抗した。

 18才から45才までの男子が徴兵対象とされ、奴隷以外の国民の15%以上に当たる230万人の兵士が揃えられた(※既に10万人が戦死している)。

 

 つまりこの時点で、双方合計700万人近くの兵士が戦場でまみえた事になる。

 しかも蓬莱はアメリカのなりふり構わない動きを見てさらなる動員を実施し、さらに150万人の兵士を国内の各地で訓練しつつあった。

 しかも蓬莱の場合は、1863年の段階では義勇兵や志願兵を除けば18才〜30才までが徴兵範囲だった。

 しかも兵役3年を越えた兵役者は、除隊が許されていた。

 その気になれば、さらに100万人以上の動員が可能だった。

 国民扱いされていない移民から3年以内の者を含めれば、さらに50万人の動員が可能だった。

 アメリカのような形振り構わない徴兵を行えば、1000万人というこの時代としては空前の数字も見え、総司令部の一部ではその場合の動員計画や兵站見積もりすらが行われていた。

 

 蓬莱という若い国家が、それだけの統治能力と鉄道を中心とした流通能力、そして高度な行政及び社会システムを既に備えていたからだ。

 

 脳天気な日本や日本人圏内からの義勇兵や傭兵の数も数万の単位に達していたが、戦争初期はともかく既に象徴的な意味合いしかなくなっていた。

 十万騎を数えた自軍の先民騎馬隊ですら、軍全体のあまりの規模を前には存在がかすむほどとなっていた。

 

 そしてこの戦争の恐ろしさは、動員された兵士の数が今までの歴史上例がないという事だけではなかった。

 兵士を養うために用意された兵站物資の量も、それまでの戦争とは桁違いだった。

 特に蓬莱側が用意した物資の量は尋常ではなく、この大陸が持つ豊かさをこれ以上ないぐらい示した戦いとなった。

 アメリカ側も国家存亡がかかっているので、国内から総動員を行うと同時に、大量の物資を自国内ばかりかヨーロッパからも得ようとしたが、多くは叶わなかった。

 

 開戦から二年が経過する1863年秋になると、アメリカ海軍は完全な艦隊保全状態に陥っていた。

 海岸部には圧倒的に優勢な蓬莱海軍が海上封鎖を実施して、ヨーロッパの船はアメリカの港に入れなくなっていた。

 逆にアメリカ側から包囲網を破ろうとしても、圧倒的戦力で多くが沈められるか追い返された。

 私掠船による海賊行為(通商破壊)を仕掛けてみても、一時的に自国の新聞を賑わして敵を少しばかり翻弄するのが精一杯だった。

 しかもフロリダ半島先端部もすでに蓬莱の手に帰しており、補給拠点を得た蓬莱統合艦隊に対抗する術はなかった。

 しかも蓬莱は、新大陸の北東部沿岸に元から領土を持っていたので、アメリカに占領されなかった港という港が、アメリカ封鎖のための拠点となった。

 

 蓬莱側もここまで散財した以上、どちらかが完全降伏するか滅びるまで、戦いを止める気はない事を伝える徹底ぶりだった。

 

 なお蓬莱でも、あまりにも膨大な量の物資を短期間で用意する事は流石に難しかった。

 このためアメリカが海上封鎖されると、蓬莱側に与した全ての国が喜び勇んで貿易船に物資を満載して蓬莱領を目指した。

 この動きは、日本やカナダだけではなかった。

 ドイツもフランス本国と友好関係を結んでまでして、大量の物資をセントローレンス川奥地やメヒコ湾奥の新折鶴市へと送り届けた。

 それまでアメリカ側に物資を輸出していた国も、蓬莱を目指すようになった。

 

 そして一番の戦争特需の恩恵を受けたのが、当初から局外中立を掲げていたカナダだった。

 

 カナダは既にフランスから完全独立していたが、この戦争でヨーロッパ全体からようやく脚光を浴びるようになった。

 ヨーロッパから北米二カ国を目指す船が、航路の問題(テル・ヌーヴ、アカディアがヨーロッパから一番近い)もあってまずはカナダに入った。

 そして船と物資は主に蓬莱を目指すが、一方では蓬莱が止めるのも聞かずアメリカを目指す物資も数多かった。

 蓬莱も流石に強行突破する他国の船を沈めたり臨検する事は、国際問題を気にして行わなかったし、アメリカがなけなしの純金を使ってまでして物資を購入していたからだ。

 また特需による経済及び産業の発展を受けてカナダへの移民も激増し、カナダ自身の発展も大きく進展した。

 南のメヒコも、蓬莱からの天井知らずの受注によって、それまでの財政赤字や貿易赤字が嘘のように大きく潤った。

 

