●フェイズ26「統合戦争」
1861年の夏も終わりにさしかかったある日、西アパラチアのヨーロッパ系移民のごく一部が、アメリカ合衆国への庇護を求めた。
理由は有色人種による搾取と差別、さらには暴力に耐えられなくなったからだとされた。
そして彼らと同じ境遇の者の救済を、合衆国政府に訴え出た。
同じ日、蓬莱とアメリカの国境で銃撃事件が発生した。
アメリカ政府に庇護を求めた白人達は、蓬莱から逃れてくる際に、蓬莱軍に銃撃を受けたと訴えた。
この二つの事件は、翌日にはアメリカの新聞のトップを飾り、少し前から加熱していた反蓬莱報道に一気に火を付けた。
そして一週間も経たないうちにアメリカ全土を揺るがす世論となり、国境近くの人々が群を成して蓬莱国境に押し掛けた。
ここで蓬莱の国境警備隊が国境を閉ざし、アメリカ市民との間で押し問答となった。
そして集まる民衆の数は増加の一途を辿り、これに呼応したアメリカ合衆国軍は、直ちに出動。
アメリカ市民を守るためとして国境線へとかなりの規模の軍を進めた。
これに対して蓬莱連合政府は、アメリカ側で発表された事は事実無根であると発表。
同時に、国境警備隊に絶対に先に手を出してはいけないと命令を出し、自国民並びに自国の移民に対して節度ある行動と冷静な対処を求めた。
一方では、アメリカ側の対応如何では断固たる態度をとるとの声明を即座に発表して牽制した。
当然だが、許可無く越境した場合は蓬莱の法に従って裁かれることも改めて宣言された。
既に蓬莱政府をしてそこまでの発表を行わせるほど、蓬莱とアメリカの国境線での事件や押し問答が多発し、緊張が増していた。
国境各地の街道は麻痺状態となり、文物の流通も大きな支障を来していた。
そして既に鉄道と電信が巡らされた蓬莱連合国内において、国の東西の時間差はほとんどなくなっていた。
事件が新聞各社により報道され始めると、気の早い者の中にはさっそく民兵となる準備を始める者までいた。
特にアメリカから逃れてきた者の多い先民たちの動きは早く、自らのネットワークを使って同族の団結と集結の準備を始めた。
ただし蓬莱の軍隊そのものは、アメリカとの戦闘はあまり考慮されている状態ではなかった。
アメリカとの国境には、主要街道に越境と密売対策のための警備用の小規模な部隊や通常レベルの国境警備隊がいるぐらいで、万が一戦争になっても何も出来ないに等しかった。
住民の多くが武装して平時から民兵化している地域もあるため、これに対処する警察組織の方が軍よりも戦闘力が上なのではないかと言われていたほどだ。
事実大隊以上の規模を持つ正規軍部隊は、国境のずっと後方に位置しており、これですらアメリカの軍備増強と緊張増大に対応して慌てて送り込まれたものだった。
新大陸での圧倒的な国力の優位が、蓬莱連合の平和ボケとすら言われた状況を生みだしていたのだ。
そして今まで問題が発生しても、交渉や声明によってアメリカ側も引き下がる動きを続けていた。
蓬莱側は、今回もそのうち沈静化するだろうと見ていた。
だが、今度のアメリカはやる気だった。
過去数度アメリカ政府が引き下がったのも、蓬莱側を油断させるための欺瞞であった。
それほど長期の計画で、アメリカは今回の戦争を構想していた。
開戦に際してアメリカでは、正規軍だけで30万人が用意され、その気になれば全国民の一割(黒人奴隷を除いた総人口は約1600万人)に当たる約160万人が動員可能な体制を既に整えられていた。
表向きはブリテンとの全面戦争を想定していたが、実際は蓬莱との戦争を考えていた。
このため祖国防衛戦争には不要なほどの兵站組織が、動員計画には組み込まれていた。
ほとんどオフレコで進められていた物資や弾薬の備蓄も、かなりの量となっていた。
そして突然のように発生した蓬莱との間の緊張状態に対して、アメリカ政府は予備役動員開始の命令を発する。
当時としては、明確な戦争行為だった。
