フェイズ20「アメリカ独立と新大陸情勢」
1815年のウィーン体制成立に伴い、列強間の争いは若干沈静化した。
と言うより、誰もが大戦争に飽きていた。
加えて、莫大な戦費によって傾いた国家財政を立て直す時期でもあったのだが、またそれが新たな戦乱の火種ともなった。
そして列強は、神聖同盟や日本も含めた六カ国同盟を結んだように、革命の波に怯えていたと言えるだろう。
ウィーン会議の目的の一つも、国民国家と革命を封じ込める事にあった。
しかし革命の第一波は、ナポレオン戦争に始まっていた。
ナポレオン戦争においてブリテンは、アメリカ植民地で日本と対決し、当初はアパラチア地域で日本とブリテンの間で激しい戦闘が行われた。
ところが日本側の兵力や住民の数が圧倒的に多すぎて、一部では戦争どころか戦闘にもならなかった。
ブリテンはたまらず日本に新大陸での停戦を提案する。
日本人が、現地で不安を煽って集めた義勇兵や民兵を多数投入したのが原因だった。
蓬莱中原の有色人種にとって、ホワイト・プロテスタントは間違いなく脅威だった。
そしてブリテンというよりアングロ系白人達は、かつての恩人である先住民族(和名「先民=さきたみ」)に対しても劣勢に立っていた。
かつてピルグリム・ファーザーズを救った先民たちを、白人達は自らの貧しさを出発点とする強欲から野蛮人と定義して、酒や相手が理解できない自分たちの約束で騙し、部族間の争いを助長してきた。
対する日本人達は、西海岸で広がる際に言語的、経済的「同化」を進めた。
白人達は宗教観や民族観から差別に走ったが、日本人は東南アジアと同様に、先民たちを単に現地の異邦人としか見なかった。
また日本人がもたらした天然痘の猛威が、日本人が新大陸深く入り込む前に先民達を「駆逐」していた事が両者の争いを無理矢理に減らしていた。
しかも日本人は、自分たちがそうだったように、先民たちが持たない文化をせっせと教えたりもした。
従わせたり駆逐や蹂躙するよりも、円滑な商売を行い優良な消費者になってもらおうとしたと解釈できるだろう。
日本人が言語を押しつけたのも、先住民の間に統一された言語がなく、さらに文字を持たず、加えて数学に関する知識が酷く欠落していたからだった。
これでは商売や共生に支障が出るので、半ばお人好しの親切心と自らの利便性から文明の伝搬を行った。
白人一般にとっては先住民は、突き詰めてしまえば邪魔な「もの」「自然物」だったが、日本人一般にとって先民たちはどちらかと言えば、「お客さん」だったのだ。
当然そうした考えは18世紀頃になるとかなり廃れたが、今度は先民たちの側が「目先の便利さ」という点ですぐれていた日本の文物を自らの中に取り入れ、さらには日本人との同化を進めた。
優れた文物をもたらすのが日本人なので、積極的に日本化する者も増えた。
アジア・太平洋各地からもたらされる洗練された料理や酒の魔力は絶大だったのだ。
しかも同化や共生は対等の条件の場合が多く、イスパニアよりも穏健な同化と日本人の「東進」は2世紀近くをかけて確実に進んでいった。
その後、日本人移民が一気に増える18世紀後半以後は日本人優位となっていたが、その頃には先民たちは日本人の勢力圏で一定の勢力を保持するようになっていた。
日本人の悪徳者の詐欺に引っかかる先民たちは、少なくとも蓬莱州では激減した。
ノヴァ・イスパニアとは違った状況で、蓬莱の大地で日本人と先民たちの種族的、文化的な同化と共存は進んでいたのだ。
そうした状態でミシシッピ川流域に日本人の勢力が広がり始めていたのだが、日本人達は自らの陣営内に組み込まれた先民たちを先兵として、次々に東部の現住部族を自らの陣営に引き入れていった。
自らの広大な領域への移民、白人領域での抵抗運動への援助、そして便利な文物の提供と教育の普及。
これらの動きは白人側、特にプロテスタント系白人の反発を招き、ナポレオン戦争での白人対有色人種の争いの一因となっていた。
