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ジパング大航海時代  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ25「開戦前の新大陸情勢」

 1836年、スペイン領のままだったフロリダのアメリカ人移民がスペインからの独立を宣言して、フロリダ共和国が建国された。

 蓬莱の独立騒動による新大陸全体の混乱状態につけ込んだ動きであり、独立宣言当初からあまり快い目で見られる事はなかった。

 しかし、旧大陸勢力を新大陸から追い出すというその一点において、フロリダの独立は新大陸で歓迎された。

 

 スペインは何度か独立を阻止しようと無理を押して出兵したが、ただでさえ弱体化していた国家財政の上に戦費がかさむばかりで芳しくなかった。

 既に軍備も酷く弱体化していたので、まったく迫力に欠けていた。

 アメリカのモンロー主義と事実上の内政干渉も、スペインの動きを大きく鈍らせた。

 スペインはヨーロッパ各国に支援を仰ごうとしたが、他国はフロリダよりも蓬莱の独立に注目していた。

 しかも蓬莱で動き回っている独立勢力の規模を前に、新大陸への干渉や出兵を渋った。

 加えて、新大陸のほとんど全ての国がフロリダ独立を支持したので、ナポレオン戦争以後退勢が決定的となっていたスペインは、引き下がらざるを得なかった。

 

 フロリダ共和国が成立したが、それはアメリカのデッドコピーのような国家であり、しかも陸続きのアメリカ南部とよく似た地域となった。

 奴隷農場が以前同様に肯定され、アメリカの砂糖供給地となった。

 互いの関税もなきに等しく、誰がフロリダを独立させたのか疑う余地がなかった。

 

 そして1845年、今度はフロリダ共和国は自らアメリカ合衆国への併合を発表する。

 アメリカもこれを受け入れた。

 

 当然と言うべきか、独立運動の中心となったのは、アメリカから移民したアングロ・プロテスタント系の白人達だった。

 フロリダに住んでいたスペイン系移民の子孫達は、傍観するかむしろ独立を望んではいなかった。

 先住民族系の人々や黒人奴隷たちも多くは、フロリダ共和国独立の頃からフロリダから逃げ出していた。

 

 隣から眺めていれば、アメリカという国が純粋な白人以外に住み難い場所だというぐらいは誰でも理解できたし、アメリカ独立後にフロリダで急速に増えたアメリカらの白人移民者の振る舞いが多くを教えていた。

 自由と平等を謳いながら、その実自分たちに都合の良い無軌道な欲望の開放を行っているに過ぎないからだ。

 蓬莱が砂糖大根ビートの栽培で砂糖の自給を図る努力をしていた事と比べると、アメリカのやり方はあまりに露骨だった。

 

 なお、この一連の流れで一時問題となったのが、フロリダに連なるスペイン領のまま半ば放置されていたメヒコ湾岸植民地だった。

 

 メヒコ湾岸植民地は、昔からミシシッピ川西岸にまで及んだままだった。

 すぐ先には、ミシシッピ川河口部の蓬莱連合のメヒコ湾最大の拠点となっていた新折鶴市があった。

 そして蓬莱側は、フロリダ共和国独立に間髪を置かず、日本人移民と先住民保護を理由にメヒコ湾岸植民地を武力でいち早く制圧する。

 現地では、蓬莱独立軍とアメリカ軍とのにらみ合いにまで発展した。

 

 しかし圧倒的な国力差から、メヒコ湾岸植民地は既成事実的に蓬莱の領有となり、蓬莱はフロリダ共和国の独立とさらにはその後の併合を承認することで当面はアメリカと手打ちとした。

 

 つまり蓬莱とアメリカの関係は、建国当初から対立していたと言えるだろう。

 


 アメリカはフロリダを飲み込んで、少しばかり入植地を増やすことができた。

 