一方の蓬莱連合は、開戦時の陸軍常備兵は約10万人。
徴兵制度はなく、全て志願兵により構成されていた。
予備役の数は、国民の数が多いだけに元軍人や訓練を経た登録者は約40万人あった。
将校の数も、常備軍の規模に比べると多く揃えられていた。
蓬莱陸軍は、努力して動員による戦時の兵力確保を考えた軍備を平時から準備していた。
国全体の発展のために、軍事費に極力金をかけないためだ。
このため、ミシシッピ川より東にいた当初兵力は、わずかに2万人しかいなかった。
一ヶ月以内に招集できる予定の予備役を含めても、10万人を越える程度でしかなかった。
しかも広く分散されていた。
海軍は5万人規模で、従来の戦列艦などの帆船軍艦ばかりか、最新鋭の蒸気軍艦も多数有して訓練も行き届き、既に列強屈指の戦力を保持していた。
予算規模も、陸軍3割に対して海軍が7割あった。
しかしこちらも、海軍力の実に八割近くが太平洋艦隊に属しており、メヒコ湾艦隊、大西洋戦隊に属しているものは少なかった。
ここからも、蓬莱が日本に目を向けていた事が分かるだろう。
蓬莱の軍事ドクトリンの基本では、強い敵は海を越えてやって来る前提になっていた。
ただし連合内の各自治国ごとでの軍事力は一部の地域の強い要望もあって例外とされ、アメリカに近い自治国での民兵の訓練は定期的に行われている場合が多くなっていた。
特に先民が多いミシシッピ川諸国は、民兵の訓練が頻繁に行われた。
五大湖の北東部にあるイロコロ首長国では、特に熱心に民兵の編成と訓練が行われていた。
また重武装治安維持組織としての自治軍の整備を熱心に行う国も多く、兵器や弾薬の備蓄を行っている場合が多かった。
また大平原では、牧場経営している先民の部族丸ごとが、騎兵の民兵そのものと言えた。
しかしあくまで民兵や軽武装軍であり、正規軍に比べるべくもなかったし、平時での規模も限られていた。
特に砲兵戦力と兵站能力に欠けていた。
アメリカは、この蓬莱の不備を突くことに自らの勝利を見ていたと言えるだろう。
そしてアメリカ軍の主力部隊が秘密裏に国境に進軍するとほぼ同時に、戦争が開始された。
1861年9月3日の事で、宣戦布告もない、銃弾も飛び交わない、静かな開戦だった。
ついに国境を越えたアメリカ軍は、まずは火事場泥棒的な手法を最初に行おうとした。
最初はヨーロッパ系移民にアメリカへの合流を求め、武器を用いない併合を画策しようとしたのだ。
これに対して西アパラチアでアメリカ軍を最初に迎えたのは、主にドイツ系移民、東欧系移民、アイリッシュ移民たちだった。
何しろ最初に国境を越えた先にあった国の一つが、白人移民の多いノイエスラント共和国だった。
そしてこの地域は、五大湖主要部とイロコロを結ぶ場所に位置していた。
鉄道と街道でミシシッピ川上流域にも通じていた。
五大湖やミシシッピに至る、最初の通過点だった。
しかも無尽蔵の石炭がある、蓬莱最大級の鉄鋼産業地帯だった。
つまり、戦略的な要衝に位置していたのだ。
そして白人移民の説得を意図していたアメリカ軍は、自国に流れてきた同じ民族を立てて説得に当たった。
白人一般の価値観に沿って考えれば、この程度で有色人種に「支配、搾取されている」同胞たちは自分たちの側に喜んで組みすると考えていた。
無論アメやムチもちらつかせていた。
それが国家や権力というものだし、その点でアメリカ合衆国政府及び軍は冷静かつ冷徹だった。
そして一度行動を始めた以上、欲しい物は必ず手に入れる気概で望んでいた。
アメリカは良くも悪くも、移民の国だった。
そして今回、失敗は許されなかった。
しかし国境の向こうの「同胞達」の価値観は、「アメリカ人」とは少し違っていた。
彼らは既に有色人種と共に暮らしていたし、有色人種が中心を占める国や政府を特に悪いとは考えていなかった。
もともとそれを承知で移民しているのだ。
さらに言えば、蓬莱に住む有色人種達は白人一般よりも偏見は低くそれなりに公平だった。