ブリテン側が不利なのは当たり前だった。
しかし日本側も、戦費の不足とフランスから得た新たな植民地の安定を考え、ブリテンの提案を受諾。
比較的短期間で、新大陸での戦闘は終息した。
そして従軍した新大陸の日本人移民達は、当面の安定とフランスから購入された新たな入植地を得て満足した。
先民たち達も肥沃な大地の権利を、日本の承認を得るという形ながら得て、白人への敵意を新たにして移民や移住を行った。
これが1803年の事だった。
新大陸で戦略的に不利となったブリテンは、今度はナポレオン戦争で必要な戦費調達のために、新大陸植民地で増税を行って大きな反発を買う。
ブリテンは、本国が植民地を防衛する代償として、植民地人が費用を支払うべきだとして入植者に、砂糖、茶、タバコなど様々な物品に税金を課したのだ。
当然と言うべきか大きな反発を買った。
しかもこの時の日本は、ブリテンと明確に敵対していたため、本来ならアメリカ十三植民地とも対立する筈だったが、日本は狡猾にも十三植民地の独立勢力に資金や武器を提供した。
場合によっては、自らの領域内に拠点すら作らせた。
亡命者を募って民兵も組織した。
東部の十三植民地を追われた先住民は日本人に反発を示したが、まずは大元を断ち切るべきだとする日本人の意見を受け入れ、ほとんどの部族がブリテンを敵とする事にした。
つまり十三植民地にとって、日本及び先住民族は一時的に脅威ではなくなっていた。
ナポレオン戦争は、長年続いたブリテン本国の鎖から解き放たれる千載一遇の機会へと大きく変化したのだ。
かくして、アメリカ十三植民地で独立戦争が勃発する。
1806年には、フィラデルフィアでアメリカ合衆国の独立宣言が行われた。
総司令官には、長い間独立運動を続けていたジェファーソンが任命され、独立宣言と共に臨時大統領となった。
ブリテン本国は、何度も干渉しようとしたし実際干渉や戦闘も行われたが、その都度日本が新大陸での当時の停戦条約を反故にするのかと軍を動かして牽制した。
しかもブリテンは、十三植民地以外に新大陸に拠点はなく、港の使用もままならないため軍を送り込むのが難しかった。
加えて、主にカナダからのフランスの牽制と、日本から植民地軍に送られた武器の威力もあって、遂にアメリカ独立勢力は新大陸のブリテン軍駆逐に成功する。
この背景には、もちろんナポレオン戦争が原因していた。
ブリテンがヨーロッパで大きな軍事力を必要としてたり、アジアでも日本への牽制と対抗上兵力が動かせないと言う事情があったからだ。
また欧州列強の多くが、ナポレオンという要素があった当時ですら、ブリテンの増長を望んでいなかったことも原因していた。
しかもフランス市民は、自らが新たに皇帝を戴いたというのに、脳天気にアメリカの市民革命である独立を支援した。
だがこれは、自らの自尊心を優先した結果だったが、ブリテンの植民地を切り離すことによる優位を作るという戦略的行動となってブリテンを大いに苦しめた。
そして本国の防衛と戦争の勝利を優先したブリテンは、十三植民地独立を容認するに至る。
かくして、アメリカ合衆国は独立を果たした。
アメリカ合衆国独立は、戦争中に老齢のため退いたジェファーソンに代わり二代目大統領となったマディソンの代にウィーン会議で認められ、ここにブリテンはカリブ海以外での新大陸植民地のほとんどを失ってしまう。
前後してフランスでは、ウィーン会議で利権が認められていた新大陸のカナダに大幅な自治権を認めることを決定した。
独立戦争が行われる前に、自らの利権を残した形で厄介ごとを回避する事にも成功した(完全独立は1849年)。
またカナダには、フランス革命に前後して革命から追われ立場の多数のフランス系住民がケベックに移民していた事も、カナダで独立運動が起きなかった大きな要因となっていた。
ただしナポレオン戦争での事実上の敗戦による危機感があればこそ、この時フランスは賢明な判断が行えたと言えるだろう。