 しかしアメリカ国内で何もかもが足りない状況に、根本的な変化はなかった。

 1848年の自由主義革命とドイツ立憲帝国成立の混乱以後流れ込んできたドイツ系移民と、ドイツ、オーストリア地域に住んでいた東欧系の移民は、到着先のニューヨークで話を聞きつけると、かなりの数がアメリカでの生活に絶望してしまう。

 農地がタダ同然で得られないのであれば、移民する価値は極めて小さかったからだ。

 しかし、今更故郷に帰ることもできなかった。

 

 このため過半数がやむを得ずアメリカに腰を据えるも、ごく一部がカナダを目指した他は、残りの殆どが言葉と民族の壁を無視して蓬莱を目指して西に進んでいった。

 一部の者は、新大陸の話をヨーロッパの港で聞きつけると、南アメリカ、ラテンの大地を目指したりもした。

 この時期頃から、アルゼンチンのパンパにドイツ系移民が増えている。

 

 タダ同然で得られる農地がないアメリカに、用などなかった。

 移民の多くは、誰かの経営する農場や工場で働きたいのではなかった。

 新天地で自分の農地を持ちたいのだ。

 そして広大な蓬莱には、温暖な気候と広大で肥沃な平原が広がっていた。

 

 蓬莱政府は、ヨーロッパからの新たな移民を歓迎した。

 セントローレンス川を遡って、五大湖最初の湖に位置するオンタリオ湖の蓬莱領内に、無理を押して移民を受け入れるための港湾設備まで整備した。

 同じ白人でもブリテン系でないので、蓬莱にとって彼らはそれなりに歓迎すべき移民者だった。

 このため蓬莱政府側は、公用語はあくまで日本語として政府機関や軍などで働く場合は日本語の習得を求めるも、個人レベル、地域コミュニティーレベルでは母国語の使用を他の民族同様に認めた。

 また文化や生活習慣についても寛容さを示し、蓬莱が自由の国である事を強調した。

 同じ地域での一定数の同意さえあれば、白人中心の自治も認めた。

 宗教や慣習に関しても、人道に反しない限りは全て認めた。

 ただし、人種間の差別、階級、宗教に関する問題については、一切持ち込んではならないと強く求めた。

 また蓬莱の国民としての誓約も行わせて、故郷との繋がりも必要最小限とするように指導した。

 特に政治的なものは、ほぼ禁止された。

 これは白人ばかりではなく、一部の中華地域の移民の問題でもあったので、蓬莱政府は移民者に蓬莱の民となる事を求める向きを年々強めるようになった。

 

 そしてドイツ系、東欧系移民の多くは、白人一般の価値観として相応の偏見を持っていたが、植民地や統一国家を持たない地域の住民だった事もあり、人種差別という点で彼らの心理的ハードルはまだ低かった。

 文化や暮らしの違いも、互いの努力による克服が行われた。

 

 また蓬莱領内では奴隷に関連する全てが厳しく禁じられている事も、新天地がどのような場所であるかを新たな白人移民者達に教えた。

 蓬莱は、通過してきたアメリカよりも自由の国だった。

 奴隷として使われている黒人達が、怒りや絶望以外で表情豊かなのを目の当たりにしては、価値観や考え方を変えざるをえなかった。

 

 そしてかなりの数のドイツ系、東欧系が蓬莱に流れ込み始めると、アメリカ一辺倒だったアイリッシュ系移民も自作農になることを求めて、かなりの数が蓬莱に入植してくるようになる。

 しかもアジア系の差別度合いは確かにアングロ系より低く、開拓すれば国から広大な農地が安価で手に入り、民族ごとのコミュニティーも公式に作れるのだから、文句を言う気はまったくなかった。

 何より当時の蓬莱は、税金が安かった。

 

 ただし全てのヨーロッパ系移民にとって、特殊な言語体系を持つ日本語の習得は難しいものがあった。

 「マイド」が何故商用推奨上での挨拶になるのか、日本語をある程度習得しても解けない謎も数多くあった。

 国民の多数派である日本人の文化や習慣と折り合いを付けるのも、なかなか大変だった。

 