アメリカに行けば奴隷となるか公然と差別される黒人達は、子供達なら学校で机を並べ、白人が黒人に使われている場合も存在した。
有色人種優位という点を探すならば、大資本家と言えば当時は日本人がほとんどだったが、それは彼らが先んじて新大陸に至って努力を積み重ねた結果が殆どだった。
蓬莱においては、不満を言う方がお門違いだった。
それにどう見ても、自分たちの方が豊かで満たされた生活をしていた。
その事は、アメリカ軍の一般兵士を見れば明らかだった。
このため蓬莱の白人達は、このまま自国に帰ることを侵攻してきたアメリカ軍に勧める。
蓬莱は理想郷ではないが、ほとんどの者はあなた達に賛同しないだろうと。
しかしこれが逆にアメリカ人とアメリカ軍のプライドを著しく傷つけ、一転武力を用いた侵略が開始される。
そしてそこからは凄惨な侵略戦争となった。
一国の正規軍丸ごとが、他国を侵略するという歴史上希有な例の近代における号砲だった。
そして人種間戦争に相応しく、凄惨な状況が蓬莱国境の各地で現出した。
特に日本人、先民など有色人種へのアメリカ軍の態度と行動が酷かったために、瞬く間に凄惨な状況が広がっていった。
後にアメリカ軍占領地並びにアメリカ国内に、有色人種の強制収容所や監獄が多数作られた事でも象徴される状況だった。
しかもアメリカ政府は戦争序盤の政府声明において、新大陸の白人以外のものは自然物であり人間に値しないとまで放言していた。
アメリカの理想が何であるかをこれ以上ない形で見せられた蓬莱側の移民たちも、態度を鮮明にして全面対決を決意した。
また蓬莱国民の感情として、旧大陸の呪縛から解き放たれた同じ新大陸の民主主義国家が攻めてきた事に対する一種の裏切り感情が、強い敵意を燃え上がらせていた。
戦える者は、政府組織がまだ生きているのなら志願兵となった。
敵中に取り残されても、ゲリラとなって抵抗を続けた。
徴兵年齢にない者も、進んで義勇兵や民兵となった。
女性が銃を取った例すら記録されている。
ナポレオンに抵抗したスペイン人にできたことが、海を乗り越えて新たな生活を成功させた自分たちにできない筈はないと蓬莱国民は考えた。
また人口希薄な農業地帯では猛獣や強盗もいたため多くが武装していた事が、この抵抗を比較的容易なものとした。
何しろ持っているのは同じライフル銃だった。
しかも狩猟は中部平原での男のたしなみのようなもので、銃の撃ち方なら蓬莱人の方が優れていた。
蓬莱の狙撃兵は、早くからアメリカ兵の恐怖の的だった。
また先民の多くは一定の武装をしたままの村落や共同体を維持している場合が多く、すぐさま伝統の装束に蓬莱軍を示す証を付けると、各村落や集団ごとに民兵集団となっていった。
日本人移民も、農村豪族的状況のまま移民している農村が多いため、こちらの民兵集団も無数に上った。
本来は強欲な盗賊や野盗のための武装だったが、蓬莱国民にしてみれば、アメリカという巨大な野盗の集団に襲われたようなものだったのだろう。
そして戦争の矢面の一つとなったドイツ移民の牙城、最も東にある鉄鋼の街アイゼンブルグは、周辺部の炭坑、ボタ山を拠点として連携させた俄要塞地帯として、アメリカ合衆国軍を頑強に押しとどめた。
新大陸で、再び白人同士も敵対したのだ。
そしてアメリカ軍は、予期せぬ場所からの奇襲や補給部隊や後方拠点への攻撃、そして敵中での不案内もあって進撃ははかばかしくはなかった。
インディアン(先民)の騎馬襲撃隊の前に、いいように後方拠点や補給路を破壊された。
アメリカでは奴隷の黒人達も、自らの意思でアメリカ軍を攻撃していた。
そして戦争に慣れていない徴兵されたアメリカ兵達は、慣れない相手に翻弄された。
新大陸の東部沿岸部にへばり付いていたアメリカと違って、蓬莱は広大だった。
特に北部出身者は、蓬莱の大きさに戸惑った。
その有様は、遠くヨーロッパでドイツの宿将モルトケが、戦争に値しないと言ったほどであった。