 そして孤立するアメリカ人の努力は、三倍以上(総人口差は三倍半)という国力差を前にしてはおのずと限界があった。

 人口ばかりでなく、鉱工業生産力、農業生産力、銀行預金高、鉄道敷設距離、船舶量、全てが三倍以上の格差であり、既に世界最大級の生産力を誇っていた蓬莱に太刀打ちできるものではなかった(※ただし工業生産高は、この頃はブリテンが一番だった。)。

 

 しかも蓬莱は、戦争中に大陸横断鉄道をさらに2本も同時に敷設しており、膨大な量の鉄を供給するべく国内各所では巨大な製鉄所の建設を行い、国力の違いを見せつけていた。

 

 蓬莱という国家は、自らが全力で行っている戦争という悪魔の所行において、「総力戦」という新たな魔物を人類の歴史上に呼び出そうとしていたのだ。

 


 総力戦、兵站の戦いで敗れたアメリカ軍だったが、当面の戦場の多くでは膠着もしくは一進一退を維持していた。

 特に北部は、早くから近代的な塹壕戦、陣地戦になっていたため、余程の兵力差がない場合を除いて、戦線が動くこともなかった。

 野戦要塞と塹壕、旋条銃(ライフル銃)の十字砲火を前にしては、先民の騎馬隊と言えど突破は叶わなかった。

 この時代、砲兵の射程は旋条銃の面制圧における最大射程とさほど変わらなかったが、互いの容赦ない旋条銃の応酬が、各所で凄惨な戦場を作り上げていた。

 

 しかしアメリカ南部は違っていた。

 アメリカ側の兵力密度が低かったため陣地戦や塹壕戦が難しい南部では、当初から機動戦となった。

 そして蓬莱側の大軍と鉄道を用いた雄大で大胆な機動戦で、アメリカ軍の南部戦線はもみ潰されてしまう。

 実質的な決戦場も、一面綿花畑が広がる南部の広い地域を舞台にして行われた。

 数万の規模を持つ先民の旋条銃騎馬隊も、ここでは縦横に活躍した。

 後の娯楽作品の定番となるスー族など大草原諸部族の派手やかな羽冠は、アメリカ兵の恐怖の的であった。

 

 そしてこの機動戦でその名を轟かせたのが、楊将軍だった。

 新折鶴で功績を挙げた同将軍は、統合司令部より二階級特進を受けて南方軍集団総司令官にして、軍の最高位として新たに設けられた元帥に就任した。

 そして最大約200万人を越える兵力を縦横に駆使して、魔術師や奇跡と言われた戦闘を実施。

 アメリカ南部を瞬く間に塗り替えていった。

 

 あまりに見事な大兵力を用いた分進合撃と各個撃破戦術、そして火力を集中する戦法によって、孔明ではなくナポレオンの再来だと言われたほどだった。

 特に彼がフランス人の血を持つ事と彼自身の民主共和制に関する肯定的なコメントが多い事から、内外を問わずフランス人の間で彼の人気は高まり、特にカナダでの人気は高かった。

 

 もっとも同将軍は、民主共和制国家同士が死力を尽くして戦う状況を酷く嘆く文書や記録を、その後数多く残す事になる。

 


 窮地に追い込まれたアメリカ南部だったが、北部と仲の悪かった南部人は、戦争がどうしようも無くなると事実上の裏切りを実施する。

 敗北と蓬莱軍の占領により奴隷制を維持できなくなったのだが、蓬莱及びアジアから安価な労働力が得られると分かると、手のひらを返したように蓬莱の支配を受け入れる姿勢を示したのだ。

 それに蓬莱ならば、欧州諸国との自由な貿易もできた。

 また簡単に占領地が塗り代わった南部戦線自体が、中部以北と違ってそれほど凄惨な戦場でなかったため、蓬莱側も比較的寛容だった。

 

 しかし1863年秋に南部人の手で「奴隷解放宣言」が出されると、北部人の徹底抗戦の意思をかえって固めさせてしまう。

 一部の戦線では、蓬莱側の予想外の攻勢によりアメリカ軍が優位となる場所も出たほどだった。

 南部の行いは、明確な裏切りと映ったのだ。

 

 しかしアメリカ唯一の穀倉地帯であるバージニアにまで蓬莱軍が溢れると、塹壕と要塞で固守体制を固める北部のアメリカ軍にもほころびが見え始める。

 既に戦力差は三倍以上、物資も乏しく、国民には最低限の配給すら難しくなっていた。

 