 しかし蓬莱は移民の国であり、日本の特権階級だった武士やヨーロッパ大陸の貴族などの特権階級に頭を下げなくてもよかった。

 また農業以外でも、鉱工業など労働のなり手はいくらでも必要としており、無一文でやって来ても真面目に働く限り食べるに困る事はなかった。

 ヨーロッパよりも賃金が多い場合が殆どなので、真面目にさえ働けば自作農になるための貯金もすぐに貯まった。

 衣食住の多くの物価も安かった。

 蓬莱が推し進めている共同体単位での入植事業は、個人主義の白人達に受けが悪かったが、共同体を組織したり既存のものに共同体に入れば、融資や様々な保障も受けることができた。

 賃金も労働環境も、故郷よりずっとよかった。

 犯罪者、詐欺師、そして怠け者には厳しい国だったが、勤勉を旨とするドイツ移民にとっては望むところだった。

 他の白人移民達も、蓬莱に腰を据えると決めると懸命に働いた。

 当時の蓬莱は、働けば報われる国だった。

 

 ただし蓬莱の古くからの中心地である西海岸地域は、さすがに東洋色(日本色)が強すぎてこの時点でのヨーロッパ移民が馴染むのは難しかった。

 西海岸北部を中心にして、日本本土と同じような日本風城郭が当たり前の風景としてあったりするのだから、そこはまるで東洋世界だった。

 

 しかも東京府や聖府、多天使府には東洋からの移民船が続々と到着しており、勤め先探しは中東部の方がはるかに簡単であった。

 当然と言うべきか、もの凄い勢いで鉄道が東に向けてばく進しつつあった。

 自然の脅威も、人海戦術によって克服していた。

 

 また大陸横断鉄道が引かれつつある中部の大平原、大草原地域の多くは、先住民(先民)が広大な領域と権利を有していた。

 過度の開拓や移民は国法と地域法の双方によって禁じられ、無視する移民との衝突や軋轢も相応に発生した。

 白人にとって自然は克服するものだが、先民を中心に一部の有色人種にとって自然は共生すべきものだという意識の違いから来る衝突だった。

 また共有と固有の概念が違いすぎるため、まとまった土地(農地)を個人所有できない地域が多いことも問題を生んだ。

 そう言った点で蓬莱の一部は、どこか原始共産主義的な制度を持つ国だった。

 日本人移民達も、新大陸では共同体や村、一族ごとに土地資産を有するのが一般的となっていたし、地域によっては日本本土と似た領主や名主を持つ場合も多くあった。

 


 なお蓬莱の総人口は、ドイツ、東欧から新大陸を目指す移民の波が一段落する1860年までに、約6800万人にまで拡大していた。

 この数字は、ロシアを除けば文明国で最も多い人口だった。

 

 ウィーン会議から約半世紀、五十年を待たずして総人口は二倍以上に拡大していた事になる。

 大量の移民と、開拓と発展に連動した非常に高い人口増加率の賜物だった。

 当時の他の新大陸国家は、カナダが400万人、アメリカが1800万人(約一割は黒人奴隷)、メヒコが1100万人なので人口差は歴然だった。

 しかも総人口のうち約5000万人が、日本民族(混血度合いが5割以上の場合)に属していた(※日系5100万、先民900万、白人300万、他の有色人種500万人)。

 

 その象徴が統合議長であり、20世紀も半ばに入るまで日本系から出続けていた。

 新大陸の雲行きが怪しくなっていた1859年に議長となった人物も、日本人移民の子孫の井伊直弼だった。

 