いざ戦争が始まると、侵略を受けた後の蓬莱連合政府の動きはアメリカが予測したより遙かに早かった。
もしかしたら侵略されることを待っていたのではないか、と言われたほどだった。
アメリカ軍が国境からいくらも進んでいないところで民兵や義勇兵相手に酷くもたついている間に、時間を得た西海岸の蓬莱軍主力が即座に移動を開始した。
国中の予備役動員も即座に開始された。
事前に定められていた戦時法も直ちに施行された。
各地では戦時法に従って大規模な徴兵と動員が始まり、武器庫からは武器が放出され、工場や鉱山は操業体制を強化して順次戦時生産へと移行していった。
実のところ日本本国の侵略に対して決められた動きであったのだが、建国以来日本軍の突然の大規模渡洋侵攻に対して入念に準備していただけに、蓬莱の動きは極めて早かった。
常備軍主力が西海岸にいたのも本来は日本軍に対抗するためだったし、国中に作り上げた鉄道網は素早く軍隊を西海岸に持ってくるためだった。
それが全て東西逆で動き始めただけだったのだ。
何しろ蓬莱は、建国からまだ四半世紀しか経っていない若い国だった。
移民以外の30才代以上の国民なら、独立戦争を直に記憶しているほどなのだ。
しかも政府の命令が下りるが早いか、蓬莱中の先民達は自分たちの意思伝達系統に従って東を目指し、蓬莱軍主力が到着するまでの貴重な時間を稼ぎ出す戦いを半ば独自で開始した。
近代と前近代の二重体制で戦争初期を戦った事が、アメリカの国境深くの侵略を阻止する力となったのだった。
そしてこの戦争は、皮肉にも蓬莱の国民全てを初めて完全に団結させる出来事となった。
先民の間での蓬莱全体での結束も、何だかんだ言ってこの戦争を契機としている。
また時の統合議長が、独立戦争当時の学生運動家として有名人だった井伊直弼だった事も、国民の広い世代の間の支持を得る大きな要素となっていた。
彼の存在が、独立戦争を知る古い世代と従軍していった新しい世代を結びつけたからだ。
井伊直弼が独立戦争当時に叫んだとされる「全ての国民に、自由と平等、そして勝利を!」という決め文句は、この統合戦争でも盛んに言われる事となった。
そして第七代統合議長井伊直弼は、即日統合議会にアメリカ合衆国に対する宣戦布告を提案した。
また議長権限で、国家非常事態宣言が即日発動された。
翌日開かれた統合議会は、突然の招集で議員の数が足りないながらも、満場一致で議長の提案したアメリカ合衆国への宣戦布告を採決した。
議員全員が起立した万雷の拍手の中での採決だった。
蓬莱連合共和国は、民主主義的、近代国家的手続きを経て、アメリカ合衆国に対して正式に宣戦布告したのだ。
加えて賛成した議員の肌の色は、黄色を圧倒的多数としつつも、褐色、黒色、白色と全ての色を見ることができた。
また一方では、海軍主力である太平洋艦隊を大西洋、カリブ海、メヒコ湾に移動させるため、いち早く日本政府との交渉も開始された。
またフランス政府、カナダ自治政府、メヒコ政府、南米各国政府とも交渉や接触を開始した。
ただし対ブリテン外交は、当面様子見された。
アメリカはブリテンの敵であるが、力がないと思いこまれている有色人種国家である自分たちと、ブリテンがまともに交渉に及ぶかが未知数だったからだ。
一方では日本政府が、蓬莱との交渉を友好的に進展させた。
蓬莱が不利な現状を踏まえて、自分たちの側から援助や支援が必要かとすら言ってきたほどだ。
これに対して蓬莱は、いくらでも必要となるであろう武器や兵站物資の輸出、優先的貿易権、アメリカとの貿易停止などを求めた。
これを日本側は快諾。
輸送船舶や鉄道車両の貸与や、自国商船や軍艦を用いた物資輸送すら申し出てきた。
しかし気持ち悪いほどの日本政府の動きには、当然と言うべきか裏があった。
当時日本は、クリミア戦争、アロー戦争と続いた対外戦争で国家財政が傾いていた。