 だがそれでも、アメリカは屈しなかった。

 蓬莱側もここまできた以上講和はあり得ず、全てを蹂躙する準備を着々と進めた。

 

 蓬莱連合にとって、後は掃討戦だと考えられた。

 

 しかし南部での体制を固めている間に冬を迎えてしまったので、総攻撃は翌年に持ち越された。

 流石の蓬莱連合も、冬にはまともな戦争はできなかった。

 

 そして1864年春、600万人にまで肥大化した蓬莱統合軍三個軍集団は、戦線全体で全面攻勢を開始した。

 これに対してアメリカ軍は、突破されそうになった戦場で、世界で初めて毒ガスを使用した。

 使用初期の混乱以外で実質的な効果はあまり高く無かったが、世界中の軍事関係者に衝撃が走った。

 

 一方の蓬莱側も、連絡に電信を用いたり、農業用に開発されたトラクターを戦場での物資牽引に利用したり、軟式飛行船や潜水艦を投入するなど、最新科学の兵器への使用に積極的だった。

 先民の伝統的騎馬隊が旋条銃を持ち、それを馬車に積載された多銃身砲が支援するという情景が、当時の蓬莱軍をよく表していると言えるだろう。

 


 なおこの戦争において蓬莱軍は、統合参謀本部を設けて巨大な軍団を制御・統制し、600万人の将兵と義勇兵や民兵、それを支える巨大な兵站物資の流れを効率的に行った。

 

 そして戦争半ばから蓬莱軍総司令官となったのが、元下級武士階級出身の勝義邦(後の勝海舟)だった。

 

 勝義邦は、若干12才の少年兵として独立戦争に参加(終戦時は17才)して、そこでの活躍を認められて独立後に将校としての教育を受け直した。

 しかし独立後の蓬莱では、先民の戦士(民兵)はともかく、軍人は職種として人気が低くかった。

 しかも統合戦争当時には、独立戦争を率いた人々は既に老齢となるか鬼籍に入っていた。

 (※蓬莱独立戦争は約5年続き、戦争終了から統合戦争開戦までは21年の時間がある。)

 無論、勝義邦より年長な将軍や高級将校は開戦時に一定数いたのだが、彼らの多くが海軍を除いてほとんどが緒戦の戦いで戦死するか重度の負傷を負ってしまう。

 前線指揮を行う連隊長や旅団長ばかりか師団長クラスまでが、簡単に戦死するような戦争だったからだ。

 彼が生き残っていたのも開戦当初海軍の海兵隊に属していたためで、海兵隊として陸戦も知っていた事で急遽陸軍へ転属を命じられた。

 

 そして大規模な動員が開始される頃には、蓬莱軍全体が将校を中心に人手不足となっていた。

 軍の急速な肥大化も人手不足に拍車をかけた。

 かくして、独立後最初に再教育を受けた世代でほとんど唯一軍に残っていた将官(陸軍転属当時は少将で、戦時中将となっていた)の彼に、1962年の夏に総司令官の役職が回ってきた。

 

 彼は緒戦のアメリカ軍の攻勢が鈍化する頃にアメリカ軍と対峙してかなりの功績を挙げ、それが評価されたという形になる。

 

 また残っている者の中で、彼の上となると60才に入った老将ばかりで、とてもではないが総力戦に対応できる柔軟性と能力はなかった。

 また40代、50代の高級将校や将軍も若干残っていたが、彼らの多くが古い戦争しか知らないため、未曾有の近代戦を率いるのは難しかった。

 緒戦を生き抜いた一部の将軍は、自分は新しい戦争は知らないと自ら前線から動かない者も多かった。

 このため本格的な反攻までに揃えられた大軍団を、中央で指揮すべき人材が不足したため、新しい知識を持っていた若い世代が戦争を担うこととなったのだ。

 

 なお勝義邦が、当時の統合議長井伊直弼や軍中央の有力軍人の一部からの強い信頼を受けていたことが、彼の総司令官就任の決め手になったとも言われている。

 

 また将兵や国民は、彼の名を逆から読むと「邦に義して勝つ」となることから、国と軍が縁起担ぎしたのだと噂し合った。

 


 勝義邦は、39才で統合軍総司令官となり有史上世界最大級の兵力を率いる事になった。

 だが、司令官となって以後の彼は、当時の蓬莱には珍しく典型的な旧日本型の将帥だった。

 責任以外の全てを部下に任せ、彼自身はここぞという時の命令以外は、承認の印鑑を押すだけで泰然自若として過ごした。

 終始座談を好み舌鋒鋭く政府の批判すら行うが、仕事は司令部の若い将軍や参謀達に任せていた。

 彼と同じく若い部下達も、前線時期の活躍と指示の的確さもあって、彼のそうした姿勢を支持した。

 