なおその後のカナダでは、言葉(カナダ公用語=フランス語)が比較的覚えやすいとして、フランス系移民以外にもイタリア系移民が19世紀後半に伸びていく事になる。
一方独立後のアメリカ合衆国では、貧民を中心にブリテン及びアイルランドからの移民が増加した。
新大陸植民地とは、元々は余剰人口もしくは貧民を「棄てる」ための場所だからだ。
しかし、あまり広くないと植民地人が考えていた自らの領内に、ブリテンやアイルランドから多数が移民してすぐにも飽和状態になってしまう。
先住民を駆逐しても足りなかった。
一方カナダの方は、フランス的外交の結果、日本や現地の蓬莱との間に密約があったため、自国系及びフランス語を話せる移民を優先的に認めたため、緩やかながら順調な発展を遂げることになった。
先住民も、ラテン民族的な感覚と人口自体が少ないため、一部で生き残ることができた。
そして、広大な版図となった日本の蓬莱州には、ヨーロッパ系の移民は少なかった。
というより、ブリテン、アイルランド、フランス以外のヨーロッパ系移民が増えるのは、もう少し後の事であった。
このため蓬莱州には、日本人と日本勢力下の住民が流れ込むだけとなっていた。
もっとも当時蓬莱州では、移民に関する人種面での規制や法の上での差別はほぼ皆無というほど低かったのだが、公用語がアジア系でも覚えにくいウラル・アルタイ語族の日本語である事と、支配者が日本人というヨーロッパ一般の人には様々な面で理解が難しい有色人種だったという事もブリテンからの移民が少なかった大きな原因だった。
移民した一部の白人も、蓬莱州に移民した日本人の中に比較的カトリック系キリスト教が広まっていることを聞きつけたカトリック教徒、特にナポレオン戦争で本国が荒廃したスペイン系の人々であった。
また一部のフランス人も移民したり、元からの住人はかつてのルイジアナ各地に残留している。
そして敢えて白人のみの競争で見た場合、二つの新大陸での移民競争は、19世紀前半の時点ではラテン系民族の圧倒的勝利だったと言えるだろう。
18世紀に入ってからの日本人は、一世紀の間に次々に広大な土地を得た事で、土地の開拓のために移民に関しては取りあえず誰でも優遇する措置をとっていた。
日本人移民との対立が深まりつつあった先民たちも例外ではなくなり、ミシシッピ川流域では独自文化以外で文明化と『日本化』を受け入れた先民が勢力を拡大した。
そして彼らは日本的ながら近代化していき、自らの自治領域を育てていく。
だが、先民単独では東海岸や北東部に陣取る白人に対抗できない事と、日本人達が白人に比べればマシだったので、何とか共生することができた。
連動して、未だアメリカ合衆国に残っていた先住民族の生き残りの殆ど全ても、順次蓬莱側に移住及び移民した。
十三植民地の先住民にとって、ホワイト・プロテスタントは悪魔にも匹敵する最低の連中だった。
何しろ、彼らが掲げた崇高な理想や理念は、白人にしか適用されないのだ。
一方で日本列島から新大陸西岸を目指す移民の流れは、農村部を中心として依然としてかなりの規模を維持し続けていた。
依然疑似封建制度の続く日本本土では、財産の長子相続が基本のため、次男以下とまともな配偶者を得られない女性は、成人したら移民するしかなかった。
また子供の労働力として、奉公や養子に出された子供も荒っぽい扱いで新大陸へと次々に運ばれていた。
日本の勢力圏で公私ともに奴隷商人はいない事になっていたが、「人買い」などと呼ばれる人身売買従事者はどこにでも存在した。
日本以外でも彼らは活発に活動して、安価なアジアの子供を買い漁って新大陸へと注ぎ込み続けた。
このため蓬莱で日本語を話し日本人と言われるもそうではない人の数は、当時相当な数に上っていた。
そして蓬莱での開拓による急速な自然増加もあって、ウィーン会議終了時点で蓬莱州の総人口は3000万人を突破していた。