また国内の戦争特需も消えて、大きな不景気に見舞われていた。
この二つを何とかしてくるのが、新大陸での大規模な戦争だったというわけだ。
そして日本は、当面不利な蓬莱に手を差し伸べる事を決めていた。
その方が戦争が長引いて、自分たちが儲けることができると考えたからだ。
加えて、太平洋にアメリカ軍が現れるわけがないという読みもあった。
ただし一部では、日本人特有のお人好しさから義勇軍や傭兵隊を編成して新大陸まで派兵したり、全国規模の蓬莱援助募金が行われたりしている。
最新鋭の軍艦も、自国配備分を後回しにして蓬莱に売却したりもした。
そして蓬莱連合は、当座の常備戦力の献身的犠牲と事実上の民兵の抵抗で時間を稼いでいる間に、短期間で近代的な戦争体制を固めていった。
確かに現時点では、国土を少しずつ明け渡し国民と国土に大きな犠牲と損害が出ていた。
アメリカ国境から五大湖東部の土地では、国民の疎開を守るための撤退戦が開戦初日から戦われていた。
北東部のイロコロ首長国は、既に誰もが肌の色など関係のない完全な総力戦状態だった。
ノイエスラントから南の中部はジワジワと後退しつつも踏みとどまっていた。
人口が希薄な南東部沿岸は、人口地帯のテキサスからの増援や援軍が間に合わずに、後退戦を行いつつの国土深くの侵略を許していた。
アメリカ側が人種差別を戦争に強く反映させたため、各地での犠牲もかなりに上っていた。
アメリカ軍占領地での虐殺事件も無数に存在した。
戦争全期間での蓬莱国民の犠牲者は、軍民合わせて50万人にも上っている。
しかし蓬莱軍の動きは早かった。
日本相手に準備されていた太平洋艦隊は、圧倒的戦力を以て大西洋、カリブへの回航を開始した。
移動に際しては、政府の交渉によって日本領大足、フランス領ギアナ、スペイン領キューバを借り受ける契約も成立した。
国の中心を横切る大陸横断鉄道からは、西海岸や中西部で準備された兵士達が続々と西部アパラチア方面各所に駆けつけた。
鉄道貨車で運ばれる兵士の山と、鉄道と併走する先民の騎馬部隊は、当時の蓬莱軍の状況をよく物語っていた。
逆に前線からの列車には、侵略から逃れてきた避難民が満載されていた。
新兵器ライフル銃の前に兵士ばかりか将校の犠牲も鰻登りだったが、勇敢だった常備軍の将校達は自らの犠牲と引き替えにアメリカ軍を押しとどめた。
また開戦当初、アメリカ海軍の海上封鎖とフロリダ方面から陸路の攻撃まで受けていた新折鶴は、駐留艦隊の活躍と多数の志願兵と義勇軍により守られ、アメリカ人の侵略を遂に許さなかった。
そしてこの時活躍した兵器が、クリミア戦争の戦訓を受けて編成されたばかりの鋼鉄艦隊だった。
軍艦のほとんどが、それまでの中型蒸気フリゲートに鉄板を鎧った場つなぎ的な中途半端なものだったが、アメリカ海軍よりも優位に戦闘を行うことができた。
また蓬莱側がメヒコ湾艦隊を蒸気艦中心に据えていた事も、見逃せない戦術要素だった。
アメリカ軍に多数属していた帆船を、気象条件につけ込んで多数撃破した。
ミシシッピ川への遡航も許さなかった。
そしてこの時活躍した人物が、不敗の名将や今孔明と言われた中華(客家)系フランス人の楊将軍だった。
これまでの軍歴で既に大きな名声を得て若くして大佐となっていた楊将軍は、この時雑多な守備隊しかいなかった同地で臨時に少将(元は大佐)に就任。
新折鶴愚連隊と言われた人々と共に、見事新折鶴の街と野戦要塞群を援軍到着まで守り通し、当人も中将に特進した。
一方西アパラチアでは、五大湖方面から続々と送られて来る義勇兵によって短期間で著しく規模が拡大した。
最初に到着したのは、ミシシッピ流域の平原中から駆けつけた、数万の規模の先民の騎兵部隊だった。
大地を埋め尽くす騎馬部隊に、アメリカ軍ばかりか現地を死守していた味方のドイツ人移民たちも度肝を抜かれたという。
さらには、少し遅れて師団規模の正規軍部隊が続々と到着した。