 彼の先祖は、織田幕府で最も有力な外様大名だった徳川氏の大名級の重臣だった。

 だが徳川氏が外様であるため、幕府からは徐々に警戒されるようになった。

 このため徳川氏は幕府への忠誠心を示すため、海外派遣や開拓指導という形で家臣の切り離しを余儀なくされた。

 織田信宗の頃に井伊家は、蓬莱の開拓促進と防衛という名目で日本列島から事実上切り離されることになった。

 しかも事実上の屯田兵としての転封扱いだったため、一族郎党全員が蓬莱に追いやられた。

 不満を言ったり不履行があればお家取りつぶしなのだから、逆らう余地も無かった。

 大将軍と言われた信宗の治世には、そうした日本人に対する強引さによって日本人圏の拡大が行われていたという、象徴的な出来事の一つだった。

 

 なお、移民先に飛ばされた大名や武士は、幕府から与えられる最低限の禄(給与)以外に収入がなかった。

 当然と言うべきかほとんど領民を持たない状態でのスタートが多いため、最初に持ち込んだ財産と人材を元手に自力で立って歩かねばならなかった。

 でなければ家臣団を養うこともできず、それが出来なければ幕府にとがめられお家取りつぶしという場合も多々あった。

 しかも10年ごとに禄は下げられ、30年で日本からの給与はなくなるという厳しいものだった。

 織田時代の膨張期、辺境に植民や屯田を余儀なくされた大名や武士は、まさに命がけだった。

 それでも日本列島で埋もれてしまうよりはと賭けに出る武士や、主家を守るために犠牲になる者も多く、織田時代の海外拡張を途切れさせる事はなかった。

 

 このため蓬莱に根付いた大名や武士には苦労人が多く、同時に日本本土(織田幕府)を恨んでいる者も多かった。

 

 井伊家も瞬く間に貧乏大名(貴族)に落ちぶれ多くの地位を失うも、何とか開拓で生き延びて人脈だけは維持し続けた。

 苦労と様々な努力、犠牲により、何とか開拓者として成功を収めた。

 

 彼の家は、そうした日本人の蓬莱開拓の一面を象徴するような家だった。

 伊達(侯爵)家のようにまるで蓬莱の王族のような富と華麗さを誇る成功者の方が、武士階級出身者では例外だった。

 蓬莱武士の中には、下級武士を中心に従来の封建制に疑問を持ち、自由主義など先進的な思想を是とする者も多くなった。

 

 そして井伊家移民から約百年後、井伊直弼自身はアメリカの独立が確定した1815年に井伊家長男として出生し、学生だった20才で独立戦争を体験する。

 そして独立戦争の中で自由主義に傾倒し、学生達の中でも指導的地位となった彼は、自らの家を逆用する形で勢力を拡大し、学生達を煽り、蓬莱独立の中で頭角を現した。

 統合会議の最初で最後の学生議員の一人が直弼だった。

 

 その後直弼は、そのまま政界に身を置く。

 井伊家と自分自身の人脈と名声を用いて蓬莱自由党を立ち上げ、半ば日本列島に対する復讐心で蓬莱そして日本圏各地の自由主義運動を牽引していく人物となっていった。

 ご先祖の象徴色だった深紅の装束(赤備え)は蓬莱自由党に引き継がれ、選挙や政治活動上で目立つ存在となった。

 そして1858年の選挙において、遂に統合議長の座へと上り詰めた。

 

 井伊直弼は、日本列島の伝統と蓬莱の新進気鋭さが組合わさった、日本人らしい人物だったと言えるだろう。

 そうした人物が、強大な国家として隆盛しつつあった蓬莱を力強く牽引していた。

 

 なお西海岸の総人口は、加州を中心に伊達州の北部湾岸地帯を含め既に3000万人に達し、なお拡大中だった。

 巨大な工業地帯が形成されつつある五大湖沿岸も、ミシガン湖の鹿後市を中心として域内人口で1000万人を数えるまでに拡大していた。

 南部の中心である新折鶴も、周辺部を含めると100万人近い都市圏を持つほど拡大していた。

 当然ながら、増えすぎた分は続々と他の人口希薄地へと流れつつあった。

 メヒコ湾に近い場所、ミシシッピ川流域では稲作もできたので、日本人移民は順調に伸びていた。

 先民の権利が広く認められた中部ミシシッピ川流域の大草原のかなりも、既に住んでいる先民や日本人の他、東部から逃れてきた先民の手により巨大な穀倉地帯や牧草に変化しつつあった。