 そして彼の下ので辣腕を振るったのが、開戦時37才で戦争二年目に統合参謀長となった大村益次郎大将(戦時最終階級=元は少将)であった。

 彼は開戦前から秀才の誉れも高く、今秀吉と言われる軍事的才幹を発揮して、世界史上初の総力戦と圧倒的な物量戦を描いて見せた。

 なお彼もまた独立戦争を最年少兵として戦っており、勝義邦とは士官学校の先輩後輩の間柄でもある。

 ただ独立戦争時は医療兵として活躍しており、その性格もあって紆余曲折を経て中央の参謀職でこの戦争を迎えていた。

 また大村の部下で後方主任参謀長には、開戦時34才に過ぎなかった小栗忠順中将(戦時最終階級=元は予備役中佐で在野していた)が大村とほぼ同時期に抜擢され、巨大な軍隊の後方運営を行い戦争推進の大きな力となった。

 総司令官の勝よりも、二人の合理的戦争指導者の名声は遠くヨーロッパにも及び、戦後モルトケが直に会談を申し込んだほどだった。

 戦争終盤にアメリカ軍の総司令官となったユリシーズ・グラントも、この二人が居なければ少なくとも戦争には負けなかったと戦後の談話で断言している。

 

 当時の蓬莱連合を率いていたのは、そうした働き盛りの若い男達だった。

 最前線で部隊を率いていたのも、大佐クラスですら20代の若者がゴロゴロしていた。

 大隊長や連隊長クラスなど、大学生や大学を出たばかりのただの会社員が速成教育で戦時任官させられるなどザラだった。

 中には立身出世を狙って大佐や将軍になりたがる者もあり、わざわざ志願兵部隊を作る者まであった。

 志願兵連隊を自ら組織すれば、その時点で連隊長(大佐)に戦時任官されるからだ。

 その中でも、新撰組と自称した第326師団を率いた近藤勇(戦時中将)と土方歳三(戦時少将)が、戦争での活躍もあって有名だろう。

 

 徴兵は17才以上(開戦時は18才で1864年に1才低下)とされていたが、20代の将軍も戦功と能力次第ではザラにいた。

 年齢を偽った15才程度の志願兵もいた。

 新折鶴の楊元帥も、開戦頃は20代だった。

 若者達は、約四年間の国運を賭けた総力戦を駆け抜けていったのだ。

 

 また一方では、蓬莱側が総力戦を戦った証として、民兵や義勇兵の中には看護以外での女性の活躍も個人の記録を中心に数多く残されている。

 軍の事務の多くも女性が担った。

 民間での活躍は挙げるときりがないほどだ。

 蓬莱全土で女性の社会進出が大きく進んだのも、この戦争を契機としている。

 

 ドイツ軍のモルトケ将軍が、「ホーライは女子供の集団だ」と開戦頃に表現したのも仕方のない事だった。

 また蓬莱には、それだけ若者が溢れていたとも言えるだろう。

 そして全ての階層が若いため柔軟性に富んでおり、彼らはどん欲に新たな戦争に対応していった。

 

 アメリカの宿将ロバート・リー将軍(戦争中盤から総司令官だった)は、そうした若く未熟な蓬莱軍を何度も戦場で撃退したが、その都度蓬莱軍は態勢を立て直して力を付けて挑み、ついにはリー将軍の部隊を力と新たな技で押しつぶしてしまった。

 これこそが、物量に勝る蓬莱が選択した合理的で確実な戦争であった。

 また集団の力こそが、蓬莱の力の原動力だった。

 そう言う点では、日本人移民や先民が伝統的に持っていた共同体組織が大いに活かされた戦争だったと言えるだろう。

 

 なお、1863年秋の南方軍集団による空前の大規模機動戦術が、前線指揮に出ていた当時合衆国軍総司令だったリー将軍を戦場にて捕虜にせしめたのだが、リー将軍の生来穏和な性格がその後南部でのアメリカ軍の武装解除と安定した占領統治に大いに役立つことになった。

 

 そして蓬莱側が最強の敵と認識していた将軍を倒した事で、蓬莱側の総攻撃に拍車がかかった。

 

 リー将軍を破ってヴァージニアを平定しつつある蓬莱南方軍集団の目標は、首都ジェファーソン。

 中央の西アパラチア軍集団の目標は独立の町フィラデルフィア、ノイエスラント軍集団が目指すのは商都ニューヨーク。

 そして最後は全軍を挙げて、敵が最後に籠もるであろう古都ボストンを目指すことになっていた。

 