これは二つの新大陸で最大の人口だった。
新大陸のどの地域でも、多くても数百万しかいない時代での3000万人だった。
しかも日本からの移民は、1833年以後再び大きな上昇線を描き、10年間で総人口の約一割に当たる300万人もの移民が増加した。
また1840年以後は、それまで華僑だけだった中華系移民が、清帝国の開国に伴って本格的に始まる。
日本の持つ海洋ネットワークを使って、瞬く間に増えてしまったからだ。
蓬莱自身の自然増加率も常に世界トップクラスであり、さらに半世紀の間に総人口が二倍以上に拡大するという、すさまじい勢いでの人口増加が続くことになる。
まるで第二次成長期の子供のようであった、という述懐が存在するほどだった。
なお日本が新大陸の多くを得たことで、大西洋側で衰退した産業が一つあった。
言わずと知れた奴隷産業である。
日本人は、日本が島国で基本的に閉ざされていたため、七つの海に出ても他民族を奴隷にするという観念に欠けていると言われる。
また人間をあからさまに人間以下の動物並として扱う考えがどうしても持てなかったからだとされている。
また大西洋のような奴隷供給地がなかったり、地中海世界に存在した激しい勢力争いがアジアになかったためだとも言われる。
また日本人達は、白人一般のような人種偏見や差別にまでは至らなかった。
事実、新大陸でも貧農や労働農民は多数存在し彼らの生活は困窮したが、奴隷や農奴という形には遂にならなかった。
日本の有する勢力圏内でも同様だった。
人買いも横行したが、主に社会の底辺に対してで、これも奴隷という扱いにまではなっていなかった。
少なくとも制度として行われることは、法度上においてもかなり厳しく禁じられていた。
これは日本人以外の先民や中華系、もしくは白人や黒人を日本人が使った場合でも同様だった。
少なくとも日本の法では、最低限のレベルではあっても人間として扱った。
アジアには、いくらでも人が溢れていたのが原因の一つだったと言われている。
ただし苦力という中華系伝来の言葉は一般的に使い、貧者を最低限の使役に従事させることには抵抗は感じていなかった。
賤民やえた、非人という日本の差別階級や言葉も、新大陸ですら完全になくなりはしなかった。
一方で蓬莱州では、独自の政策として西欧で進みつつある産業の革新的発展に対して、強い脅威と同時に高い習得の熱意を見せていた。
今まで通りの開発では、余りにも広大な領域の開発がとうてい追いつかないからだった。
移民も人口増加も急速で、急ぎ対応が求められた。
先民たちを中心に自然破壊の声が早くも言われたが、白人勢力への対抗を理由に多くが肯定された。
このため日本本土よりも早い速度で産業革命が進展する。
ブリテン以外のヨーロッパ列強より早い時期となる1830年代には、産業革命を達成している。
鉄道の普及も異常なほど急速だった。
しかも蓬莱各地に豊富な地下資源が見つかったため、開発と産業革命も順調となった。
また一方では、ノヴァ・イスパニアと呼ばれていた広大な地域で、ナポレオン戦争でのイスパニアの決定的な衰退を受けて、各地で独立機運が急上昇した。
早いところでは1811年に独立宣言が出され、おおむね1820年前後に独立を達成した。
またポルトガル領だったブラジルも独立を達成し、ここにラテン大陸のほぼ全ての地域が独立を果たした。
そしてラテン系の新大陸人達は、自分たちの中に混血が多いため白人国家ではないと考えられているという不安感が大きく、またそれまで支配者だったヨーロッパ列強を恐れるが故に、ヨーロッパ以外で唯一力を持つ日本及び蓬莱との当面のつながりを求めた。
そして日本への依存のため、彼らの大陸の南端部にある大足地方(大足州)は、半ば無視されていた。
土地的に貧しい事もあって移民も人口拡大も小さく、日本領のまま保持される事になる。
しかしその日本では、混乱の中から大きな変化が進行していた。