 丈の短い草しか生えない大平原地域は、先民によるバッファローの巨大な放牧地だった。

 過度な開発は民意と制度面から御法度とされていたが、それでもいくらでも開発できる場所はあった。

 

 そしてドイツ系の白人住民を中心にして、西アパラチア北部から五大湖(エリー湖)にかけて新たな工業地帯と都市群が形成されつつあった。

 海運と足下の石炭、五大湖西部の鉄鉱石が結びついて、一大鉄鋼地帯に躍進しつつあった。

 

 一つ一つの地域だけで、十分に国家としてやっていける規模であった。

 北西アパラチア地域を、かなりの規模(100万の単位)となったドイツ移民達はノイエスラントと呼ぶようになっていた。

 そして少し後には、そのままの名前で連合を構成する共和国も成立している。

 他にも日本名や先民の名による共和国が連合内には幾つも作られ、それぞれの国内法と政府を持つ政治組織を持っていた。

 

 なお蓬莱連合共和国は、小さな自治国家(主に共和国)が合体した形を取った巨大な連合国家体だった。

 そして独立を勝ち取った日本本国とブリテンを祖とする白人国家のアメリカ合衆国という二つの外敵の存在が、国家と国民を一つにまとめていた。

 またブリテンも、蓬莱にとっては潜在敵だった。

 

 ただし蓬莱は、積極的に敵意を国外に向けることは少なく、自分たちの中での暮らしが侵されない限りは比較的平穏な暮らしをしていた。

 欲望むき出しでなければ、すべての国民を満足させるだけの十分な富が、蓬莱の豊かな大地には存在したからだった。

 


 一方蓬莱連合の仮想敵の一つとされたアメリカ合衆国だが、完全な手詰まり状態だった。

 

 ほとんど詐術でスペインからフロリダを奪い取ったが、増える人口(移民)を前にしては焼け石に水だった。

 しかもフロリダは南部の奴隷地域であり、北部の中央政府が求める保護主義に最初から反発的であった。

 フロリダでも奴隷農場サトウキビのプランテーションの経営が一般的だったからだ。

 そして農地がないので、移民達の不満はたまり続けていた。

 

 しかも鉱工業生産力では日を追うごとに蓬莱連合との差は開いており、人口についてもミシシッピ川以東だけで既に蓬莱に並ばれつつあった。

 穀物生産力は比較にもならない。

 蓬莱連合は、新大陸で最も遅れて独立したにも関わらず、最も巨大で最も発展した国家だった。

 植民地支配中の日本人達が、お人好しにも植民地での様々な近代産業と人材の育成を行ったのが原因の一つでもあった。

 蓬莱では、独立前から公共学校教育が行われていたほどだった。

 

 ただし蓬莱連合は、今のところ外敵と言えば太平洋の向こうを強く見ており、比較的低調な軍事力の整備も太平洋を重視していた。

 

 革命を経て国民国家として成立した日本帝国が、徐々に国家体制を整えて国力と国威の復活を図っていたからだ。

 そして国民国家になろうとも、旧宗主国というのは大きな圧力だった。

 しかも日本列島での動きは、クリミア戦争、アロー戦争により強化された。

 何しろ二つの戦争で、日本の植民地だった大蝦夷はユーラシア大陸北部をほとんど領有するほど巨大化していた。

 域内人口と国土面積でも、日本は蓬莱よりも依然として巨大だった(※当時は依然として領土面積が世界一だった)。

 いつ何時、再び力を蓄えた本国人が復権を賭けて攻め寄せてくるのかと、新大陸西海岸の日本人達は恐れていた。

 