彼らは手に手に、最新兵器である旋条銃(ライフル銃)を持っていた。
また正規軍は、豊富な弾薬と野戦食料などの兵站物資も有していた。
これを可能としたのが、五大湖沿岸の巨大な鉄鋼生産力を中心とした様々な工業力だった。
鹿後市や地峡市の工場は24時間体制の全力操業で武器と弾薬を量産し続け、この時多数の女工が動員されて出征した男に代わって懸命に働き、後の女性権利拡大につながっていく。
開戦から三ヶ月もすると、もはや蓬莱の一方的な不利ではなくなっていた。
そして少しちぐはぐだった蓬莱という名の人工のモザイク国家は、国を挙げての戦争で一つになった。
国と国民が統合した瞬間だった。
1862年3月、開戦から半年が経過した。
戦争は占領地の面から言えば、依然としてアメリカが優勢だった。
先に攻め込んだのがアメリカだったからというのが一番の理由だったが、蓬莱の余りにも早い戦時体制への移行を前に、アメリカが国家財政と経済の破綻も気にせず急いで総動員体制に移行した事で兵力の均衡も保たれていた。
最初の冬営を経た1862年春の時点で、アメリカ軍120万人、蓬莱軍140万人が各地で睨み合う状態になっていた。
しかも蓬莱側には徴兵対象外の人々を中心にした義勇兵や民兵が20万人も存在して、各地で正規軍を支援していた。
この頃になると、主に先民の騎馬戦士達も旋条銃を手にして正規軍に編入されていたので、蓬莱での民兵や義勇兵の規模がいかに大きかったかが分かるだろう。
戦線は11月末に一旦停滞して、翌2月半ばまでの約三ヶ月が冬営となった。
この間アメリカは占領地での兵站線確保を行い、双方の国は国中を挙げて兵隊と物資を前線に送り込む準備を行った。
蓬莱の広大な国土の各地では、総数300万人近い巨大な兵団が順次訓練と装備の受け渡しを受けており、一年以内に全ての兵士が戦列に参加予定だった。
旅団や師団、軍団が各地で編成され、師団の番号だけで500番代までが用意された。
「方面軍」の単位のさらに上位として、「軍集団」の言葉が世界で初めて登場したのはこの時の事だ。
しかも蓬莱は、統合軍総司令部を軍の最上位に置いて、北から順にノイエスラント軍集団、西アパラチア軍集団、南方軍集団の三つ軍集団を編成予定していた。
これを聞いたモルトケが、慌てて蓬莱に多数の観戦武官を派遣したほどだった。
これに対してアメリカは、初期での損害を差し引けば既に動員の限界に達していた。
残り動員可能な兵士の数は、国家経済を無視しても蓬莱の十分の一に過ぎなかった。
これ以上の動員を行うときは、自分たちの領土に踏み込まれた時だった。
しかも侵攻した部隊の三分の一近くは、占領地でのゲリラ兵との戦いや兵站線の維持などにかり出されており、すでに攻勢能力は失っていた。
最前線の各地では、既に野戦要塞や塹壕線の構築が熱心に進められていた。
海でも蓬莱の太平洋艦隊が大西洋に到着すると、状況が一変した。
その前にアメリカ海軍は、蓬莱メヒコ湾艦隊に決戦を挑もうとしたが、艦隊保全と相手側の巧みな戦闘を前にそれを果たせなかった。
海岸要塞への無理な攻撃と蓬莱側の奇襲的攻撃で、かえって大きな損害を受けていた。
そして太平洋艦隊先遣の高速蒸気艦隊がアメリカの予測より早く到着して、新折鶴包囲艦隊を後方から攻撃。
アメリカ海軍は、気象条件に全く関係なく高速で動き回る蓬莱艦隊を前に大打撃を受けた。
しかも後続として到着した蓬莱太平洋艦隊本隊は、フロリダの拠点マイアミを攻撃。
連れていた陸戦隊を一時的に上陸させて、海賊よろしく略奪と破壊を欲しいままにした。
しかも彼らの艦隊には、ジョリー・ロジャースつまり海賊旗が翩翻と翻っていたという。
そして蓬莱統合艦隊として再編成された蓬莱海軍は、その後続々と増強されていった。
開戦半年の時点で、アメリカ海軍は既にメヒコ湾から叩き出されており、フロリダ半島の制海権も失いつつあった。
戦争の転換も、もうすぐに迫っていた。