 しかしこの段階で、ブリテンを始めヨーロッパの多くの国が、ほとんど連名で蓬莱連合並びにアメリカ合衆国に「意見」した。

 

 戦争の帰趨はすでに決しており、講和して戦前の国境に戻すべきではないか、と。

 

 これに対して、アメリカを併合する気満々だった蓬莱連合は、内政干渉だとする国際法に照らした解答によって丁重に謝絶。

 亡国の危機にあったアメリカ側でも、既にヨーロッパ寄りの南部地域が脱落していたため、むしろ旧大陸に対する反発が強まった。

 旧大陸へ反感では蓬莱もアメリカも意見が一致しており、例え国が滅ぼうとも旧大陸の意見に従う気はなかったし、泣きつく気もなかった。

 倒れるときは移民らしく前のめりでなければ、最後の誇りすら失ってしまうからだ。

 

 また「意見」した側の欧州列強だったが、戦争に軍事介入する気は全くなかった。

 数百万の軍隊が活発にうごめき、数百隻の艦艇で海上封鎖を行うような相手に、戦争など出来るわけがなかった。

 

 そしてこの戦争以後のヨーロッパ勢力は、文明化された日本人及び有色人種の勢力圏に対して、大きな脅威を現実的に持つようになっていく。

 

 一方で、カナダに影響力を持つフランスなどは、もっと穏便に現状を確認するというレベルでの停戦会議の開催を提案したが、それも互いの国から丁重に謝絶された。

 元宗主国の日本は蓬莱に対して特に何も言うことはなく、事態がここまで進んだ以上むしろ蓬莱による新大陸統一を後押ししていた。

 事実、多数の日本系傭兵や義勇兵が蓬莱側で戦っている事を、日本政府も承認していた。

 日本国民の多くも、脳天気に蓬莱の勝利を願うようになっていた。

 

 全ては、蓬莱での全面戦争のおかげで、日本及びその影響圏が未曾有の好景気に沸いていたからだった。

 

 この日本の奇妙な動きは、その後日本と蓬莱の関係を友好的なものとする大きな一歩となり、この後台頭する「汎太平洋主義」に大きな影響を与えることにもつながる。

 


 そして、全てを新大陸の中で決着を付けると決めた二つの民主共和制国家は、東部海岸北部を最後の決戦場として激しい戦闘を開始する。

 各地で激戦が展開され、アメリカ側は蓬莱の進撃を遅らせるために自国領内での焦土戦術を実施した。

 その規模は、復讐心に駆られてアメリカに攻め込んだ蓬莱兵をして、取り残されたアメリカ市民に助けの手を伸ばさせるほど凄惨なものだった。

 

 そして圧倒的物量と戦力を誇る蓬莱軍も、あまりにも激しい抵抗と焦土戦術のため前進ははかばかしくなかった。

 だが兵力の差、地力の差は如何ともし難く、アメリカ軍は確実にすり減らされた。

 4度目の冬営を挟んだ1865年春を迎える頃には、沿岸部主要都市の多くが蓬莱軍の包囲下に置かれ、各地の大都市は頑強に抵抗するも飢えと寒さ、そして疫病(主に風邪やインフルエンザ)に悩んだ。

 

 疫病は包囲している蓬莱軍側にまで広がり、一時は疫病のせいで戦闘が停止したり、互いの合意で一時休戦が成立するほどだった。

 蓬莱の民間看護団体による、アメリカ市民に対する人道的救援が行われた場所もあった。

 だがそれも、春の到来と共に温かくなると沈静化し、蓬莱軍は最後の前進を開始する。

 

 ジェファーソン、フィラデルフィア、ニューヨークが次々に陥落や開城していった。

 アメリカ政府組織が逃れたボストンも、十重二十重の包囲下に置かれ、ついに陥落。

 

 アメリカ合衆国は自らの決意と最後の意地を見せ付けたが、アウステルリッツやワーテルローのような決戦が遂に発生しないまま、近代的な総力戦の中で滅亡していった。

 

 建国からわずか半世紀の事であった。

 

 また一方では、蓬莱大陸中央部はついに蓬莱連合共和国によって統一された事になる。

 これは日本人における新大陸の優位を決定的なものとし、以後の帝国主義時代にも強い影響を及ぼした。

 

 そしてここに「アメリカン・ドリーム」は文字通り終焉を迎え、「努力が報われる国・蓬莱」の宣伝文句が新大陸を覆うことになる。


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