 これを示すように蓬莱は、太平洋の海軍力を増強して、太平洋の開発を積極的に実施していた。

 太平洋の真ん中にあるハワイ王国を影響下に置くのは半ば当然として、各地に自らの旗を立てた。

 そして日本や南天連邦と争うように、19世紀中頃から太平洋各地を自国領とした。

 ヨーロッパ諸国がこれに気づいた頃には、太平洋のほとんど全てが日本人のものになっていた。

 例外はタヒチに代表される南東太平洋地域と、日本人が入植を忘れていたヌーベルカレドニア島で、ナポレオン三世の積極政策と日仏友好の流れから、フランスがその一角を得ることに成功していた。

 

 そして1860年までに日本人(+一部フランス人)による太平洋のいち早い分割を終える頃、アメリカ合衆国の蓬莱に対する恐怖がピークに達する。

 


 1859年秋、西海岸の玄関口聖府市と五大湖沿岸最大の都市鹿後市の間に大陸横断鉄道が開通した事が原因だった。

 ミシシッピ川平行鉄道と合わさって、蓬莱の流通網が劇的なまでに進化したからだ。

 

 今までは六龍山脈を越える厳しい道を行かねばならなかったため、蓬莱の発展と流通、国全体の流通には常に足かせが付いていた。

 だがこれからは、鉄道の巨大な輸送力が全てを変えていく事が予測された。

 そして西海岸から溢れた日本人達の力こそが、こうも早く大陸横断鉄道の敷設という大事業を行わせたのだった。

 

 しかしこの頃には、蓬莱側のアパラチア各地や五大湖一帯には既に無数の鉄道が敷設されており、ミシシッピ川流域にも鉄道網が広がりつつあった。

 新大陸で最も人口密度の高い西海岸中枢部は、既にヨーロッパ先進地域のように網の目のような有様だった。

 つまり数日で西海岸からアパラチア山脈の西側に大軍が移動できることを意味しており、これがアメリカの対蓬莱脅威を大きく増大させたのだ。

 

 ただし、蓬莱には弱点もあった。

 陸軍の整備が遅れていたのだ。

 というより、税金及び軍事費を抑えるために、意図的に大規模かつ全方位的な陸軍の整備を行っていなかった。

 新大陸では国力面で圧倒的優位にあるので、誰かが不用意に殴りかかってくる事は当面あり得ないと判断されていたからだとも言われている。

 また民兵組織が充実していた事も、陸軍の整備の遅れを助長していた。

 それに、同じ民主共和制を敷いている国同士が戦う事はあり得ないと、蓬莱国民の多くが内心思っていた事も、蓬莱の陸軍規模が小さいことを民意として肯定していた。

 

 一方でアメリカ合衆国は、帝国主義路線を強めているブリテンに備えるためとして、1840年代から強引な軍備増強を俄に開始していた。

 

 事実当時のブリテンは、インドを完全に飲み込みつつあり、チャイナを蚕食し、南アフリカとエジプトを起点としてアフリカ内部へ突進する気配を見せつつあった。

 

 宿敵とされる日本やフランスと、帝国主義国家同士争うこともあったが、それでも利害関係の一致を見れば連携を取る事もあった。

 クリミア戦争がその好例だろう。

 それが列強というものだった。

 

 そして新大陸に対しては、ブリテンが依然として進出の足が掛かりを得ようと虎視眈々と狙っていた。

 

 一見アメリカの言い分は正しいように思えた。

 

 しかしアメリカの意図は別にあった。

 新大陸での優位を得るために、自らの優位が得られるうちに蓬莱に奇襲的攻撃を仕掛けて、少なくともミシシッピ川までを自国領とする事にあったのだ。

 

 そうしなければ、半世紀後には蓬莱に自分たちが飲み込まれてしまう。

 

 それが彼らの下した判断であり、戦争こそが決断だった。


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